こんだ。
 いま見た夢である。
 剣鬼左膳、夢を気にするがらでもなく、また坊間《ぼうかん》婦女子のごとくそれに通じているわけでもないが……。
 当節《とうせつ》流行《はやり》の夢判断。
 それによると。
 月の水に映る夢は、諸事《しょじ》早く見切るべし。
 星の飛ぶ夢は、色情の難《なん》あり。
 ――とある。
 すべて早く見切るに限る。しかも、身に女難が迫っているというのだ。
「ウム! 容易ならんぞ、これは!」
 こう冗談めかしてひとりごちながら左膳がニッとほほえんだとたんに彼はあきらかに再び、片割れ乾雲丸が啾々乎《しゅうしゅうこ》として夜泣きする声を聞いたのだった。
 どこから?
 といぶかしんで、左膳は、その剃刀のように長い顔を上げた。
 ジジジイ……ッと、灯が油を吸う音。
 乾雲は、見まわすまでもなく、まくらもとにある。
 陣太刀作り、平糸《ひらいと》まきの古刀――左膳が、独眼を据えてその剣姿を凝視していると!
 やはり、声がする。
 夜泣きの刀! の名にそむかないものか、訴うるがごとく哀れみを乞うがごとく、あるいは何かをかきくどくように、風雨のなかを断続して伝わってくる女の泣きごえであった。
 それも、老女――に相違ない。
 そして、母屋《おもや》の方から!
 と見当をつけた左膳のにらみははずれなかった。
 と言うのが。
 ちょうどその暴風雨の真夜中、化物やしきの本殿、鈴川源十郎の居間では……。

 お艶の母おさよは……。
 栄三郎への手切れ金として五十両の金を源十郎から受け取り、その掛合い方を頼みに、浅草三間町の鍛冶屋富五郎のところへ、出かけたところが、同じくお艶に思いを寄せている鍛冶富が、預かった金を持って逐電《ちくでん》してしまったので、しばらくは富五郎の女房おしんとともに帰りを待ってみたものの、富五郎はお伊勢まいりと洒落《しゃれ》て東海道へ出たのだから、そう早く戻ってくるわけはない。
 といって。
 いつまでも他人のうちに無駄飯《むだめし》を食べていることもできず、おまけにおしんが、お艶と富五郎の仲を疑って日ごとにつらく当たりだすので、とうとういたたまらなくなったおさよ婆さん、わけを話して詫《わ》びを入れ暫時《ざんじ》待ってもらおうと、来にくいところを、今夜思いきって化物やしきの裏をたたいたのだったが――。
 金とともに出て行ったきり帰らないおさよを、毎日カンカンになって怒っていた源十郎のことだからフラリと、狐憑《きつねつ》きのようにはいってきたおさよ婆さんを見ると、源十郎、われにもなくカッとなって、いいわけのことばも聞かばこそ、おのれッ! とわめきざま、やにわにおさよを板の間へ押しつけて、
「これッ さよッ! 母に似ておるなどと申し、奉っておいたをいいことに、貴様、なんだナ、おれから五十両かたりとって、お艶と栄三郎をいずくにか隠したものに相違あるまい。いや、初めから三人で仕組んだ芝居であろう! ふとい婆アめ! どの面《つら》さげてメソメソと帰りおった――ウヌッ」
 というわけで、おさよには碌《ろく》にものも言わせず、いきなり責め折檻《せっかん》にかかったから、五十六歳になるおさよ婆さん、苦しさのあまりあたりかまわず悲鳴を上げる。
 ……その声が!
 戸外のあらしを貫いて、離れの左膳の耳にまで達したのだった。
 たださえ。
 すさまじい風雨の夜ふけ。
 その物音にまじって漂う老婆の哀泣《あいきゅう》である。これには、さすが刃魔の心臓をすら寒からしめるものがあったとみえて、ひとり眼ざめて夢判断をしていた左膳が、思わずブルルル! 身ぶるいとともに夜着をひっかぶろうとしたとき!
 どこからともなく……。
「乾雲! これ、坤竜が慕うて参ったぞ! 坤竜が来たのだ! あけろ!」
 低声《こごえ》である。
 それが、たとえば隙洩る風のように左膳の耳にひびいたから、ハッ! としながらも――。
 耳のせい……ではないか?
 と!
