かけ抜けた儀作は、そのまま広い本陣の廊下を小走りに、裏手の供待ち部屋へ来てみると、
「いくらこんな女《もの》でも、まさかネ、野宿はできませんからね。どこかに宿をとらなくちゃアならないと思っていたところを、こうしてこちらへ御厄介になることになって、旅籠《はたご》賃だけでも大助かりだよ。お礼を言いますよ、ハイ」
 おおぜいの侍にかこまれて、膝先に煙草盆を引きつけたお藤だ。
 平気の平左で、帯のあいだから小意気な煙管を取り出し、一服つけては、ポンとはた[#「はた」に傍点]く吐月峰《はいふき》の音。
「不敵なやつだ」
 儀作はにらみつけて、
「殿のおめしだ。すぐまいれ」
「あ、そう?」
 お藤は軽く煙管をしまって、
「キリキリ立アてというところだね、オホホホ」
 江戸のこけ猿騒動に、なんらかの点でこの女が、重大な関係を持っているに相違ないと思うから、一同はひしとお藤をとりまいて、御前へ出たのです。
 あせりきっている対馬守……。
 頑丈なからだをもたせかけると、蒔絵の脇息がギシときしむ。
 イケしゃあしゃアと前へすわったお藤へ、ジロリとするどい眼をくれた殿様、
「江戸からか?」
「在郷うまれと見えますかね? フン」
 かたわらの侍たちが、たけりだって、
「コラ、女! どなた様のおん前だと思う。気をつけて口をきかぬと、ウヌ、手は見せぬぞ」
「よいよい、おもしろそうなやつじゃ。うっちゃっておけ……そこで女、貴様にきくが、逃げたと申すつれの男は、何者かの?」
「サア、……神奈川《かながわ》で顔が合って、のんきに東海道をのぼろうと、マア、話しあいがついていっしょになっただけでね、どこの馬の骨だか、ハイ、あたしゃいっこうに――」
「知らぬと申すか」
 じっとしばらく、何事か考えていた対馬守、急にニッコリして、
「ナア女、しばらく芝居をしてみる気はないかの? 余のもとに」
「アイ、それア狂言によりけりでネ、どうせ世の中は、芝居のようなものですから、役によっては承知しないともかぎりませんのサ」
「フーム、これはなかなか話せるわイ――これ、ここはよい、あちらへ!」
 と対馬守、いならぶ家臣たちへ、ヒョイとあごをしゃくった。

   藪《やぶ》の白虎《びゃっこ》


       一

 簡単なことを複雑にする……。
 うつろな制度、内容の腐りかけている組織を、むりに維持してゆくためには、これよりほかはない。形式、儀礼の尊重ということは、ここから生まれるのです。
 時代をへだててみると、いかにも無用――無用どころか、滑稽としか考えられない儀礼や形式でも、当時その社会に生き、そのなかに呼吸していると、なんらの不自然もなく、そのまま受け入れることができたに相違ない。
 制度、組織の力が、そこに働いていたからだ。
 たとえば、このお茶壺というもの。
 お茶を入れる壺といってしまえば、それだけのものだが、これを宇治の茶匠まで送りとどけて、茶を詰めてかえる道中が、たいへんなものでした。
 壺の主のお大名と同じ格式をもって、宇治へ上下したものだという。一万石は一万石、十万石は十万石の権式《けんしき》で、茶壺が街道を往来するのです。
 槍を立て、その他の諸道具を並べた行列――お駕寵のなかは殿様かと思うと、そうではなく、お茶壺がひとつ、チョコナンと乗っかっていようという。
 騎馬、徒歩の警護の侍が、ズラリと壺を取りまいて、
 下におろう、下におろう……!
 平民はみな土下座をして、壺一箇を送り迎えしなければならない。
 第一日は、品川松岡屋が定宿。
「サア祝儀が出るから、こんなのんきな旅はない。ゆるゆる行こう」
 こう言って、供の人数を見まわすように振りかえったのは、石川左近将監の重臣で、竹田なにがし。
 あの日光お相役をのがれるようにと、賄賂を持って柳生藩江戸家老、田丸主水正のもとへ使者に立ったことのある人物だ。
 こんどその、石川左近将監どのの茶壺が、宇治へのぼることになったについて、竹田が道中宰領として今江戸を出発するところ。
 旅にはもってこいのいい時候。
 朝七つ時に神田|連雀《れんじゃく》町の石川様の屋敷を、御門あきとともに出発した一行は、これから五十三次を、お壺だちといってそれぞれの宿場にとまりを重ねてゆくのだが、宿屋などでは身祝いをして、御馳走が出たり、名物のおみやげがめいめいの前に山と積まれたり……。
 役得根性の一同は、イヤ、もう大喜びだ。
 何日となく旅をつづけて、大磯から小田原へはいると、いわゆる箱根手前、ここは大久保加賀守の御領で、問屋役人から酒肴が出る。
 竹田の一行はすっかりいい気持で、箱根を越え、サテ、いまこの沼津へさしかかりました。水野出羽守様御領……。
 沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
 品川から十三番目の宿場ですな。
 三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
 お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。
 警護頭の竹田も、のんびりした気持になって、お駕籠わきの床几にからだをやすめながら、煙管をとり出して一服しようとする……。
 そのときだ。
 たちならぶ松のむこう、下草などの生い茂っている草むらのなかから、ヌッと白い柱のようなものが起ちあがった。が、まだ誰も気がつかない。
「さア、ひと休みしたら、そろそろ出かけるとしようか」
 てのひらで煙管をたたいて、竹田がポンと火殻を吹いた。

