のに、これはいったいどうしたのだ。ヤケに重いぞ、この鎧櫃は」
 山口達馬に青砥伊織《あおといおり》という、名前だけは一人前《いちにんまえ》の若い門弟が二人軽いつもりで持ち上げようとしたその鎧櫃が、めっぽう重いので、ビックリ顔を見あわし、ポカンと立っておりますと……。
 青木三左衛門という、この方はすこし年をとっております。横鬢《よこびん》のところが、こう禿げあがっていて、分別顔。
「ナニ、そんなに重いはずがあるものか。具足がはいっておるかもしれんから、ことによると多少は重いであろうが――さア、手を貸そう」
「ウム」
 と、三人のかけ声で、やっと鎧櫃を持ち上げてみると、なるほど重い。
 だが、鎧やら何やらはいっているだろうと、青木三左衛門、山口達馬、青砥伊織の三人、べつにそうふしぎにも思わず、小倉の袴をバサバサ言わせて、式場なる道場までかついでまいって、正面に置きました。

       四

 サア、何十畳敷けるでしょう……。
 広い板の間の道場。
 正面には、故司馬先生の筆になる十方不知火の大額をかかげ、その下の、一段小高い畳の壇上、老先生、老先生ありし日には、あの白髪|赭顔《しゃがん》のおごそかな姿が、鉄扇を斜《しゃ》に構えて、そこにすわっていられたものだが。
 今そのかわりに、金唐革《きんからかわ》の鎧櫃が、ドッシリと飾られて――。
 蔵からここまで持ってきた山口達馬、青砥伊織、青木三左衛門の三人は、その、異様に重い鎧櫃に、格別不審をいだきませんでした。
 筑紫の名家、司馬家です。鎧、兜、刀剣など、代々伝わる武具だけでも、おびただしい数にのぼっている。それを誰かが、鎧櫃へ入れておいたのだろうと、そう思うまでで。
 別棟に陣どっている、源三郎手付きの伊賀侍たちが、当てもなく若君の帰館を待っているあいだに、彼らに気づかれぬよう、そっとこの式をあげてしまわねばならぬ。
 峰丹波がこの不知火流の名跡《みょうせき》を継ぎ、司馬十方斎のあとを襲うとの披露をしてしまったあとで、あの柳生一刀流の連中に正式にかけあって、邸外へおっぽり出してしまおうという魂胆。
 紋付袴に威儀を飾った不知火の弟子一同、静かに道場へはいってきて、壁を背に、左右に居流れる。正面壇上には、いくつとなく燭台を置いて、かがやくばかり……諸士の前には、ほどよきところに、ズーッと百目蝋燭を立てつらね、それが、武者窓をもれるあわい夜光と交錯して、道場全体、夢のような気にしずんで見える。
 鎧櫃の前に、裃を着《ちゃく》した峰丹波が、大きな背中を見せて端坐。
 その横に、被布《ひふ》の襟をかすかにふるわせて、お蓮様がうつむいている……ひそかに絹ずれの音が、一方の入口から近づいて、なみいる一同の眼がそっちへ向いた。
 泣きたおれんばかりの萩乃である。
 常ならば、澄みきった湖心のような美しい眼が、赤くはれあがっているのは、いまの今まで涙にくれていたものとみえる。二人の侍女に左右から助けられて、ソロリソロリと、足を運ばせてくる姿は、さながら重病人のようだ。
 席がきまると、
「エヘン……」
 出もしない咳《せき》ばらいをして上座《かみざ》にたちあがったのは、結城左京――あの、穴埋めの宰領をつとめた男。小腰をかがめて、ツツツウと丹波の横手へ進み、皆のほうを向いて、懐中から何やら書き物を取り出しました。
 奉書。
 つごうのいいかってなことがならべてあるに相違ない――左京、とっておきの声を張りあげて、読みはじめたのを聞くと、
「先師、司馬十方斎先生亡きのち、当道場のお跡目いまだ定まらず、もはやこれ以上延引いたす場合は、御公儀のきこえもいかがかと案じらるるまま……」
 なんかと、うまいことが書きつらねてあって、結局、峰丹波先生にとっては、これほど御迷惑なことはないであろうけれども、門弟一同の総意として御推挙申しあげるのであるから、どうぞどうぞお願いだから、この道場のあるじになっていただきたい――。
「……以上、道場総代、結城左京」
 読み終わった彼、一統のほうへ向いておごそかに、
「さて、諸君! 峰先生を流師とあおぐことに、誰も異議はあるまいな?」
 みんな黙って、いっせいに頭をさげた。と、そのとき、
「異議あるぞ」
 どこからか、小さな声が……!

