……ハアテふしぎ! それより源の字、弥生が子恋の森の一軒家に住んでおると汝《うぬ》に話したのはだれだ!」
 腕を組んだ源十郎、
「こりゃア貴公のいうとおり、われら両人がともに謀《はか》られたものにちがいあるまい。貴公と拙者、争いはいつでもできる。まずそのまえに、われらをたばかったものを突きとめ、きゃつらの心組みを糺明《きゅうめい》いたそうではないか」
「うむ」
「いわばわれら両人は同じ災厄におうたようなもの。ここはいたずらに恨みあう場合でないとぞんずる。どうじゃ!」
「それあまアそうだ。だが、源十、てめえに弥生のことを告げたのは誰だと、それをきいておるではないか」
「そうか。それならいうが、じつは突然、かの櫛まきお藤がたずねて参ってナ――」
「ナニ! お藤ッ!」
 みなまで聞かずに、左膳は片手に乾雲をひっさげて突ったった。かた目が夕陽にきらめく。
「お藤かッ……チ、畜生ッ! どこにいるのだ、真ッ二つにしてくれる――」
「まア待て!」
 源十郎も立ちあがった。
「もうおらん、ここにはおらん。すぐ帰っていった……しかし、貴様にお艶のいどころを深川のまつ川とふきこんだ本人はだれなのか貴公、まだそれをいわんではないか」
 左膳の頬の刀痕が笑いに引っつる。
「なあに、それは与の公――例のつづみの与吉から聞いたのだ」
「与吉!」
 とおうむ返しに源十郎が驚き、
「さては、お藤めの意趣がえしであったか……」
 左膳が同じく歯を噛《か》んだちょうどそのときに、ビクビクもののつづみの与吉が、全身に汗をかいて荒れ庭の地を這い、ソウッと左膳の離室を遠ざかろうとしていた。
「こりゃアいけねえ! いまみつかったら百年目、いきなりバッサリやられるにきまってる……桑原《くわばら》桑原!」
 土をなめながら、与吉はつぶやいた。
「姐御《あねご》! 姐御ッ! 大変だッ!」
 というあわただしい声が、まっくらな穴ぐらの入口から飛びこんでくると、櫛まきお藤は暗い中でムックリと身を起こした。
 第六天……篠塚《しのづか》いなりの地下、非常の場合に捕り手をまく穴に、お藤はさきごろからひとり籠《こ》もっているのだった。
「なんだい、そうぞうしいねえ」
 チッ! と軽く舌打ちをしたものの、ただならぬ与吉のようすに、お藤の声も思わずうわずっていた。
 お藤が、そのあぶないからだを稲荷の穴へひそめて、ながらく外部《そと》へ出ずにいても、いつも世の動きを耳へ入れておくことのできたのは、このつづみの与吉があいだに立って絶えず報知《しらせ》をもちこんできていたからで、誰知らぬ場所とはいえ、与の公だけはとうからこのお藤姐御が一代の智恵をしぼった隠れ家を心得ていたのだ。
 今、
 その与吉が、いつになくあわてふためいて駈けこんで来たのだから、さすがのお藤が胆《きも》をつぶしたのももっともで、
「なんだねえ、与のさん、ただ大変じゃアわからないじゃないか。何がどうしたッていうのさ」
 こう落着きをよそおってききながらも、お藤は不安らしくジリジリしていると、天地のあかるい夕焼けの一刻から急に黒暗々の地室へ走りこんだので目が見えなくなったも同然になったつづみの与の公、腰を抜かすように、ペッタリ破れ筵《むしろ》にしりもちをつくなり、
「おちついてちゃアいけねえ! と、とにかく大変! く、首が飛びます首がッ!」
「ホホホホ!」お藤は笑い出した。
「そりゃア、与の公、お前らしくもない。いまに始まったことじゃアないじゃないか。お互いさま、いつ首が飛ぶか知れない身の上なんだから考えてみると、おとなしくしているだけ損なわけさね」
 与吉は、ことばより先に、大きく頭上に両手を振りみだして、
「チョッ! そ、そんな……そんなのんきなんじゃアねえ! なにしろ姐御《あねご》、本所の殿様と左膳さまが、あっしと姐御を重ねておいて二つにしようってんだから――」
「おや! それあおもしろい! けど嫌だよ、お前といっしょにふたつにされるなんて……不義者じゃアあるまいし」
「さ! そこだ!」
 と与吉は乗り出して、
