ろちっとも空《から》になったことがない。
 と言って、先生が自分で銭を出して買うわけではないので。
 知らぬまに長屋の連中が、お礼心に、そっと酒をつめておいてくれる――。
 泰軒先生、このとんがり長屋に来て、はじめて美しい人情を味わい、世はまだ末ではない。ここに、新しい時代をつくりだす隠れた力があると、考えたのだった。
 近ごろでは、トンガリ長屋ばかりでなく、遠く聞き伝えてあちこちから、思いあぐんだ苦しみや、途方にくれた世路|艱難《かんなん》の十字路、右せんか左せんかに迷って、とんがり長屋の王様泰軒先生のところへかつぎこんでくる。
 先生が来てから、長屋の風《ふう》は、一変したのだった。
 眼に見えるところだけでも、路地には、紙屑一つ散らばっていないようになり、どぶ板には、いつも箒《ほうき》の目に打ち水――以前の、大掃除のあとのようなとんがり長屋の景色からみると、まるで隔世の感がある。
 何かというと、眼に角たてた長屋の連中も、このごろでは、
「おはようございます」
「どうもよいお天気で――何か手前にできます御用があったら、どうかおっしゃってくださいまし」
 などと、挨拶しあうありさま
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