《どうてん》して豆太郎の小刀をたたきおとしたのだった。
「あっ!」
 この剣能に、きもをつぶして声をあげた豆太郎われ知らず、もう一度ふところに手をさし入れたが――小柄はすべて投じてしまって残りがない。
 瞬間! 泣くような顔になったかと思うと、豆太郎はすでに背をめぐらして、目前の草のしげみへ跳びこもうとした。
「待てッ! もう投げる物アねえのかッ!」
 左膳の罵声がそのあとを追った。
 豆太郎は、振り向いた。
 哀れみを乞うような、笑いかけるがごとき表情だった。
 しかし、つぎの刹那、かれは頭から、滝のような血を吹いて真っ赤になった。追いすがった左膳が冷たい微笑とともに一太刀おろしたのである。
 山淑の豆太郎、全身|血達磨《ちだるま》のごときすがたで地にのたうちまわったのもしばらく、やがて草の根をつかんで動かなくなった。絶え入ったのだ。
 と見るや左膳は、
「いやなものを斬ったぜ」
 とひとりごと。
 ひきつるような蒼白の笑みとともに、大刀の血糊《ちのり》を草の葉にぬぐいながら、弥生と二剣は? と、そこらを眺めまわすと、いまのさわぎのうちに、いつの間にかまぎれさったものであろう。弥生も、夜泣きの刀も近くに影がない。
 深閑として、陽の高い森の奥。
 雨のような光線の矢が木々の梢を洩れ落ちて、草葉の末の残んの露に映《うつ》ろうのが、どうかすると雑草の花のように、七色のきらめきを見せて左膳の独眼を射る。
 ムッ! とする血のにおい――左膳は、ふたたびニヤリとして豆太郎の死体を見返ったが!
 かれは鈴川源十郎の口から、弥生がこの子恋の森に、五人組の火事装束とともに住んでいると聞いたことを思い出したので、ゆうべ不覚にも、多勢に無勢、ついに乾雲を強奪されたから、それを取り返すつもりで、もしやとこの森へ出かけて来たのだった。
 すると、果たして二刀ところを一にしているのを見は見たものの、豆太郎という邪魔者を退けているうちに、弥生ともどもどこへか消えてしまったのだ。
「なあに、どうせまだこの辺にうろついてるに違えねえ……」
 ガサガサと草を分けて歩き出した左膳の眼に、森の下を急いでゆく弥生と、彼女が小脇にかかえている陣太刀の両刀とが、チラリとうつった。
 走り出す左膳。
 弥生も、ちょっとふり向いたまま、懸命に駈けてゆく。
 追いつ追われつ、二人は森を出はずれたのだった。

 雲竜二刀を確《しか》と抱きしめて子恋の森を走り出た弥生、ゆくてを見ると、四つの駕籠がおりているので、さては得印門下の四人が、何かの用で森の家へ帰って来たのか、やれ助かった! と[#「助かった! と」は底本では「助かった!と」]なおも足を早めて近づくと、
「おうい! そこへ行ったぞウッ!」
 といううしろからの左膳の声に応じて、バラバラバラッと駕籠を出たのを眺めると、
 一難去って二難三難!
 月輪の援隊《えんたい》、三十一人が三人に減ったその残剣一同、首領月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎……これが左膳とともに駕籠を駆って来ていた。その網のまん中へ、われから飛びこんだ小魚のような弥生の立場!
「あれイ……ッ!」
 と、もう本然の女にかえっている弥生、一声たまぎるより早く、ただちに元来た方へとって返そうとしたが!
 ことわざにもいう前門の虎、後門の狼! あとは左膳がおさえてくるのだ。
 右せんか左すべきかと立ち迷ううちに四人のために、手取りにされた弥生、夜泣きの二剣とともに駕籠のひとつにほうりこまれるや否や、同じくそれへ左膳が割りこもうとした。
 その一刻に!
 これもゆうべ。
 多勢に無勢、風雨中の乱戦に、得印五人組のために坤竜丸を奪い去られた栄三郎と泰軒、おくればせながら左膳の一行をつけて駈けてきた。
 そして!
 諏訪栄三郎、そのさまを見るより、昨夜来、血に飽いている武蔵太郎を打《ちょう》ッ! とひるがえして、左膳へ斬りこむ。
「来たなッ!」
 大喝した左膳、栄三郎、泰軒の中間へわざと体を入れながら、
「月輪|氏《うじ》、かまわず先へやってくれッ! 落ちあう場所はかねての手はずどおり……あとは拙者が引きうけたから、娘と刀をシカとお預け申したぞ……! サ拙者を残して、一ッ飛ばしにやってくれいッ……」
 わめき立てた。
 同時に。
「ハイッ! いくぜ相棒!」
「合点《がってん》だッ!」
 と駕籠屋の威勢。
「しからば丹下殿、あとを――」
「心得申した、一時も早く!」
 駕籠の内外、左膳と軍之助が言葉を投げあったかと思うと、四つの駕籠がツウと地をういて――。
 二、三歩、足がそろいだすや、腰をすえて肩の振りも一様に、雨後のぬかるみに飛沫《ひまつ》をあげて、たちまち道のはずれに見えずなった。
 チラと見送って安心した左膳、皮肉な笑いを顔いっぱいにただよわせて、泰軒、栄三郎を顧みた。
「ながらく御厄介になり申したが、手前もこれにておいとまつかまつる。刀と娘御は、拙者が試合に勝って鉄斎どのより申し受けた品々……はッはッはは、ありがたく頂戴《ちょうだい》いたすとしよう」
 栄三郎が、口をひらくさきに、泰軒が大笑した。
「まだその大言壮語にはちと早かろうぞ! 貴公の剣、それを正道に使うこころはないかな、惜しいものじゃテ」
「何をぬかしゃアがる! 正道もへったくれもあるもんか。おれアこれでも主君のために……」
「ウム! いいおったナ」
 泰軒は一歩すすみ出た。
「主君のために! おお、そうであろう、いかにもそうであろう! 藩主相馬大膳亮どのの蒐刀《しゅうとう》のために――はははは、越前もそう申しておった……」
 キラリ眼を光らせた左膳、
「越前……とは、かの南の奉行か?」
「そうよ! 越前に二つはあるまい!」
 と、聞くより左膳、
「チェッ! その件に越州《えっしゅう》が首を突っこんでおるのか……ウウム! それではまだ、てめえのいうとおり、おれも安心が早すぎたかも知れねえ! や! こりゃアこうしちゃあいられねえぞ」
 声とともに左膳は、パッ! おどり立って一刀を振ったかと思うと、それッ! と構えた泰軒栄三郎のあいだをつと走り抜けて、折りから、むこうの小みちづたいに馬をひいて来た百姓のほうへスッとんでゆく。
 左膳が百姓を突きとばすのと、かれがその裸馬へ飛び乗るのと、驚いた馬が一散に駈け出すのと左膳がまた馬上ながらに手を伸ばして立ち木の枝を折り取り、ピシィリ! 一|鞭《むち》、したたかに奔馬をあおりたてたのと、これらすべてが同瞬の出来事だった。
 鞍上《あんじょう》人なく、鞍下《あんか》馬なし矣。
 左膳はほしとなり点となって、刻々に砂塵のなかに消え去ってゆくのだ。
 その時だった。
 唖然《あぜん》としていた泰軒と栄三郎が耳ちかく悍馬《かんば》のいななきを聞いたのは。
 時にとって何よりの助けの神!
 と、馬のいななきに、泰軒と栄三郎がふり返ってみると!
 覆面の侍がひとり、二頭の馬のくつわをとって、いつのまにやら立っている。
 ふたりはギョッとしていましめ合ったが、黒頭巾の士は、馬をひいてツカツカと歩みより、
「お召しなされ! これから追えば、かの馬上左腕の仁のあとをたどることも容易でござろう。いざ、御遠慮なく!」
「かたじけない!」
 泰軒は低頭して、
「どなたかは知らぬが、思うところあって御助力くださるものと存ずる」
「いかにも! すべて殿の命《めい》でござる。いたるところに疾《とく》に手配してあるによって、安堵して追いつめられい!」
 という意外な情けの言葉に、
「殿《との》……とは?」
 泰軒が問い返すと、
「サ、それはお答えいたしかねる。とにかく一刻を争う場合、瞬時も早くこの馬を駆って――」
 終わるのを待たで御免! とばかり鞍にまたがった泰軒と栄三郎、左膳の去った方をさしてハイドウッ! まっしぐらに馳せると、いくこと暫時にして左膳の姿を認めだしたが、左膳、馬術をもよくするとみえて、なかなかに追いつけない。三頭の馬が砂ほこりを上げて江戸の町を突っきり、ついにいきどまって浜辺へ出た。
 汐留《しおどめ》の海である。
 見ると、ヒラリ馬から飛びおりた左膳は、前から用意してあったらしく、そこにもやってある一艘の伝馬船《てんません》へ乗り移ったかと思うとブツリ……綱を切り、沖をさして漕《こ》ぎ出した。
 船には、さっき月輪の三人が、弥生と乾坤二刀を積みこんで待っていたのだ。
 さては! 海路をとって相馬中村へ逃げる気とみえる! と栄三郎と泰軒が船をにらんで地団駄《じだんだ》をふんだとき。
 スウッと背後に影のように立った、またもや覆面の士!