       五

 異議あるぞ!――という妙にこもった声が、しんとした空気をふるわせて、ハッキリと一同の耳にはいったから、さア、野郎ども、ぎょっとした。
 膝に置いた両手で、そのまま袴をギュッとつかんで、思わず身をかたくしました。
 誰よりも驚いたのは、当の丹波とお蓮様、左京の三人――その結城左京の手にしている口上書の紙が、恐怖にカサカサと鳴るのが、聞こえる。
 ピンの落ちる音も、大きな波紋のようにひびくという静寂の形容はこういう息づまる瞬間のことを言うのでありましょう。
 唇を真っ白にした左京、かすれた声をあげて、もう一度、
「峰丹波先生が、当道場のあるじに直られることについて、むろん、誰一人として異議を唱える者はないであろうな?」
「いいや! おれは不服だ! おれは不承だ!」
 地の底? 地獄の釜の下――陰々たる声が……。
 とてもはやかった、そのときの一同の動作は。
 パッと弟子どもが片膝をたてた刹那、なかからあいたんです、鎧櫃の蓋が。
 お蓮様は、うしろざまに手をついて、今にも失神せんばかり――萩乃はかたわらの侍女の手をグッと握って、はりさけそうに眼をみはっている。
「何者だッ!」
 叫んだ丹波、とっさに腰を浮かすと同時、引きつけた大刀の柄に大きな手をかけながら、
「出入口に締りをしろッ!」
 門弟のほうへ向かってあわただしい大声。この相手は何者にしろ、道場から一歩も出さずに、押っ取りかこんで斬りふせてしまおうというので。
「ワッハッハッハ、だいぶおもしろそうな芝居だったが、イヤ、この狭いなかに身をかがめておるのは、丹下左膳、近ごろもって窮屈しごくでナ」
 声とともにその鎧櫃の中から、スックと立ち上がった白衣《びゃくえ》の異相を眼にしたときには、傲岸奸略《ごうがんかんりゃく》、人を人とも思わない丹波も、ア、ア、アと言ったきり、咽喉がひきつりました。
 大髻《おおたぶさ》の乱れ髪が、蒼白い額部《ひたい》に深い影を作り、ゲッソリ痩せた頬。オオ! その右の頬に、眉のなかばから口尻へかけて、毛虫のはっているような一線の疵《きず》跡……しかもその右の眼は、まるで牡蠣《かき》の剥身《むきみ》のように白くつぶれているではないか!――ひさしぶりに丹下左膳。
 道場いっぱいに、騒然とどよめきわたったのは、ほんの一、二秒。さながら何か大きな手で制したように、シンとしずまりかえったなかで、左膳、からっぽの右の袖をダラリと振った。枯れ木に白い着物をかぶせたようなからだが、ゆらゆらとゆらいだ。笑ったのだ、声なき笑いを。
「出口入口の締りをしろ! 今夜てエ今夜こそは、一人残らず、不知火燃ゆる西の海へ……イヤ、十万億土へ送りこんでくれるからナ」
 ケタケタと響くような、一種異様な笑い声をたてた左膳は、細いすねに女物の長襦袢をからませて、鎧櫃をまたいで出た。
「サ、サ、したくをしねえか、したくをヨ! こ、この濡れ燕はナ、手前たちのなまあったけえ血に濡れてえといって、さっきから羽搏《はばた》きをしてきかねえのだ。ソーラ! この羽ばたきの音がてめえたちには聞こえねえかッ!」
 と左膳、左腰に差した大刀の鍔元を、一本しかない左手に握って、体《たい》を落としざま、ゆすぶった。
 カタカタと、鍔が鳴る。
 一同は立ちすくんでいます……すわっているのは、丹波だけ。
 先生、腰が抜けたんじゃアあるまいな。

