して、じッと戸外《そと》を見守っている人影……江戸へかえったとばかり思っていた若党儀作ではないか。殿の御前をさがってきた儀作、表通りにたちさわぐ人の声々に出てみたところが、あの胡麻の蝿みたいな町人が、小意気な三味線ひきの女とならんで立って、何やら番士のとがめをうけているようす。
ひと眼見るより儀作は、
「オッ! つかまえてくれ! その男だ、その男だッ!」
はだしで土間へかけおりました。と、若侍は何をあわてたものか、二、三人折り重なって、櫛巻の姐御をギュッとおさえつけてしまったから、儀作は頓狂声で、
「女ではない! ソ、その男! 男のほうを……!」
ナニ、同じおさえつけるなら、女のほうがいい――侍たちがそんなことを言ったかどうか。
このあいだに与吉は、肩の壺を地面へほうり出して、キリキリ舞いをしていたが、やがて方向がきまると、一|目散《もくさん》にかけ出した。グイとお尻をはしょった儀作、足の裏を夜空へむけて、追う、追う……追う。
二
不敵な唄声とともに、この本陣の表口に、ガヤガヤという人の気配がわき起こったようすだが。
対馬守はそれを聞き流して、縁側へ立ち出た。
障子、ふすまなどを、自分であけたてするということは絶対にありません。小姓、お茶坊主などが左右にひかえていて、サッとひらくのです。
また、片引きということもない。音もなく引きわけになって、そこをスウーッとお通りになります。昔のお大名は、こういう生活になれておりますから、なかには、戸や障子は自分で開くもの、自動的にあくものと心得ている人もあったという。
鷹揚《おうよう》な突き袖かなんぞしたまんまふすまの前に立って、ひとりでにひらくのを待っていたが、いつまでたっていてもあかないので、ふしぎそうに唐紙をみつめて、トンと畳に足ぶみをしてじれた殿様がある、という話。
まさか……。
わが柳生対馬守は、そんな人間ばなれのしたお大名ではない。そのかわり、小姓どもが障子を開くのが遅ければ、手を出してあけるかわりに、蹴倒して通りもしかねまじい気性のはげしいお方。
弟の伊賀の暴れん坊が、いささか軟派めいているのに反して、兄対馬守殿は、武骨一方の剣術大名。
蹴るような足つきで本陣の長い廊下をツ、ツ、ツウとおすすみになる。さきへ立って雪洞《ぼんぼり》で、お足もとを照らしてゆくお小姓は、押されるようにだんだん早足になって、これじゃアかけ出さなくちゃア追っつかない……。
と、なったとき、来ました。一風宗匠の部屋の前へ。
「宗匠、どうじゃな」
対馬守は、どなるように言いながら、室内《なか》へはいった。
「老体じゃ、この長旅に弱らねばよいがと、案じているがの」
小さな置物が動くように、一風宗匠はそろそろと、敷物をすべりおりました。殿のうしろから厚い褥《しとね》を二つ折りに、折り目をむこうへむけて捧げてきたお子供小姓が、急いで正面床柱の前へ、そのおしとねを設ける。
それを対馬守、爪《つま》さきでなおしながら、あっちへ行っておれ!……と、ついて来た者へ眼くばせです。
一同が中腰のままさがってゆくのを待って、対馬守は一風のほうへ向きなおった。
柳生藩の名物、お茶師一風――百十何歳だか、それとももう百二十歳以上になるのか、自分でも数えきれなくなって、宗匠の年は誰にもわからない。八十、九十のお爺さんを、お孫さん扱いしようというのだから、すごいもので。柳生藩の生きた藩史、今なら知事の盃などいくら持っているかしれない。
人間もこう枯れ木のようになると男女の性別など超越して、なんとなく物体のような感じ……油紙をもんだような顔をほころばせて、小さなかあいい眼で対馬守を見あげている。
舌が動かないのです。口がきけない。それでも、先ごろまでは耳はまだ達者で、こっちの言うことだけは通じたのですが、今ではもう耳もだめになったらしく、何を言ってもニコニコしているばかりです。
眼だけだ、残っているのは。
対馬守は、静かに硯箱を引きよせ、巻紙をひろげて、サラサラと一筆したためました。
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「宗匠に借問《しゃくもん》す。こけ猿と称する偽物、江戸に数多く現われおる由、ほんものを見わくる目印、これなきものにや」
[#ここで字下げ終わり]
すり寄って、対馬守の手もとをのぞいていた一風宗匠は、コックリとうなずいて、両手を差し出した。
その筆と紙をこっちへ……というこころ。
三
やっとのことで一風の左手に、巻紙を握らせた対馬守は、その、木の根のような右手へ、墨をたっぷり含ませた筆を持たせると。
こまかくふるえる手で、宗匠の筆が左のような文字を、したためはじめた。
燭台を手もとに引き寄せて、対馬守は横あいから、異様に燃える眼でその筆先をみつめる。壺の真偽を判別する鍵が、今ここで明らかにされるのですから、対馬守、思わず真剣になった。
大きくおどるような、読みにくい文字です。
[#ここから2字下げ]
「偽物いかに現わるるとも、急所をきわむれば、鑑別のこといと容易なり。御当家に伝わるこけ猿の壺には……」
[#ここで字下げ終わり]
一風宗匠の筆が、そこまで動いたとたん!
