しあな》に人影がさして、
「左膳さま――丹下の殿様!」
と呼ぶ与吉の声に、ぱッと枕頭《ちんとう》の乾雲丸をつかんではね起きた左膳、板戸を引くと庭一ぱいの雑草に日光が踊って、さわやかな風が寝巻の裾をなぶる。
与吉のしらせを聞いた左膳は、やに[#「やに」に傍点]のたまった一眼を見ひらいて、打ッ! と乾雲の鍔《つば》を鳴らした。
「なに、源十が見張っておると? だが、夜の仕事だなこりゃあ――貴様、いまのうちに駈けずりまわって、土生《はぶ》仙之助をはじめ十五、六人連中を狩り集めてこい」
きりきり舞いをした与吉は、糸の切れた奴凧《やっこだこ》みたいにそのまま裏門からすっ[#「すっ」に傍点]飛んでゆく。
闇黒に水のにおいが拡がっている――。
月のない夜は、まだ宵ながらひっそりと静まって、石垣の根を洗う河音がそうそう[#「そうそう」に傍点]とあたりを占めていた。
あさくらお米蔵《こめぐら》の裏手。
一番から八番まで、舟入りの掘割《ほりわり》が櫛の歯のようにいりこんでいる岸に、お江戸名物の名も嬉しい首尾の松が思い合った影をまじえて、誰のとも知らぬ小舟が二、三|舫《もや》ってあった。
その一艘《いっそう》の胴《どう》の間《ま》に、うるさい世をのがれてきた若い男女。
当り矢の店をしまうとすぐ、お艶と栄三郎は、灯のつきそめた町々をあてどもなくさまよって、知らず識らず暗いところを選ぶうちにここまで来たのだった……そして舟のなかへ。
話さなければならぬことが山ほどある。
が、ただそんな気がするだけで、膝《ひざ》のうえにお艶の手をとった栄三郎、もう何もいわなくてもよかった。
川向うは、本所の空。
火の見やぐら[#「やぐら」に傍点]の肩に星がまたたいて加納遠江《かのうとおとうみ》や松浦豊後守《まつうらぶんごのかみ》の屋敷屋敷の洩れ灯が水に流れ、お竹ぐら[#「ぐら」に傍点]の杉がこんもりと……。
人目はない。
お艶の胸のときめきが握られた手を通じて栄三郎に伝わると、かれは睡蓮《すいれん》のようなほの白い顔をのぞきこんだ。
「もう夜寒の冬も近い。こうしていては冷えよう――」
いいながら羽織をぬいで、お艶の背へ着せようとする。
「え、いいえ、あれ! もったいない……それではかえってあなた様が……」
とお艶は軽く争ったが男の羽織が、ふわり[#「ふわり」に傍点]と肩に落ちると同時にされるがままにもたれてくるのを、栄三郎はかき抱くように引きよせて、
「お艶」
「若殿さま」
眼と眼。
顔と顔。
四つの目からはずむ輝きが火のようにかち[#「かち」に傍点]あう。
恋する者の忘れられない初めての遭逢《そうほう》であった。
栄三郎は、しずかにお艶の顎《あご》に手をかけて顔をあおむかせた。
「お艶、拙者の心は以前からわかっていてくれたろうが、今後とも決して変わるまいぞ、な」
「はい。身にあまったお言葉……お艶はうれしゅうございます。このまま死にましても――」
「死んでも? はて、何を不吉《ふきつ》なことを! 死なばともにだ!」
いっそう深ぶかと胸をすりよせたお艶は、そっと身をくねらして栄三郎を見上げた。
「ええ。いつまでもどんなことがあっても! でも、いろんなことがございましょうねえ、わたしどもの行く手には」
「うむ。まずそれは覚悟しておいてよかろう。さしあたり、先刻|途《みち》みち話してきた夜泣きの刀だが……」
「いいえ」お艶はだだをこねるように首をふって、「そのお刀の取り戻しは、あなた様の手腕一つでりっぱになさること。お武家には何事につけても強い意志があると亡父《ちち》からもよく聞かされました。ましてお腰の物の張り合い、それをとやかく申してお心をにぶらせるお艶ではございません。いえ、それはもう、その左膳とやらいう無法者があなた様をつけ狙っていると思えば、うかがっただけで生命のちぢまるほど怖うはございますものの、女の身でお手伝いもならず、足手まといの自分が情けないばかり、つゆうらめしいとは存じませんが、ただ、あの――」