   おいらが手引きを


       一

「丹波ア……!」
 鬼哭《きこく》を噛むような、左膳の声が。
「汝アこの女――」
 と左膳、かたわらにいすくむお蓮様へ、キラリと一眼をきらめかせたのち、
「汝アこの女と、同じ穴の狸だな、イヤさ、同臭のやからだな」
 ぐっと調子をさげて、
「おもしれえ。おれア伊賀の源三郎に、なんの恨みつらみもねえ痩せ浪人。だがナ、人間にゃア縁ごころてえものがある。またこの丹下左膳の胸には、男の意気というものがあるのだ!ッ」
 ひとことずつ言葉を句ぎって、そのたびに左膳、一歩一歩と峰丹波に近づく。
 どうしてこの鎧櫃のなかに、人もあろうに、この白面の殺人鬼がひそんでいたのだ?
 愕然呆然たる丹波の胸中を、雨雲のごとく、あわただしく去来するのは他《た》なし、この疑念のみ。
 だが。
 そんな詮索は、今のところゆとりがない。たぶん、この煙のような刃妖左膳のことだから、いつのまにか土蔵へ忍びこみ、鎧櫃へ……としか推量のくだしようがないのだ。
 そんなことは、さておき。
 あわよく跡目を相続して、表むきこの道場を乗っとろうとする間際に、このもっとも恐れているじゃま者が、鎧櫃からわき出たのですから、さすがの短気丹波、口がきけないのもむりはない。
 ビックリ箱からお化けが出た形。
 半顔の刀痕をゆがめ、あごをななめに突き出した左膳、なにかこう押しつけるように、ソロリソロリと自分の前へせまってくるから、丹波、仰天した。
 そのとたんに、声が出た。子供のシャックリは、驚かせると止まりますが、ちょうどあんなようなもので。
「ブ、ブ、無礼者! 諸子、何をしておるッ! かかれ! かかれッ!」
 たてつづけにさけんだ。同時に、腰も立った。
 起つと同時に、パッとはねた裃の片袖、そいつが丹波の背中に、やっこ凧のようにヒラヒラして、まるで城中刃傷の型……からだが大きくて、押し出しがりっぱですから、さながら名優の舞台を見るよう。
 早くもその手には、引き抜かれた一刀が、秋の小川と光って――。これが、不知火流でいう沖の時雨《しぐれ》。
 サッと水をきるように、そして、しぐれの一過するようにひらめくという、居合の奥許しなんだ。
 同秒……。
 今まで唖然としていた門弟一同の手にも、それぞれしろがねの延べ棒のようなものが、百目蝋燭の灯にチラチラと映えかがやく。剣林一度に立って、左膳をかこみました。
 萩乃は? お蓮様は? と見れば、すでにこのとき、女二人の影はありません。二、三の弟子や侍女に助けられて、血の予想に顔をおおったお蓮様と萩乃の跫音《あしおと》が、そそくさと乱れつつ、はるか廊下を遠ざかって行く。
 そのとき、司馬の一同、ギョッと声をのんだのは、四ツ竹のような左膳の笑い声が、低く、低く、道場の板敷いっぱいに低迷したからで。
「ウフフ、うふふ、そっちが同じ穴の狸なら、こっちは、おれと源三郎は、同じ穴の虎だ。恩も恨みもねえ伊賀の暴れん坊だが、左膳を動かすのは、義と友情の二つあるだけ。おれは源三郎になりかわって、すまねえが、丹波の首をもらいに来たのだよ」
 いつのまにか斬尖《きっさき》、床を指さしている濡れ燕……。
 下段の構えだ。

       二

 世の中に、こわいもの知らずほど厄介なものはありません。
 いま、抜刀を下目につけて、喪家の痩せ犬のように、曲《きょく》もなく直立している左膳の姿を眼の前にして。
 これを、組みしやすしとみたのが不知火流の若侍二、三人。
 おのが剣眼が、そこまでいっておりませんから、相手の偉さ、すごさというものがすこしもわからない……こわいもの知らずというのは、ここのことです。
「身のほど知らずのやつメ、鬼ぞろいといわれる当道場へ、よくも一人で舞いこみおったな」
「鎧櫃から化け物浪人とかけて、なんと解く――晦日《みそか》の月と解く。心は、出たことがない」
 なんかと、なかにはのんきなやつがあって、そんな軽口をたたきながら、もうすっかりあいてをのんでかかった気。
 抜きつれるが早いか、前後左右、正眼にとって――。
 よしゃアよかったんです。
 痩せこけた左膳の頬肉が、虫のはうようにピクピクと動いた。
「よいか。血の雨のなかを、縦横無尽に飛び交わしてくれよ濡れ燕」
 じっと自分の剣を見おろして、そうつぶやいたかとおもうと! 殺
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