一
夜分、大岡越前が、至急自分に会いたい……と聞いた愚楽老人《ぐらくろうじん》、スックとたちあがった。
スックと――なんていうと、馬鹿に背《せい》が高いようですが、三尺ほどの愚楽老人なんですから、たてになっても横になっても、たいした違いはないんで。
壺! こけ猿!
と、すぐピンと頭脳《あたま》にきたが、静かな声で女中へ、
「どうぞこれへお通しくだされ」
と言った老人、チョコチョコと隅へ行って、衣桁《いこう》に掛けてある羽織をひっかけた。
葵《あおい》の御紋これ見よがしの、拝領のお羽織。
愚楽さんは、この羽織を着なければ人に会わないことにしているんです。子供みたいなからだに、大人《おとな》の羽織をはおったのだから、まるで打ちかけをひきずったよう――しかつめらしい渋い顔で、ピタリ着座して待ちかまえているところへ、
「御老人、こちらかな?」
微笑をふくんだ越前守の声。
つづいて、音もなくふすまがすべって、恰幅《かっぷく》のいい忠相《ただすけ》の姿が、うす闇をしょってはいってきた。老人の眼は、あわただしく、この夜の訪問者の手もとへゆく。が、忠相は何も持っていない
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