「ただあの?――とは、ほかに何か……」
「はい。道場の――」
「道場の?」
「おはなしに聞いたお嬢さまが気になってなりませぬ」
「弥生《やよい》どのか。ば、ばかな! たとえ弥生どのがどのように持ちかけようと、よいか、このわたしさえしっかりしておれば、お前は何も案ずることはないではないか」
「けれど、茶屋女とあなた様はあんまり身分が違いますゆえ、つり合わぬなんとか……とそれを思うと空おそろしゅうございます」
お艶の声は泣いていた。互いに高鳴る血の音に身をゆだねてから……何刻《なんとき》たったろう。
首尾の松が風にざわめいた。
ふとお艶は、上気した頬にこころよい夜気を受けて舷側《ふなべり》にうつ伏した。その肩へ、栄三郎の手がいたわるように伸びてゆくと――
「えへん!」
耳近く、舟のなかに咳《せき》ばらいの音がする。
綾糸車《あやいとぐるま》
えへん! という咳ばらいはたしかに小舟のなかから――。
二人はぱっと左右に分かれて耳をそばだてた。
が聞こえるものは、遠くの街をゆく夜泣きうどん屋の売り声と、岸高く鳴る松風の音ばかり――もう夜もだいぶ更《ふ》けたらしく、大川の水が杙《くい》にからんで黒ぐろと押し流れて、対岸の家の灯もいつとはなしに一つ二つと消えていた。
寂とした大江戸の眠り。
「いま何か声がしたようだな」
栄三郎がひとりごとに首をかたむけた時、
「いや、恋路《こいじ》のじゃまをしてはなはだすまんが、わしもちと退屈して来た。もう出てよかろう」
と野太《のぶと》い声が艫《とも》にわいたかと思うと、船具の綱でもまとめて、菰《こも》をかぶせてあると見えたかたまりが、片手に筵《むしろ》を払ってむっくり[#「むっくり」に傍点]と起きなおった。
「やッ! 何者ッ!」
思わず叫んだ栄三郎、飛びのくお艶をうしろに、左腰をひねって流し出した武蔵太郎の柄をタッ! と音してつかんだ。
すべり開いたはばき[#「はばき」に傍点]元が一、二寸、夜光に映《は》えてきらりと眼を射る。
舟尻《とも》にすわっている男は山のように動かなかった。
蓬髪《ほうはつ》垢面《こうめん》――酒の香がぷんとただよう。
見たことのある顔……と栄三郎が闇黒をすかす前に、男の笑い声が船をゆすってひびいた。
「はっはっは、またひょん[#「ひょん」に傍点]なところで逢ったな」
言われてみれば、まぎれもない、鈴川源十郎をやりこめて五十両取り返してくれた、あの、名のない男だ。
ちょっとでも識《し》った顔とわかって、恥ずかしさが先にたつ若いふたりがどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]すると、かえって男のほうが気の毒そうにあわてて、
「こりゃいかん! わしが悪かった。ひょいと眼ざめて面を出したが申しわけない! また寝る、また寝る――」
いいつつ板の間に横になって、またごそごそ菰をかぶろうとする。
こんどは栄三郎がまごついた。
「いえ。そ、それにはおよびませぬ」
相変わらずの破れ着、貧乏徳利を枕に、名のない男は筵を夜具にすましている。
「ははあ。起きてもさしつかえないのか」
「先ほどからのわたしどもの会話《はなし》耳にはいりましたか」
「うむ。刀のところまで聞いた。あとは知らぬ。おもしろそうなはなしだったな」
「あの、しからば、刀のことを――?」
「さよう。悪かったかな?」
栄三郎の眼がけわしい光をおびてくる。
「いくら悪くても、もう聞いてしまったのだからいたしかたあるまい」男は平気だ。「それより、あんたにはほかに助力がなければ、わしが手をかしてもいいと思っておる。が、密事を知ったが肯《うなず》かれんと言うならどうとも勝手にするがよい。第一よその家へ断りもなしにはいりこむほうがふとどきだ」
「なに? 助力を? はははははは」
栄三郎は膝をうって不敵に笑った。すると男は、
「そうだ。おれの助太刀がほしければ、ひとこと頼むと頭をさげろ」
「何を無礼な!」かっ[#「かっ」に傍点]となった栄三郎、「いわせておけばすきな熱を! 誰が頼むものかッ」
