喧嘩じゃあねえのか」
「半鐘《はんしょう》が鳴らねえじゃねえか。火事はどこだ」
「いや、火事でもない。喧嘩でもない」
長屋の入口につっ立った石金は路地を埋める人々へ向かって、大声に、
「オウ、おめえら、このごろすこしでも、この長屋が住みよくなり、また、困ったことがありゃア、持ち込んで行けると思って安心していられるのは、いったいどなたのおかげだか、わかってるだろうな」
路地いっぱいの長屋の連中、ガヤガヤして、
「泰軒先生だ」
と、いう鳶由《とびよし》の声についで、
「そのとおり! 泰軒先生は、おれたちの恩人だ」
「泰軒先生あっての、トンガリ長屋だ」
みな大声にわめく。
「そこでだ――」
群衆へ向かって話しかける石金の足もとへ、心きいた誰かが、横合いの芥箱《ごみばこ》を引きずり出してきて、
「サア、これへ乗っておやりなせえ、声がよく通るだろう」
石金はその芥箱のうえに立ちあがって、
「オイ、その大恩人の泰軒先生が、いま眼の色を変えて、向島のほうへすっとんでいらしった」
と、演説をはじめた。
期せずして、深夜の長屋会議の光景を呈《てい》している。
「この間まで、作爺さんの隣家
前へ
次へ
全430ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング