に対して、いささかの疑いをもっていたのだったが、それが過日、子恋の森はずれで瓦町の若侍を助けて、彼が伊織を弥生と呼ぶのを聞いて以来、いっそうその疑念を深め、おりあらば確かめてやろうと機会をねらっていたのだったが、とうとう今朝《けさ》[#「今朝《けさ》」は底本では「今|朝《けさ》」]!
 人なき家に、ひとり弥生が入浴しているので、よろこんだ豆太郎、そっと隙見《すきみ》をしてみると!
 ふくよかな乳房もあらわに、雪の肌に一糸もまとわぬ湯あがりの女性裸身……。
 豆太郎は、亀背の小男という生れつきで、今まで女という女に相手にされたおぼえがないから、いま、この森の中の一軒家に、若侍に化けた女とふたりきりでいるということは、豆太郎を狂暴にするに十分だった。
 しかも……。
 のぞき見た弥生の裸形――豆太郎は、呼吸が苦しくなった。
 で……。
 じっと湯殿の戸のそとに立って待ちぶせている――。
 とは知らない弥生が、そそくさと着物を羽織って戸を開けた時だった。
「見たぞ!」
 うわずった豆太郎の声である。
 ドキン! としながらも、弥生は笑いにまぎらそうとした。
「なんだ! 豆ではないか……何を見たと申す?」
「見たぜ!」
 豆太郎の顔が、ゆがみつつ寄ってくる。
「だから、何を見たと申すのだ?――どけ……そこをどけ!」
「いンや、どかねえ! エッヘッヘ、お前さんが女子だってエことをちゃんとみてとった以上、この豆太郎に、ちっとお願いがあるんでネ……」
 弥生は、醜く光る豆太郎の眼におされて、思わずタタタ! 二あし、三あし湯殿のなかへ後戻りした。
 ピシャリ! つづいてはいって来た豆太郎が、うしろ手に戸をとざしたのだ。
 気ちがいのようにつかみかかってくる豆太郎を、弥生が必死に防いでいる時だった。
 せまい湯殿の中のあらそいだから、身体の小さな豆太郎には都合がいい。その上弥生はすっかり女のこころもちに返ってしまって、ともすれば負かされ気味に、そこへねじふせられそうになる。
 小熊のように肉置《ししお》きのいい豆太郎が、煩悩《ぼんのう》のほのおに燃えたって襲ってくるのだ。その、大きな醜悪な顔を間近に見たとき、弥生はもはや観念のまなこをつぶろうとした。
 飼い犬に手を咬まれるとはこのこと。
 弥生は、生ける心地もなく、それでも今にも得印老士の一行が帰ってこないものでもないからのがれられるだけのがれるつもりでなおも抗争をつづけていると……。
 食いしばった歯のあいだから、哀願するごとく豆太郎がいう。
「ねえ弥生さん! わたしゃ今までお前さんのために無代《ただ》で働いて来た。何ひとつ、礼をもらったことがねえ。それというのも、女としてのお前さんにあッしゃアたった一つのこの望みがあったからだ。よう、そう没義道《もぎどう》なこといわねえで――!」
 と、こんどは手を合わして拝まんばかりにあわれっぽくもちかけてくるのを、決然として飛びのいた弥生は、手早く着くずれをなおしながら、
「さがれッ! 言語道断な奴めッ! かならずその分には捨ておかぬぞッ!」
 小野塚伊織のいきで大喝すると!
「エイ! もうこれまでだッ!」
 わめいた山椒の豆太郎、いっそう荒れ狂って跳《と》びついてくる。
 流し場……すべる。
 足場がわるい。
 ツルリと足をとられて倒れた弥生へ、半狂乱の豆太郎が獣《けもの》のごとく躍りかかって――落花狼藉《らっかろうぜき》……。
 と見えた刹那……。
 ドン!
 ドン!
 どんどんドン! と湯殿の戸をたたく音がして、
「伊織さん! 伊織さんいませんかえ?」
 という男の声だ。
 ハッとしてひるむ豆太郎をつきのけ、弥生が走りよって戸をあけると!
 この家の駕籠舁《かごか》きのひとり、得印門下|平鍛冶《ひらかじ》の大男、ゆうべ五梃かごをかついで来たのが、一人であわただしく駈け戻ってきたらしく肩でゼイゼイ声も出ずに、
「オ! これだ!」
 と!
 やにわに弥生の眼前へつきだしたのを見ると!