 ふたりには頓着なく、
「これへ!」
 とさし招くと、艪《ろ》の音も勇ましく船べりを寄せてきた一隻の大伝馬がある。
「乗られい!」
 侍がいった。
 その声に、泰軒はおぼえがあるらしく、
「オ! 貴公は大……!」
 いいかけると、侍が手を振った。だまって船を指さしている。
「わかった! すべて、貴公の胆《きも》いり――かくまで手配がとどいていたのか。ありがたい! さすが南の……オッと……何にもいわぬ! これだッ!」
 と泰軒、手を合わせて件《くだん》の侍を拝むと、侍は頭巾の裏で莞爾《かんじ》としているものとみえて、しきりにうなずきながら、早く乗り移れ! と手真似をする。そして!
「前々から彼奴《きゃつ》ら一派の動静は細大洩らさず探ってあって、きょうの手はずもとうにできておった。それからナ彼奴にはもう何人《なんびと》の呼吸もかかっておらぬぞ。よいか、外桜田に相馬の上屋敷がある。そこの江戸家老を呼んでいささかおどかしたのじゃ。ついに、刀を集める左腕独眼の剣士、そんなものは知らぬといわせてやった。はっはっは、これならばもう彼は相馬の士ではない。いわば野良犬……な、斬ろうと張ろうと、北の方角から文句の出るおそれはないわい。存分に……」
「そうかッ! よしッ」
「奉行いたずらに賢人ぶるにおいては――ではないが、わしにも眼がある。黙っておってもやるだけのことはやるよ。江戸の始末はわしに任《まか》せておいて、どこまでもあの船を追ってゆくがよい。早ういけ! あんなに小そうなったぞ!」
 黙ってこの侍に頭を下げた泰軒、栄三郎を促して、差しまわしの船に飛び乗った。
 屈強の船方がそろっている。
 すぐに櫓なみをはずませて、左膳の船のあとを追い出した。
 しおどめ。
 左に仙気《せんき》稲荷。
 一望、ただ水。
 広やかな眺めである。
 ギイギイと櫓べそのきしむ音。
 二艘の船は、こうして江戸を船出したのだった。
 藍《あい》いろの海。
 うす青い連山。
 かえり見ると、磯に下り立つ覆面のさむらいの姿は、針の先となって視界のそとに没し去ろうとしていた。
 ……水と空のみが、船と船のゆくてにあった。

  夕陽《ゆうひ》の辻《つじ》

 似よりの船あし。
 風のない昼夜。
 油を流したような入《い》り海《うみ》に、おなじ隔《へだ》たりがふたつの船のあいだに何日となくつづいた。
 白い水尾《みお》[#ルビの「みお」は底本では「みを」]を引く左膳の船のあとに乗って、栄三郎、泰軒の船があきもせずについてゆくばかり……。
 敵意も戦意も失せそうな、だるい航海のあけくれだった。
 その間、左膳の船では。
 むりやりに担《かつ》ぎこみはしたものの、いざそばに見るとその気高《けだか》い処女の威におされて、さすがの左膳も弥生には手が出せず、今はただ雲竜双刀のみを守って弥生は大切に取り扱い、ひたすら一路相馬中村に近い松川浦へ船の入る日を待っているのだった。
 月輪の三士、軍之助、各務房之丞、山東平七郎とても同じこと。
 血筆帳《けっぴつちょう》の旅で江戸へ出たとき、かれらのうち誰がこんにちのさびしさを思ったものがあろう!
 三十一人わずか三人に減じられて、落人《おちうど》のごとく胴の間にさらされているのだ。
 栄枯盛衰《えいこせいすい》――そうした言葉が、軍之助の胸を去来してやまなかった。
 板子《いたこ》一枚下は地獄。
 海の旅は、同船のものをしたしくする。
 
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