―という無言の相談だ。
 泰軒は、すぐその意を汲んで、
「あなたのお心ひとつじゃ、はたからはなんとも言えぬ」
「作爺ちゃん、どこかへ行くの?」
 のりだすチョビ安の尾についてお美夜ちゃんも心配げに、
「お爺ちゃん、どこへも行っちゃアいや!」
 作阿弥は、ふたたびチラと眼をあいて、幼い二人へ一瞥《いちべつ》をくれた。
 この老体。
 かつは病後のこと。
 遠い日光へ出かけて、精根のあらんかぎりをしぼりつくし、神馬を彫る! 自分の持っているすべてを、この一作へたたきこむのだ。全生命を打ちこみ、一線一線命をきざむのだ!……その彫りあがったときが、作阿弥の命のなくなるときにきまっている。
 この申し出を受けるとすれば、それは、死出の旅路。
 お美夜ちゃんとチョビ安の、二人のかあいい者とも、これが永《なが》の別れになる――。
 作阿弥は、迷っているのである。
 沈黙を破って泰軒が、思い出したように、主水正へ、
「それはそうと、どうして作阿弥どのがここにおられることを……イヤ、このトンガリ長屋の作《さく》爺さんが、作阿弥のかりの名であることを、尊台《そんだい》においてはいかにして見やぶられたかな?」
 主水正はしばしためらったが、
「神馬を彫らせて日光御廟に寄進《きしん》したいと、てまえ主人柳生対馬守が思いたたれたのですが、馬の彫刻といえば、誰しもただちに頭に浮かぶのが、この作阿弥殿。いつのころからか世にかくれて、巷にひそんでおられるとのこと……八方手をつくして捜索いたしましたなれど、皆目行方知れずで、これは、あきらめるよりほかあるまいと存じおりましたやさき、ある筋より、当長屋の作爺さんという御仁こそ、作阿弥殿の後身じゃともれ聞きましてナ」
 チョビ安が口をはさんで、
「ねえ、作爺ちゃん! お爺ちゃんは、ただのお爺ちゃんだよねえ。ただの、トンガリ長屋のお爺ちゃんで、そんな人じゃアないよねえ」
「ウム、そうじゃとも! ただの作爺さんだとも!」
 と作阿弥は、ニッコリうち笑み、
「田丸殿……と申されましたな。やっぱり拙者は、お聞きのとおり、ただの、このトンガリ長屋《ながや》の作爺じゃ。そのほうが無事らしい。せっかくのお申し出《い》でながら、この儀は、かたくおことわりするほかはござるまい。わしには、もう、鑿《のみ》を持てぬ……」
「その、ある筋とは?」
 と、泰軒が主水正にきいていた。

