ろを! 同じく、無韻《むいん》の風を起こして撃発した栄三郎の利剣が無残! ザクッと胴を割ったかと見るや、左足を踏み出して瞬間刀を預けていた栄三郎、スウッ! とねばりつつ引き離すが早いか、とっさに右転して、またひとりうめき声とともに土をつかませた。
が、この時すでに、銀星上下に飛んで、三人は一度にまんじ[#「まんじ」に傍点]の闘渦《とうか》に没し去っていた。
この騒ぎをよそに、鈴川源十郎はすこし離れて、何かお藤とささやきかわしていたが、刀下をかいくぐって木かげに転びついたお艶の、闇に慣れた瞳に映じたのは、彼女の初めて見る恋人栄三郎であった。
あの、やさしく自分を抱いてくれた手が血のたれる大刀を振りかぶって、チラチラと左右へ走らせる眼には、冷々たる笑いをふくんでいる。
「泰軒先生ッ!」
「おう……そら! うしろへまわったぞ、ひとり!」
いつしか二手に別れて、板一枚で一団を引き受けている蒲生泰軒、伸び上がり、闇をすかして、群らがり立つ頭越しに声をかける。
さながら何かしら大きな力が戦機をかき乱しては制止するようだ――。
ひとしきり飛び違えてはサッと静まり、またひと揺れもみ渡ってはそのまま呼吸をはかりあう。
そのたびに一人ふたり、よろめきさがるもの、地に伏さって鬼哭《きこく》を噛《か》む者。
飛肉骨片。鉄錆《てつさび》に似た生き血の香が、むっ[#「むっ」に傍点]と河風に動いて咽《む》せかえりそう……お艶は、こみあげてくる吐き気をおさえて、袂《たもと》に顔をおおった。
が、見よ!
神変夢想流の鷹《たか》の羽《は》使い――鷹の翼を撃つがごとく、左右を一気に払って間髪《かんぱつ》を入れない栄三郎、もはや今は近よる者もないと見て、
「お艶! どこにいる?」
と刃影のなかからさけぶと、
「はい。ここにおります。――」
答えかけたお艶の口は、いつのまにか忍んできた手に、途中でうしろからふさがれてしまったが、そのかわりに剣魁《けんかい》丹下左膳の声が、真正面から栄三郎を打った。
「なかなかやるなあ、おい! 手をふけよ、血ですべるだろう」
栄三郎は、にっ[#「にっ」に傍点]と笑って片手がたみに胴《どう》わきへこすった。あとの手が柄へ返る。
同時に、
一|閃《せん》した左膳の隻腕、乾雲土砂を巻いて栄三郎の足を! と見えたが、ガッシ! とはねた武蔵太郎の剣尾《けんび》に青白い火花が散り咲いて、左膳の頬の刀痕《とうこん》がやみに浮き出た……と思うまに、
「うぬ! しゃらくせえ!」
おめきたった左膳が、ふたたび虎乱《こらん》に踏みこもうとするとき、空を裂いて飛来した泰軒の舟板が眼前に躍った。
「なんでえ! これあ――」
と左膳の峰《みね》打ちに、板はまっぷたつに折れて落ちるとたんに!
「舟へ!」
という泰軒の声。
見ると、女の影が一つの舟へころがりこむところだ。
おお! お艶は無事でいてくれた!
と思うより早く栄三郎も泰軒につづいて舟へとんで、追いすごして石垣から落ちる二、三人の水煙りのなかで、栄三郎がプッツリと艫綱《ともづな》を切って放すと、岸にののしる左膳らの声をあとに、満々たる潮に乗って舟は中流をさした。
二、三人水中に転落したが、一同とともにあやうく石垣の上に踏みとどまった左膳、
「おい、逃げるてえ法《ほう》があるかッ! この乾雲は汝の坤竜にこがれてどこまでも突っ走るのだ。刀が刀を追うのだからそう思え!」
と遠ざかる小舟に怒声を送って、あわただしく左右を見まわした時は、どうしたものか、源十郎とお藤の姿はそこらになかった。
闇黒《やみ》をとかして、帯のように流れる大川の水。
両岸にひろがる八百八町を押しつけて、雨もよいの空はどんよりと低かった。
独楽《こま》のように傾いてゆるく輪をえがきながら、三人を乗せた舟は見る見る本流にさしかかる――。
ギイッ……ギイ! 艪《ろ》べそがきしむ。
胴のまにあったのをさっそく水へおろして、河風に裾をまかせた泰軒が、船宿の若い衆そこのけの艪さばきを見せているのだった。
「あんたはいい腕だ」
と栄三郎をかえりみて、
「よく伸びる剣だ。神変夢想《しんぺんむそう》久しく無沙汰をしておるが、根津あけぼのの里の小野塚老人、あれの手口にそっくりだな」
手拭をぬらして返り血をおとしていた栄三郎、思わず、
「おお! では鉄斎先生を御存じ――」
せきこんだ声も、風に取られて泰軒へ届かないらしく、
「しかし、あの隻腕の浪人者、きゃつ[#「きゃつ」に傍点]はどうして荒い遣《つか》い手だて」
泰軒がつづける。
「あんたよりは殺気が強いしそれに左剣にねばり[#「ねばり」に傍点]がある。まず相対《あいたい》では四分六、残念ながらあんたが四で先方が六じゃ。ははははは、いやよくいって相討《あいう》ちかな――お! 見なさい。来おるぞ、来おるぞ!」
言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が暉々《きき》として夜陰に流れ、見るまに石垣を這《は》いおりて、真っ黒にかたまり合った一艘の小舟が、艪音《ろおと》を風に運ばせて矢のように漕いでくる。
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と哄笑《こうしょう》した泰軒、上身をのめらせ、反《そ》らせ大きく艪を押し出した。
と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ白布《はくふ》の滝《たき》河づらをたたき、飛沫《しぶき》にくもる深夜の雨だ。
お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から舳先《へさき》につっ伏したきり、女は身じろぎもしないでいる。濡れる! と思った栄三郎が、舟尻《とも》の筵《むしろ》を持って近づきながら、