       二

 恋をゆずる気持ほど、悲惨な心はないであろう。
 とすれば。
 今の丹下左膳ほど、暗い胸のうちもまたとあるまい。
 三方子川尻の漁師、六兵衛の家に、萩乃と源三郎をそのままにして、心の暁闇をいだいてたちさった左膳。
 アアもうふつふついやだ、うるさいことは……期せずして、あの櫛巻の姐御と同じ心境にたちいたったが。
 その、世を捨てた気の丹下左膳――左膳だけに、その捨て方がちょっと違う。
「おれの力ひとつで、なんとかしてこけ猿を見つけだしてえものだ。はじめ与吉が盗みだしたのを、あのチョビ安が引ったくって走り、それがおいらのふところに飛びこんだのだから、あの最初の壺こそは、真のこけ猿に相違ねえのだが、それがいつのまにか転々の、数かぎりもない偽物が現われて、こけ猿はいまどこにあるやら?――こうなりゃア、天下の茶壺という茶壺をかたっぱしから手にいれるだけだ。それには、宇治へ上下する茶壺道中をねらい……ウム! どの大名の壺にも、供の侍がおおぜいいることだから、ひさかたぶりにおれも、この濡れ燕も、思うさまあばれられようというものだ。こいつはうめえところへ気がついたぞ」
 ニンマリ笑った左膳、見つけしだい壺の行列をおそって、斬って斬ってきりまくり、それでやっと、萩乃をあきらめたせつなさを忘れようというので――旅に出るといったって、べつにしたくも何もありはしない。
 いつものまんまです。
 汗と塵によごれて、ところどころ黄色くなった白の着物に、すりきれてしんが出ていようという博多の帯を貝の口に結んで、彼にとっては女房ッ子も同様な例の濡れ燕を、グイとおとし差し……。
 ふところ手――といっても、片手ははじめからないのだから、左の手を袂のなかへ引っこめただけだ。たったひとつの眼で往来の人をジロジロにらみながら、
「どこの大名のでもいいや、壺の道中はねえかナ」
 アア人が斬りたくてたまらねえやといわぬばかりの顔で、ブラブラ歩いてゆくのだから、旅人たちはみんな片側へよけて通る。そばへきて吠えつくのは、野良犬だけだ。
「おれのからだにゃア、生き血のにおいがするとみえる。フフフヤ、犬どもが吠えるワ吠えるワ。ヤイヤイ、もっと吠えろッ! もっと吠えねえかッ!」
 幽霊のような姿で、宿はずれの辻堂に泊まったり、寺の縁の下に這いこんだり――すると、街道のむこうに見えてきたのが、宇治へのぼる途中のこの石川左近将監のお壺。
 おおぜいの足が砂塵をまきあげて、一団になって練ってゆくのを、遠く後方からのぞんだ丹下左膳、
「オオ、とうとうひとつ出会ったぞ」
 と足をはやめ、それからずっとあとになりさきになり、ここまでからみ合ってきたのですが。
 沼津の町を駆け抜けた左膳、ここに先まわりして、行列の来るのを待ちかまえていたのだ。
 名にし負う千本松原……。
 店開きにはもってこいの背景だと、たちあがった左膳、ガサガサ藪を分けて松のなかを進んでゆく。
 まるで友達とでも話しにゆくようだ。
 変な浪人が現われたナ、とじっと立ちどまってこっちを見ている竹田へ、左膳引きつったような笑顔で話しかけた。
「どなたのお壺かな?――イヤ、誰の壺でもかまわねえ。ひとつ、口あけだ。威勢よく斬らせてもらおうじゃアねえか、なア」
 左の手は、相変わらず懐中にのんだままだ。
 丹下左膳、頼むようにそう言った。