       五

「大岡越前守殿……」
 と田丸主水正は、ソッとうち明けるように、早口につぶやいた。
 南町奉行大岡越前守が、このトンガリ長屋の作爺さんこそ稀代の名手、作阿弥であることを、そっと柳生家へ知らせてくれたというのである。
 聞く蒲生泰軒の眼が、チカリと光った。
「ウム、彼なれば早耳地獄耳、江戸の屋根の下の出来ごとは、一から十まで心得ているにふしぎはない。そうか、越州から知らせがあったのか」
 ひとりごとのような泰軒の言葉。
 が、どうして忠相《ただすけ》が、この作《さく》爺さんの前身を知っていたか、また、それをいかにして柳生へ通じたか、くわしいことはわからないけれど。
 いま泰軒の言ったとおり、江戸の大空に明鏡をかけたように、大小の事々物々《じじぶつぶつ》、大岡様の眼をのがれるということはないのですから、この、巷に隠棲する作阿弥を、かねてからそれとにらんでいたとしても、すこしのふしぎもないので。
 対馬守がこのたびの日光修営に、作阿弥の力を借りようとして、諸所方々へ手をのばしてその所在を物色しているということも、江戸じゅうに網のように張りわたしたお奉行様手付きの者の触手に触れて、すぐ越前の耳に入ったに相違ない。
 壺でさんざんいじめられた柳生藩を、越前守は、助ける心だったのでしょう。
 知らせを受けた対馬守はこおどりして、ただちに今宵。
 こうしてこの江戸家老|田丸主水正《たまるもんどのしょう》に、迎いの駕籠《かご》をつけて、長屋へつかわしたというわけ。ところが。
 さっきからいかに辞《じ》をひくうし、礼を厚うして出廬《しゅつろ》をうながしても、作爺さんの作阿弥は、いっかな、うんと承知しません。
 ひとたびは主水正の必死のすすめで、ひさしく忘れていた芸術心が燃えあがり、よっぽど、やってみようか……という気にもなったようすだが。
 いま自分がこの長屋を出るとなると、かあいいお美夜ちゃんやチョビ安は、どうなる?
 泰軒さんに頼んでゆけば、大事ないとはいうものの、老先《おいさき》の短い身で、この愛する二人に別れる悲しみを思うと、それは、点火された芸術的興奮に、冷却の水をそそぐに十分だった。
 泰軒先生は、しっかと腕をくんで、うつむいたまま、無言。
 チョビ安とお美夜ちゃんは、左右から作阿弥の膝にとりすがって、かあいい眉にうれいの八の字をきざみ、下から、じっとお爺ちゃんの顔を見あげています。
 恩愛と、生死を賭けた芸術心との、二|筋道《すじみち》……。
 石のように動かない作阿弥、かすかに口をひらいて、主水正へ、
「大岡……大岡越前守か。うむ、いつぞやこのお美夜|坊《ぼう》が、大岡どののお屋敷へお届けものをして、じきじきにお目どおりを許されたさい、これの口《くち》から越州殿《えっしゅうどの》にも、お願いしてあるはずじゃが……」
 と、ハッと心づいたように、
「ウム、そうじゃ!――頼みがある。対馬守様に、お願いがあるのじゃ。聞いてくだされ。これ、ここにおるチョビ安という者は、貴殿の御藩、伊賀国柳生の里の生れだそうじゃが、父も母もわからぬもの。こうして江戸へまいって、幼い身空で世の浪風にもまれておるのも、その、顔も知らぬ父母をさがし当てんがため。そこで田丸氏、願いというのはほかではない。貴藩の手において、このチョビ安の両親をさがし出してはくださらぬか」

       六

「同じ伊賀なれば、さだめし、チョビ安の両親を知る者も、ないとはかぎらぬ。藩中に広く手をまわして、おたずねくださらば、思わぬ手がかりもつくであろうが」
 作阿弥の言葉に、主水正はおどろいた眼をチョビ安へむけて、
「ホホウ、このお児《こ》は、伊賀の者か。ハッハッハッ、そう言えば、道理で、眉宇《びう》の間《かん》に、年少ながらも、人を人とも思わぬ伊賀魂《いがだましい》が、現われておるわい。イヤ、あらそわれんものじゃ」
 何を思ったかチョビ安は、それを聞くと、グイと小さな胡坐《あぐら》をかいて、
「ヘッ、笑わかしゃがらア。お爺ちゃんを引っぱり出してえもんだから、急に、おいらにまでお世辞を使ってやがる。ウフッ、その手にはのらねえよ」
 主水正は図星をさされて、苦笑の顔をツルリとなでながら、
「イヤ、どうも、辛辣《しんらつ》なものですナ。これ、チョビ安どの……同じ伊賀の者と聞いて、なんだか急に、なつかしゅうなったワ」
 すると、何事かを決心したらしい作阿弥は、クルリと主水正へ膝を向け変えて、
「御相談がござる。貴殿の手で、このチョビ安の父母をさがし出してやろうと約束してくだされば、この作阿弥、ただちに長屋を出て、御用にあいたつよう粉骨砕身《ふんこつさいしん》いたすでござろう」
と聞いた主水正は、横手《よこで》を打ち、
「ウム、つまり条件でござりますな。当方において、チョビ安の両親をたずねるとあらば、これよりただちに、いまわれわれの手において集めつつある工匠《たくみ》の一人として、日光へお出むきくださる……承知いたした。チョビ安どのの父母は、拙者が主となってかならずともに発見するでござろう」
 泰軒がそばから、
「それでは作阿弥殿、チョビ安のために、日光御出馬を決心なされたのか。ゆくもゆかぬも御辺の心まかせじゃ。この泰軒は、何ごとも言うべき筋合いではござらぬ」
 これでチョビ安|兄《にい》ちゃんの両親が知れれば、お美夜ちゃんも、こんなうれしいことはない――といって、そのために、このたった一人のお爺ちゃんに別れるのは、死ぬよりつらいし……。
 と泣き笑いのお美夜ちゃん、小さな手で、作爺さんの膝をゆすぶって、
「お爺ちゃん、チョビ安さんのためなら、あたし、どんなさびしい思いもがまんするわ。ね、日光へお馬を彫りに、行ってちょうだいね」
 と、泣きくずれます。
 チョビ安たるもの、だまっていられない。
「おウ作爺さん、それはおめえ、とんだ心得ちげえだぜ。そんなにまで、おいらのことを思ってくれるのはありがてえが、いまおめえがいなくなったら、お美夜ちゃんにゃア一人の身寄りもなくなるじゃアねえか、おいらの父《ちゃん》やお母《ふくろ》のことなんか、どうでもいいから、その日光の話とやらを、ポンと蹴っておくれよ。ナア、作爺ちゃん」
 と左右から、チョビ安とお美夜ちゃんにすがられた作阿弥、同時に二人の手を振りほどいて、
「田丸殿、迎えの駕籠が、待たせてあるとおおせられたな」
 スックと起ち上がった。
「泰軒どの、何やかやと、長いあいだ親身も及ばぬお世話にあいなった。御迷惑ついでに、それでは、この二人の面倒をお願いいたしまするぞ。泰軒先生」
「これはまた、気の早い。もう御出発か。イヤ、心得た。あとのことは御心配なく……田丸殿さえ言葉をたがえねば、安の両親はおっつけ知れるであろうし、お美夜ちゃんは、及ばずながらこの泰軒が娘と思って――」