大勢あわただしい跫音《あしおと》が、殿様をさがすように長廊下を近づいてきて、
「殿! こちらでござりますか」
かんじんのところへ心ない邪魔が……対馬守は声をあらげて、障子そとの廊下へ、
「治太夫か。何じゃ、そうぞうしい! いま宗匠と重要な筆談をかわしておる。さがっておれッ」
治太夫と呼ばれた侍の声で、
「いえ、殿。至急お耳にいれねばならぬことが――」
「エエイッ、さがれと申すに。そっちよりこっちがたいせつじゃワ――宗匠、そのさきはどうした」
と対馬守、必死に一風に書きつづけるようにうながしますが、老宗匠の筆は、そこでハタと止まってしまって、キョトンとした顔をあげている。
気がついた対馬守、
「オオ、そうじゃったナ。いかに大声を出しても、言葉は通ぜぬのじゃったな。エイッ、世話のやける老人《としより》じゃ」
「殿、殿! 火急の儀にござりますれば……殿、殿ッ!」
「うるさいッ! このほうがよっぽど火急じゃッ」
と癇癪を起こした対馬守、いきなり宗匠の手から筆を引ったくって、ドブリと墨をつけるがはやいか、膝先の畳の上へ、手習いのような文字を書いた。
[#ここから2字下げ]
「宗匠、それからどうした。こけ猿の壺には、どういう目印があるというのだ」
[#ここで字下げ終わり]
とこう滅茶苦茶に書き流して、ポンと筆を投げすてた。
一風宗匠は、すこしも動じません。それどころか、袋のような口で小さなあくびをしたかと思うと、手をふった。めんどうくさそうに、眉をひそめた。
もうやめた、今日はもうあきたから許してくれ、またこんど、気分のよいときに……そう言っているのだ。
いらだち切った対馬守は、声の通じないのも忘れて、宗匠の耳へ噛みつくように、
「イヤ、わしが悪かった。畳へ字など書いて、宗匠をおどろかしたのは、なんともはや申し訳ない」
一生懸命の対馬守は、宗匠の前に両手をついて、つづけさま頭をさげながら、
「サ、こんなにあやまるから、機嫌をなおして先をつづけてくれぬか。ちょっとでよいから、その真のこけ猿の目印というのを……」
一風宗匠は、おもしろい芝居でも見るように、相変わらず赤ん坊のような笑顔で、あくびの連発――もういやだ、今日は気がむかない、わしはもう寝るのじゃから、はやくあっちへ行ってくれ……そういっているようだ。
「ナア、宗匠、後生《ごしょう》じゃから、お願いじゃから――」
人に頭をさげられつづけて、生まれてからこの自分の頭をさげたことのない対馬守、ここを先途《せんど》と、平蜘蛛のようにペコペコお辞儀をしている。
四
言葉は通じないのだから、一風宗匠は平気だ。
「何をこの殿様は、てを合わせてわしを拝んだり、しきりにおじぎをしたり、ハテ、変なことをするお人だ」
と言いそうに、あっけにとられて対馬守をみつめている。
人に頭をさげる感じは、生まれて初めて。どうもあんまりいいものじゃアない。対馬守はムカムカしてくるが、いくらおこってみたところで、相手はやっぱりニコニコしているに相違ない。
それよりも。
なんとでもしてこの一風から、こけ猿真偽鑑定の法をきき出さねばならぬ。宗匠のほかにそれを知っているものは、この世に一人もないのだから。
おまけに。
そのかんじんかなめの一風宗匠、百二十歳の老体でこのたびの東海道中は、かなりむりだ。衰弱は日に日に目だつばかり。もし今夜にもポッかり逝かれでもしては……。
と思うと対馬守、気が気でありません。
青くなったり、赤くなったり、
「宗匠、三遍まわってワンと言えば、それもしよう。いかなる望みもかなえて進ぜるから、サ、こけ猿の目印を……」
ピタリ両手をついて、額を畳におしつけた瞬間。
カラリ!