 たしかめようとして、左膳が枕をあげた――いや、あげようとした、その瞬間であった。
 左膳と、むこう側の月輪軍之助の臥《ね》ているところとのあいだに、たたみ一畳のあきがあって、のみかけの茶碗や水差しが、どっちからでも手がとどくように、乱雑に置いてあるのだが!
 ふしぎ!
 左膳が、地震ではないか?……と思ったことには。
 その茶碗や水さしがひとりでに動き出して、オヤ! と眼をこすって見ているまに!
 ムクムクと下から持ちあがった畳!
 それが、パッ! と撥ね返されると!
 驚くべし――。
 いつのまにやら床板がめくりとられて、ぱっくりと口をあいた根太《ねだ》の大穴。
 しかも。
 そこに、まるで縁の下から生えたように突ったちあがった二人の人物……諏訪栄三郎に蒲生泰軒。
 あらしの音にまぎれて忍びこみ、下から板をはがしたものであろう。ふたりとも襷《たすき》に鉢巻、泰軒先生までが今夜は一刀を用意してきて、すでに鞘を払っている。
「起きろッ! 夜討ちだアッ!」
 どなりつつ、のけぞりながら左膳一振、早くも乾雲の皎刀《こうとう》を構えた左膳、顔じゅうを口にして二度わめいた。
「起きねえかッ、月輪ッ」
 が!
 同時に、
 ウウム……断末魔のうめき。
 泰軒の刀鋩《とうぼう》が、轟玄八のひばらを刺したのだ。
 栄三郎は、蒼白いほほえみとともに、もうノッソリと穴から部屋の中へあがっていた。
 立ち樹が揺れて、梢が屋根をなでる音――。

 夜着のうえから一突きにされて、声もあげ得ずに悶絶した轟玄八のようすに、白河夜船をこいでいた他の三人も、パチリと眼がさめてとび起きた。
 見ると!
 すっかり身じたくをした諏訪栄三郎に蒲生泰軒、ともに、あんどんの薄光を受けて青くよどむ秋水《しゅうすい》を持して、部屋の左右に別れているから、三人、帯をしめなおすまもない。
 てんでに刀へ走って、鞘をおとした。
 左膳は?
 と気がつくと、床下づたいに広庭へおびき出すつもりか。ソロリソロリと後ずさりに、いま、泰軒栄三郎の出てきた根太板の穴のほうへ近づきつつある。
 荒夜の奇襲。
 つとに満身これ剣と化している栄三郎、声――は、胆《たん》をしぼって沈んでいた。
「丹下どの?……今宵は最後とおぼしめされい!」
 左膳は、一眼を細めて笑った。
「この暴《あ》れじゃアどうドタバタ騒いでもそとへ物音の洩れっこはねえ。なア若えの、ゆっくり朝まで斬りあうぞ」
 泰軒が一喝した。
「多弁無用! 参れッ!」
 と……。
 これが誘引した乱刃|跳舞《ちょうぶ》。
 真っ先に剣発した月輪軍門の次席山東平七郎、陀羅尼将監《だらにしょうげん》勝国の一刀にはずみをくれて、
「えいッ!」
 わざと空《から》気合いを一つ投げて、直後! 泰軒めがけて邁進《まいしん》すると同時に、
 ツ――ウッ!
 横に薙《な》いだつるぎの端に、あわよくば栄三郎をかける気。
 ……であったろうが!
 そこは秩父《ちちぶ》に残存する自源流をもっておのが剣技をつちかいきたった泰軒先生のことだ。
 自源流は速を旨とし、いちめん禅機に富む。
 この平七郎|雪崩《なだれ》おちの手さばきを知察した泰軒、われからすすんで平七郎の剣をはねるや、体を左に流して栄三郎を庇《かば》ったから、栄三郎は、手なれの豪刀武蔵太郎を引くと同時にくり出して、左膳の胸部を狙って板割りの突きの一手……。
 同瞬!
 落ちこまんとした穴を、ふち伝いにうしろに避けた左膳、柄をひるがえして下から上へ、クアッ! 太郎安国をたたきあげるが早いか、そのまま振りかぶった稀剣《きけん》乾雲、左腕、うなりを生じて真っ向から栄三郎の面上へ!
「こうだッ!」
 と一声。
 閃落《せんらく》した――と思いのほか!
 刀下一寸にして側転した栄三郎神変夢想でいう心空身虚、刹那に足をあげたと見るや、栄三郎グッ! と、平七郎のわきばらを一つ、見事にあおっておいてまた逆返し。
 今度は!