       七

 心境の変化は、突如として起こることがある。
 その例の一つが、司馬道場のお蓮様。
 もっとも。
 近ごろお蓮様が、何やら身のはかなさを感じ、心細さにうちのめされていたことは、事実だ。
 それはそうでしょう。
 あくまで排斥しようとした源三郎に、断《た》つに断《た》てない愛を感じたのですもの。みずから仕組《しく》んだ陰謀《いんぼう》と、この、おのが恋心とのあいだにはさまれた彼女の胸は、どんなに苦しかったかしれない。
 そしてまた。
 身を裂くような思いで、やっと愛着を振りほどき、りっぱに殺し得たとばかり思っていた、その当の相手の源三郎が!
 どうです!
 おどろいたことには、何事もなかったようなケロリ閑たるようすで、夕方、奥庭の植木に水を打っていた――。
 あれから何事もなく、ずっとこの道場にいて、もうもう毎日、平凡な日を持てあましている、といったように。
 渋江村の寮……火事――おとし穴……水責め……あれらはすべて、悪夢の連鎖? ではなかったか?
 と、瞬間にお蓮様は、わが眼を疑ったのもむりではなかった。
「アラッ! 源様では――!」
 思わず低声《こごえ》につぶやいて、横手に立っていた丹波の袖を、そっと引いたのでした。
 峰丹波とお蓮さま、通りがかった廊下に、凝然《ぎょうぜん》と足をすくませて、進みもならず、しりぞきもならず……。
 幽霊を見た気持というのは、あのときのことだろう。
 ハッハッとあえぐ丹波の息づかいを、お蓮様は耳に近く聞いたのだった。
 死んだはずの源三郎が、悠然《ゆうぜん》と柄杓《ひしゃく》をふるって、夕闇せまる庭に、静かに水をまいている。
 怪談にはもってこいの夏だ。
 おまけに。
 物《もの》の怪《け》の立つというたそがれどき。
 縁に立つ二人が、水を浴びたようにふるえおののいていると知ってか、知らずにか、源三郎は口のなかで、何か唄いながら、いつまでも草の葉、木の根に水をやっていたが、やがて、振り返りもせずにひとこと、
「丹波! 礼をするぞ。きっとそのうちに、挨拶するからなナ」
 せまる宵闇にからんで、しっとりした小声《こごえ》。
 源様ッ!……お蓮さまはせいいっぱいに叫んだような気がしたが、声をなさなかった。
 突如! バタバタという跫音《あしおと》に気がついて、振り返ったお蓮様は、顔色を変えた丹波が、廊下を、もと来たほうへと逃げかえるのを見た。
 意外千万にも源三郎が生きている! 生きてこの道場へ帰ってきている! もういけない! すべてはだめだ! と丹波は観念したのだろう。大きなからだをこまねずみのようにキリキリ舞いさせて、不知火《しらぬい》の弟子《でし》どものいる広間のほうへと、スッとんでいったが……。
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