だ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
今も。
老人|腹這《はらんば》いになって、何か書見をしている。
まだ宵の口。
実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向《ひなた》ぼっこをしている形。
とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音《あしおと》がすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」
玉手箱《たまてばこ》
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