 乾雲坤竜――夜泣きの刀の一対!
「やッ! ついに二剣ところを一に? そんならアノ、ゆうべの斬りこみで……」
 いいかける弥生を手で制した平鍛冶の駕籠屋、
「いそぎますから長ばなしはできねえが、まアよんべ乾雲と坤竜が撃ちあってる最中へうちの大将が跳びこんでね、どうも大層なチャンバラだったが、とどのつまりわしら十人のお駕籠者まで加勢して左膳と栄三郎をおさえつけ、やっと二つの刀をとりあげましたよ、サ、そこで……」
「おウ、そこで?」
「夜明けのうちに八ツ山下まで突っ走って駕籠の中で老先生が、この両剣の柄、赤銅《あかがね》のかぶせをはずしてみると――」
「うむ?」
「出て来ましたね」
「水火の秘文《ひもん》がかッ?」
「はい! 細い紙きれへこまかい字でビッシリ書いて、しっかり中心に巻き締めてありました」
「フウム! よかったなア……」
「その時、得印先生はハラハラと涙をこぼされましたが、イヤ、わしどももみんな泣きましたぜ。正直、うれし泣き……ねえ伊織さま、涙が、なみだがボロボロ――畜生ッ! こぼれやがったッ……ハッハッハ!」
「それは、そうであろう。伊織も衷心《ちゅうしん》からおよろこび申しあげる。多年の本懐を達せられた御老人の心中こそ察せられるなあ」
「へえ、そのとおりで」
 と、男は、今さらのように握り拳で鼻のあたまをこすりあげていたが、
「お! そうだ! こうしちゃいられねえ――伊織さん、先生がいうにゃア、自分はこれからただちに水火の秘符《ひふ》を持って美濃《みの》の関《せき》へ帰るが、ついてはこの二刀はもともとお前さまのお家の物、先生としちゃア文状《もんじょう》さえ手に入れれば夜泣きの刀には用はねえ。このまま正式のもち主のあんたへ返すから、今までどおり世々代々大切に伝えてもらいたい……また会うこともなかろうからくれぐれも身体を大事に……とね、こういう伝言でごぜえましたので、わたし一人がこの二剣を持ってちょっと帰って来ましたが、先生はじめ一同は、品川に駕籠をとめて待っております。では伊織さん確かにお渡ししましたぜ!」
 声と、乾坤《けんこん》双刀とを弥生に残して、男は、もう森の中の小径《こみち》を走り去っていた。
 はっとわれに返った弥生、眼を凝《こ》らして見るまでもなく、いま駕籠かきの大男が残していった乾坤二剣夜泣きの刀が、わが手にある!
 此剣《これ》[#「此剣《これ》」は底本では「此|剣《これ》」]のために、父鉄斎とは幽明《ゆうめい》さかいを異にし、恋人栄三郎を巷に失った不離剣《ふりけん》……去年《こぞ》の秋以来眼を触れたこともなく、今また幾年月その包蔵していた水火の割り文を柄の裡《うち》より吐きさったにかかわらず、その間、何事もなかったかのように、弥生の白い手に抱きあげられている一番《ひとつがい》の珍剣稀刀――。
 思えば、乱麻の悪夢であった。
 もつまじきは因縁の名刀……しみじみとそんな気がこみあげてきて、弥生がボンヤリとまず夜泣きの両剣を腰間に帯《たい》してみようとした――その一刹那!
 忘れていた山淑の豆太郎……。
 土壇場《どたんば》へじゃまがはいって、手のうちの玉をおとした思いのところへ、見ると、弥生がもとより詳しいことはしらないが、なんでもみなが命がけの大さわぎをしてきたその本尊《ほんぞん》のふたつの刀を、ここに入手したらしいようすなので、かなわぬ恋の意趣返しに、ひとつ横あいからふんだくってやれ……どうせこの家へは、もう誰も帰ってはこねえのだ。いわば空家、かたなを取ったうえで存分にじらし謝まらせ、さていうことをきかせてやろう! こう豆太郎なみの智恵にそそのかされたのであろう、やにわに隠れていた風呂場の隅から飛び出したかれ、
「もらったぞ!」
 一こえどなるより早く、パッ! 夜泣きの大小を弥生の手からかすめとって、同時に小廊下づたいに台所へ跳びおりたかと思うと、そのまま水口の戸障子を蹴倒して戸外へ走り出た。
「ああ――!」
 としばし、わがことながらポカンとしていた弥生、秒刻をおいて気がついて見ると、じぶんの身長より高いくらいの陣太刀二|口《ふり》を抱えた豆太郎が、森の木のあいだをくぐり抜けて、みるみるそれこそ豆のように小さくなっていくから、はじめて事態の容易ならぬを知った弥生、呆然から愕然へ立ち返るとともに、
「おのれッ!」
 一散に後を追いだした。
 一丁。
 二丁。
 昼なお小暗い子恋の森の真ん中である。
 斧を知らない杉、楓《かえで》、雑木の類がスクスクと天を摩《ま》して、地には、丈《たけ》なす草が八重むぐらに生いしげり、おまけに、弥生にとってぐあいの悪いことは、豆太郎がその草にのまれて、どこにひそんでいるのか皆目《かいもく》見当《けんとう》のつかないことだ。
 ただ、ザワザワと揺れる草の浪を当てに進む、と果たして!
