吉宗も、あまりその人声がいつまでも続くので、眠りにおちようとしていた意識を呼びもどされた。
 むろん、眠りのじゃまになるというほどではない。遠くかすかに、低く伝わってくるのだが、耳についてならないので、吉宗は、枕もとの鈴をふった。
 近習の一人が、お夜着の裾はるかの敷居際に、手をついて、
「お召しでございましょうか」
「ウム、愚楽の声がするようだが」
「ハ、お耳にとまって恐れ入ります。愚楽様と、南町奉行大岡越前守様御同道で、夜中《やちゅう》この時ならぬ時刻にお目通り願いいでておりまする。おそば御用、間瀬《ませ》日向守様《ひゅうがのかみさま》が、おことわり申しあげておりますので」
「ナニ、愚楽と越前とが、余に会いたいと申すか」
「壺? こけ猿?」
 ハハア、来たな……と思うと、吉宗公は、さっとお夜着をはねのけて、起きあがった。白倫子《しろりんず》に葵《あおい》の地紋を散らしたお寝間着の襟を、かきあわせながら、
「苦しゅうない。両人ともこれへまかり出るように、間瀬にそう申せ」
 とこの時はずれの夜中《やちゅう》、御寝所でお眼通りをおおせつける――よほどの大事件に相違ないと、近侍は眼をまるく
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