「頼まぬ? そうか」
男がにっこりすると、白い歯がちかときらめく。
「そうか。頼まぬか。それなら一つ、おれから頼んで一|肌《はだ》ぬがせてもらおうかな」
「…………?」
「いや、なに、人に頭をさげぬ人にはわしが頭をさげたい。援助を頼まぬというところがたのもしい」
と首を伸ばしてお艶をのぞきながら、
「御新造《ごしんぞ》、小才子《しょうさいし》のはびこるこの世に、あんたあ珍しい大魚を釣り上げましたなあ、でかした、でかした! はっははは、大事にしてあげなさい」
御新造――と呼ばれて火のようになったお艶も、何かしら胸にこみあげる感激に突如眼のうちが熱くなって栄三郎の背に顔を押しつけた。
栄三郎は、のめるようにどたり[#「どたり」に傍点]と板に手をついて、
「先刻からの無礼、平におゆるしありたい。改めてお力添えお願い申す」
「承知した! が、それでは痛み入る。まずお手を、ささ、手を上げられい」
「さだめし世に聞こえし隠者《いんじゃ》、御尊名は?」
「隠とは隠れた者、ところがこのとおりどこにでも現われる。名か。そいつは……」
と口ごもったから、また名のない男と答えるかと思うと、
「蒲生泰軒《がもうたいけん》と申す」
「してただいま、人の家へ断りなしに――と言われましたが、お住いは?」
「困ったな。この舟でござる――いや、べつにこの舟とは限らん。いつもここらにつないである舟はすべてわしの宿だ。ははははは、天《あめ》が下《した》に屋根のない気楽な身分。わしに用のある時は、この首尾の松の下へ来て、川へ石を――さようさ三つほうることに決めよう。石を三つ水に投げれば、どの舟からかわしが起き上がる……」
と、この時!
ぐらぐらと舟が傾いて、お艶は危なく栄三郎に取りすがったが、ふしぎ! 流潮《ながれ》に乗って張りきったもやいの綱を岸でたぐるものがあるらしく、あっというまに舟が石垣にぶつかったかと思うと、頭の上に多人数の跫音《あしおと》が乱れ立って、丹下左膳のどら声が河面《かわも》を刷《は》いた。
「おいッ! 乾雲が夜泣きをしてしようがねえから、片割れをもらいに来たんだ。へッ、坤竜丸よ。おいでだろうな、そこに!」
河も岸も空も、ただ一色の墨。
その闇黒が凝《こ》って散らばったように、二十にあまる黒法師が、堀をはさんで立つ松の木下にピタッと静止していた。
左膳、源十郎を頭に、本所化物屋敷の百鬼が、深夜にまぎれて群れ出てきたのだ。
文字どおり背水の陣。
岸のふち、舟板を手にのっそりと構える蒲生泰軒に押し並んで、諏訪栄三郎は、もうこころ静かに武蔵太郎安国の鞘を払っていた。われにもなくまつわり立つお艶の身を、微笑とともにそっと片手でかばいながら、
「てめえ達が上陸《あが》るまでは斬らねえから安心してここまで来い」
という左膳のことばを笑い返して、手を貸しあって小舟を離れた三人だった。
うしろは大川。石垣の下の暗い浪にもまれて、ひたひた[#「ひたひた」に傍点]と船底の鳴る音がする。
前面と左右をぐるりと囲んだ影に、一線ずつ氷の棒があしらわれて見えるのは、いうまでもなくひた[#「ひた」に傍点]押しに来る青眼陣の剣林だ。
寂として、物みな固化《こか》したよう。
「逃げるくふうを……ね! ごしょうですから逃げるくふうを――」
お艶の熱声を頬に感じて、栄三郎はちら[#「ちら」に傍点]と泰軒を見やった。
あがりぎわに一枚引きめくって来た艫《とも》の板をぶらさげて、泰軒は半眼をうっとり[#「うっとり」に傍点]と眠ってでもいるよう……自源流《じげんりゅう》水月《すいげつ》の相《すがた》。
すると! 声がした。
「若えの! 行くぜ、おいッ!」
左膳だ。
と、味方の声につられたか、吸われるように寄ってきた黒妖《こくよう》の一つ、小きざみの足から、
「――――!」
無言のまま跳躍にかかろうとするとこ
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