 何か焚き火の跡らしく黒く草が燃えて、いささか開きになっている地点、両手に雲竜二刀を杖について立っている豆太郎を見いだした。
「ヘッヘッヘ! とうとうここまで来たな!」
 豆太郎がうめいた。
 弥生は無言――そろり、そろりと近づく。
 と、
 再び刀を擁《よう》して草へ跳びこまんず身がまえをつくった豆太郎、
「サ! あっしがこの森の中を駈けまわっているうちゃア、泣いてもほえても、お前さんの手には負えませんよ。ネ! あっしも男だ! いい出したことが聞かれねえとあれア、仕方がねえ。この刀をもらってずらかるばかりさ……それとも弥生さん、ここで往生して眼をつぶるかね? はっはっは、これが舞台なら、サアサアサア――とつめよるところだ!」
 いいながら、今にも身をひるがえして樹間へ走りこみそうにするから、刀を持って行かれてはたまらない弥生が、さりとてこの人猿に自由《まま》にもなれず、進退きわまって立ちすくんでいると、その弥生のようすを承諾の意ととったものか、つかつかとかえってきた豆太郎、
「弥生さん!」
 二剣を右手に、左手をまわして弥生のからだへ掛けようとした。
 思わず、身をすくませる弥生。
 嫌らしくまつわりつく一寸法師。
 その瞬間だった。
 声がしたのである……近くに!
「おうッ! ここかッ! ウム刀も! やッ! 娘もいるなッ!」
 と! 言葉といっしょに。
 独眼刀痕の馬面が、ヌッ! と草を分けて――

  水や空

「やいッ!」
 乾雲を失った左膳、一腕に大刀を振りかぶって立ち現れた。
 それと見るより、早くも豆太郎、弥生を棄てて二剣をかきいだき、みずからは、つと体を低めて懐中を探っている。
 得意の手裏剣をとりだす気。
 左膳の嗄《か》れ声が、またもや森の木の葉をゆすった。
「汝《うぬ》ア化物かッ? 化物にしろ、人語を解《かい》したら、よッくおれのいうところを聞けッ! いいか、その二つの刀とこの娘はナ、去年の秋の大試合におれが一の勝をとって、ともに賞としてもらい受けたのだ、とっくにおれのものなのだ」
 豆太郎は、口をひらかない。ただ、野犬のように白い歯をむき出して、突如、躍りあがるがごとき身ぶりをしたかと思うと、長い腕がブウン! と宙にうなって、紫電《しでん》一閃!
 ガッ! あやうく左膳の首を避けた小柄、にぶい音とともにうしろの樹幹にさし立った。
「ううむ、こいつウッ! やる気だな」
 うめいた左膳さっと、足をひいたのが突進の用意、即座に、左膳、半弧をえがいて豆太郎の素っ首を掻っ飛ばそうとしたが、土をつかんで身をかわした豆太郎、逃げながらの横投げ、錦糸、星のごとく、飛翔《ひしょう》して左膳の右腕へ命中した。
 が、
 あいにくと左膳には右腕がない。
 で、右袖に突きささった短剣はそのまま一、二寸の袖の布地を縫ってとまった。
 ……のもつかの間!
 つづいて四剣、五の剣――と皓矢《こうし》、生けるもののごとく長尾をひき、陽に光り風を起こし、左膳をめがけて槍ぶすまのようにつつんだ……ものの!
 丹下左膳、もとより凡庸《ぼんよう》の剣士ではない。
 タタタタッ! と続けざまに堅い音の散ったのは、左剣上下左右に動転
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