       三

 剣意しきりに動く丹下左膳。
 こういうときの左膳は、ふだんとグッと人が変わるのである。へいぜいは石炭がらのように、人ざわりのガラガラした、無口な、変な隻眼を光らせている男だが……。
 腰間《こし》の濡れ燕に催促されて、「人が斬りたい、人が斬りたい!」と、ジリジリ咽喉《のど》がかわくような気分になったときの丹下左膳は。
 とてもにこやか[#「にこやか」に傍点]な、やさしい人間になるんです。蝋のような蒼白い頬に、ポッと赤らみがさして、しきりに唇をなめるのは、なんのしるしか。
「なあおい、せっかくここまで、あとをつけて来たのだから、この濡れ燕に」
 と左膳、腰の一刀を左の手でたたくと、ガチャリ! 鞘のなかで刀身が泣く。
「なア、この濡れ燕に、むだをさせたくねえのだ」
 今までの生涯に、いく十人となく斬ってきた人のあぶらが、一時に噴き出すような、妙にねっとりした口調だ。
 夢みるように、からだを小さく前後にゆすぶって、立っている。
「狂人じゃ!」
 竹田ははき捨てるように言って、お壺の駕籠へむかい、
「かまわずやれ……なんだ、この千本松原に、白昼、かような化けものが出るとは! さがれ、さがれッ!」
 ぐいと左膳をにらんで、そのまま歩きだす。
 お駕寵は静かに地をはなれて、ギイッときしみながら、ゆらゆら揺れてまいります。蝋色ぶちにまいら[#「まいら」に傍点]の引き戸、袴の股だちを高くとった屈強の若侍が、左右に三人ずつ引き添って――さながら、主君石川左近将監その人が、道中しているような厳戒ぶりだ。
 左膳は?……と見ると、遠く海のむこうを見ているような片眼。左手を帯の前へさしこみ、足を片方ずつ上げて、かわるがわるにかかとですねをこするのは、虫でも刺したか。
 ちょっとさわれば、ぶっ倒れそうだ。
 警護の侍たちはおもしろがって、一人が、
「農工商のうえだと申しても、武士もこうなっては形《かた》なしだ」
 笑いながら、通りすがりに、ドンと左膳の胸をついてゆく。
 左膳は無言、ニヤニヤしながらよろめいています。
「オイオイ、気ふれ殿、行列の中へまいこんでは、邪魔になって歩けぬではないか」
 ほかの一人がそう言って、うしろからグンとこづく。
「これでも、刀を二本さしているから、お笑い草じゃテ」
 一つの手が、左から左膳をつきとばす。
「ワッハッハッハ、竹を二本さしているなら、まず目刺しじゃろうな」
 もう一つの手が、右から左膳を押しかえす。
「気狂《きちが》いも女なら、桜の枝か何か持って、ソレ、芝居にもよく出るやつだが、武士《さむらい》の気狂いでは色気もござらぬ」
「これでも昔は、いずれかの藩に仕官したこともあるであろうに……かわいそうに」
 同情めいたことをつぶやいてゆくやつもある。一同は前後左右から、左膳をつつきまわしながら、多勢の跫音が、ザクッ! ザクッ! と白い砂を蹴って、通り過ぎる。
 しんがりに立っていた、色の真っ黒な、口の大きな侍が、
「エイッ、馬鹿者ッ! 邪魔だッ!」

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