 右うでのない左膳の右横から、声もかけず拝みうちに撃ちこんだので、防ぎ得ず左膳、血けむり立てて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》ッ! そこに倒れた……と見えたその濛々《もうもう》たる昇煙は。かわしながら、左膳がとっさに足にかけた煙草盆の灰神楽《はいかぐら》で、左膳自身は早くも壁を背負って立った猪突の陣、独眼火をふいて疾呼《しっこ》した。
「サ! 骨をけずってやる。此剣《これ》でヨ、ガジガジとナ……ヘヘヘヘ、来いッ野郎ッ……」
 相対した栄三郎、下目につけた不動の青眼、寂……として双方、林のごとく静止。
 泰軒はいかに?
 と観れば……。
 北国の雄師月輪軍之助、一の遣い手各務房之丞、二番山東平七郎の三角剣の中央に仁王立ち――相も変わらず両眼をなかばとじて無念無想、剣手をダラリと側にたらした体置きは、先生にして初めて実応し、この修羅場に処して機発如意《きはつにょい》なる自源流本然のすがた水月の構刀《こうとう》だ。
 ピタッと幾秒かのあいだ、屋内の剣戦が、相互に呼吸をはかりあう状に入って休断すると……ゴウッと風のひびき。
 雨戸を打つ大粒な雨あし。
 依然として紋つきを着た枕あんどんの光が、ふとんにくるまった轟玄八の死骸を、まるで安眠しているかのように、おだやかに照らしている。
 が、しかし!
 この不動対立は長くは続かなかった。
 たちまちにして闘機《とうき》再発し、せまい離室に剣閃矢と飛び、刀気猛火のごとく溢れたったがために。
 この時すでに!
 はなれの外《そと》に五人の火事装束が猫のように忍びよって、グルリと取り巻いて折りをうかがっていたのを、誰も知るものはなかった。
 朝が来た。
 あらしののちの静寂《しじま》には、一種の疲れがはらまれている。
 金色の陽の矢が青山子恋の森に射しそめたころおい……。
 弥生は、いつものとおり朝の湯につかっていた。
 起きぬけに入浴するのが弥生のならわしになっていたので、彼女は一日もかかさずに続けて来たのだったが。
 ゆうべは。
 じぶんと豆太郎を留守《るす》において得印《とくいん》兼光老士は、門弟の火事装束の士四名と、平鍛冶を人足に仕立てた十人の大男に駕籠をかつがせて本所の化物やしきを夜襲したままいまだ帰ってこない――でユックリと風呂にはいっている気もしないのだったが、それでも、湯がわいたと豆太郎が知らせに来たとき彼女は思いきって湯殿へ立ったのである。
 昨夜、鈴川方に、栄三郎が坤竜を佩《はい》して夜討ちに来ていることはきのうの午さがりから豆太郎の偵査《ていさ》によって当方にはわかっていた。
 いわば、そうして雲竜二刀が双巴《ふたつどもえ》の渦をまいているところへ、横あいから飛びこんで、ふたつの剣を同時に掠《かす》めとろうというので、さくやは一同、ことのほか勢いこんで出かけたわけだが……うまく左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜をとりあげて、関の孫六の末得印兼光はたして流祖の秘文水火の合符《がっぷ》を入手するであろうか?
 湯にひたりながら風雨のあとのなごんだ空を窓に見て、小野塚伊織の弥生、しきりに思いめぐらしている。
 もとより、栄三郎さまにはお怪我のないよう――間違いのないようにと、得印老人をはじめ四人の部下によく頼んでおいたものの、仔細を知らぬ栄三郎が、そうやすやすと秘刀坤竜を渡すはずがない、必ずや大いに剣闘したことであろうが、そのはずみにもしや栄三郎さまに……と思うと弥生、留守を預っているとはいえ、とてものんきに風呂なぞつかっていられなくなって、
「まだ戻られぬとは、どうしたのであろう?」
 われ知らずひとりごと、急にあがりじたくをはじめて身体を拭《ふ》きだした。
 弥生はやはり弥生、いまだに栄三郎を恋い慕う純なこころを失わずにいるのだった。
 それはいいが!
 この風呂場の羽目板の節穴からひとつの眼がのぞいて、弥生の入浴を終始見守っていた者がある。
 甲州無宿|山椒《さんしょう》の豆太郎だ――。
 かれは、最初、まつりの日に弥生に見いだされて雇われた時から、弥生のいわゆる伊織が男であるということ
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