廊下にむかった障子があいた。待ちきれなくなった治太夫が、殿の許しを得ずにあけてしまったのだ。
「殿! ただいまこれなる本陣の表通りに――」
言いかけた治太夫、見ると、あろうことかあるまいことか、殿様がばった[#「ばった」に傍点]みたいに平つくばって、おじぎの最中だから、
「オヤ! これは御酔狂ナ……何かお茶番でも!」
「無礼者ッ! 誰がそこをあけろと申したッ!」
醜態を見られて、対馬守はてれ半分、カンカンになってどなりつけた。
「今この畳へ、宗匠が針を落としたというから、老人のことじゃからさがしてやっておったのじゃ」
はり[#「はり」に傍点]とはつらい……。
その鼻先へ、治太夫、かかえて来た壺を突きつけんばかりに差し出して、
「申しあげます。儀作の奪われました壺が、戻りましてございます。唄うたいの男が、お宿の前で儀作に追いかけられ、ほうり出して逃げましたので、運よく割れませんでしたのが、何よりのさいわい」
「ナニ? 壺がかえったと? よし、ちょうどよい折りじゃ。一風に鑑定させよう」
たくましい腕をのばして、むずと壺を引ったくった対馬守は、
「宗匠ッ! これはこけ猿かどうだッ」
また耳の聞こえないのを忘れて、大声に叱咤しながら、グイと宗匠の眼のさきへ壺を見せた。なんのことはない、柳生一刀流正眼の構え。
声は聞こえなくても、さすがに宗匠、この意味はわかったとみえる。今まで眠っていたような眼が、見るみるうちにいきいきした光を添えたかと思うと。
二秒、三秒、じッと壺の一箇所をみつめていたが――。
「――――」
だまって首をふりました。
こけ猿ではない、と言う。
「エーイッ、そうだろうと思ったッ!」
叫びざま対馬守、治太夫の頭を目がけてはっしとばかり、壺を投げつけたが、治太夫も相当なもの。日光修理が近づくにつれ、いらだつ殿の癇癪《かんしゃく》は毎度のことで、慣れている。
ハッと首をすくめたから、壺は雨戸へあたって大音響とともに微塵にくだけ散った。
五
同時に対馬守は、すっくと起ちあがって、足ばやに一風の部屋を出かかったが、そのとき、廊下のむこうから儀作を先頭に、二、三人の侍が急ぎ足に――
ハッと殿の足もとに、小膝をついた儀作が、
「残念でござりますが、ふたたびとり逃がしましてござります。なんとも、足の早い男で」
「捨てておけ、さような下郎は……コレッ、皆の者よく聞け。余の求めておるのは、真のこけ猿の茶壺じゃ。今後偽物を持ちこんだやつは、うち首にいたすからそう思え」
八つあたりのありさまだが――むりもない。日光は容赦なくせまり、柳生一藩の存亡、今日明日にかかっているので。
追いすがった儀作は、一生懸命の声。
「その男と連れだち、三味線を弾いておりましたあやしい女を、おさえてございまするが」
「女などとらえてなんになると思うか。たわけめッ!」
吐き出すように言った対馬守だが、すぐ思いかえして、
「ウム、広間へ引き出せ。余がじきじきにきくことがある」
「ハッ、ごめん
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