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの辛抱《しんぼう》だ……」
と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ! 怖《こわ》い顔! 誰でもいいじゃないの。ただ当り矢のお艶さんでなくてお気の毒さま」
櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、鉄火《てっか》に笑った。
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり[#「しっくり」に傍点]抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ場《ば》じゃあ洒落《しゃれ》にもなりゃしない……ちょいと船頭さん、急いでおくれな」
あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
立て膝のお藤、舟べりに頬杖《ほおづえ》ついて、
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この降雨《ふり》じゃあ駄目か。ちッ! 煙草《たばこ》一つのめやしない」
斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
艪《ろ》を振りあげた泰軒、たちまち四、五人に水礼をほどこす。栄三郎にかわされた土生《はぶ》仙之助も、はずみを食って水音寒く川へのめりこんだ。
沛然《はいぜん》たる豪雨――それに雷鳴さえも。
きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の形相《ぎょうそう》をみとめた栄三郎、
「汝《な》れッ! 乾雲か。来いッ!」
とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。
「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
金砂のように陽の踊る庭に、苔《こけ》をかぶった石燈籠《いしどうろう》が明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えの菊《きく》が澄明《ちょうみょう》な大気に香《かお》っている。
午下《ひるさが》りの広い家には、海の底のようなもの憂《う》いしずかさが冷たくよどんでいた。
カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で鎚《つち》を振る音がまのびして聞こえる。
長閑《のどか》。
その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろ[#「ほろ」に傍点]にがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す愚弟《ぐてい》がひとりあるにはありましたが、ただいまではあるやむなき事情のために勘当《かんどう》同様になっておりまして、言わばそれがしとは赤の他人。どうぞわたくしの耳に届くところであれ[#「あれ」に傍点]の名をお口へのぼされぬよう当方からお願い申したい」と結んだ主人は、折から縁の日向《ひなた》におろしてある鳥籠に小猫がじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ているのを見ると、起《た》って行って猫を追い、籠を軒《のき》に吊るしておいて座に帰った。
諏訪《すわ》栄三郎の兄、大久保藤次郎《おおくぼとうじろう》である。
あさくさ鳥越《とりごえ》の屋敷。
その奥座敷に、床ばしらを背に沈痛な面もちで端坐している客は、故小野塚鉄斎の従弟《いとこ》で、鉄斎亡きこんにち、娘の弥生《やよい》を養女格にひきとって、何かと親身に世話をしている麹町《こうじまち》三番町の旗本|土屋多門《つちやたもん》であった。
「しかし、その御事情なるものが」藤次郎のしとね[#「しとね」に傍点]になおるのを待ってきり出した多門は、いいかけてやたらに咳ばらいをした。「いや、くわしいことはいっこうに存じませぬが、その、あの、下世話《げせわ》に申す若気のあやまち――とでもいうようなところならば、はっはっは、私が栄三郎殿になりかわってこの通りお詫びつかまつるゆえ、一つこのたびだけはごかんべんのうえ――」
「いやいや、初対面の貴殿におとりなしを受ける筋はござらぬ」
「ま、そう申されてはそれだけのものだが……」
「わざわざ御自身でおいでくだされて、あの痴《うつ》け者を婿養子《むこようし》にとのお言葉さえあるに、恐れ入ったただいまの御仕儀《ごしぎ》。これが尋常《よのつね》の兄じゃ弟じゃならば、当方は蔵前取りで貴殿は地方《じがた》だ。ゆくゆくお役出でもすれば第一にあれ[#「あれ」に傍点]にとって身のため、願ってもない良縁と、私からこそお頼み申すところだが、さ、それが兄のわたくしの心としてそうは参らぬというものが、全体この話は、じつを申せば当家の恥、それがしの家事不取締りをさらすようなことながら、さて、いわば御合点《ごがってん》がゆくまいし……心中察しくだされたい」
「はて、栄三郎殿がどのようなことをなされたかな?」
「口にするもけがらわしいが、お聞きくだされ、三社前の茶屋女とかにうつつを抜かし――」
ちょっと多門の顔色が動いたが、すぐに笑い消して、
「ははははは、何かと思えば、お若い方にはありがちな――貴殿にも、似よった思い出の一つ二つ、まんざらないこともござるまい。いや、これは失礼!」
「のみならず、栄三郎め、その女に貢《みつ》ぐ金に窮して、いたし方もあろうに蔵宿か
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