「さっきわたしが左膳さまのはなれへちょいと顔出ししようと思ってネ、ぼんやりあそこの前まで行くてえと、なんだか話し声がするじゃアございませんか」
「そのなかに、与吉、お藤てエのが聞こえたから、こりゃアあやしい、なんだろう?――こう思ってジッと聞いてみるてえと――」
「そうすると?」
「驚きましたね」
「何がサ?」
「イヤハヤ! おどろき桃《もも》の木|山椒《さんしょう》の木で、さあ!」
「うるさいねえ。なんでそう驚いたのさ」
「いえね姐御、お前さん鈴川の殿様に、弥生さんのいどころを知らせておやんなすったろう?」
「ああ。ちょいと考えがあって知らせてやったのさ。それがどうかしたのかえ?」
「そいつだ! 実ア姐御、あッしもちょっかいを出して左膳様にお艶の居場所を教えたんだが、ところがお前さん、ふたりがさっそくしらせあってすぐとめいめいの女のところへ駈け出したらしいんだが、どっちもおあいにくで、おまけに恥をかくやら命があぶなくなるやら、両方ともほうほうのていで逃げ帰ってネ、あやうく果たしあいになるところで、たがいに話の仕入れ先がわかったもんだから、それで急にこっちへ火さきが向いて来て、なんでも鈴川の殿様と左膳さまは、姐御とあッしをみつけしだい殺《ば》らしてしまうと、それはそれはたいした意気込みですぜ」
 与吉のはなしの中途で立ちあがって、くらいなかに帯を締めなおしていた櫛まきのお藤が、このとき低い声で、うめくようにいったのだった。
「与の公、したくをおし! サ、長いわらじをはこうよ。だが、その前に……」
 あとは耳打ち――与吉はただ、眼を見はって、つづけざまにうなずいていた。

 外桜田《そとさくらだ》……南町奉行大岡越前守忠相の役宅。
 まだ宵のくちだった。
 奥の一間に、夕食ののちのひと刻を、腰元のささげてくる茶に咽喉をうるおしつつ、何思うともなく、庭前のうす暗闇に散りかかる牡丹《ぼたん》の花を眺めている忠相を、うら木戸の方に当たってわき起こったあわただしいののしり声が、ちょうど静かな水面に一つの石の投ぜられたように、突如として驚かしたのだった。
 何ごとであろう? また、黒犬めが悪戯《わるさ》でもしおったのではないか――。
 と、忠相が聞き耳を立てたとき、用人の伊吹大作が、ことごとく恐縮して敷居ぎわにかしこまった。
「なんじゃナ、大作」
 忠相は、にこやかな顔を向けた。
「は。お耳に入りまして恐れ入りまする。実はソノ、ただいま、なんでございます、気のふれた女がひとりお裏門へさしかかりまして……」
「ほほう! 気がふれた女か?」
「御意《ぎょい》にござります。しかもその気のふれようが大《だい》それておりまして……」
「よい、よい! 大切に介抱してつかわし、さっそくに身もとを探すがよかろう」
 やさしい目が細く糸を引いて、その見知らぬ女に対する忠相の思いやりがしのばれる。
 めっそうな! というふうに、大作はいそがしく言葉をつづけた。
「ところが――でござりまする。その狂いようたるや、とうていなみたいていではございませんので」
「フウム! どうなみたいていではないかナ? そちのもとへ押しかけ女房にでも参ったのか」
「これはお言葉、はははは……いえ、そのようなことなれば、わたくしにもまた覚悟がございますが、ただ君に拝顔を願っておりますしだいで――」
「なに、わしに会いたい?」
 忠相は、ふしぎそうに目をしばたたいた。
「さようでござりまする」と一膝乗り出した大作、
「御前様に気のふれた女のちかづきがあろうとは、大作きょういままで夢にも……」
「ハッハッハ! ただいまの返報か――うむ、それはいかにも忠相の負けじゃ。はははは、しかし、それなる女何の故をもってわしに面接を願い出ているのかナ?」
「さあ、それは――なにしろどうも狂女の申すことでまことにとりとめがございませぬが、たって拝顔を願ってお裏門にしがみつき、どうあやして帰そうといたしましてもますます哭《な》き叫ぶばかり、お耳に達して恐縮のいたりでございますが、一同先刻よりほとほと当惑いたしておりまする」
「して、どこの何者ともわからぬのか」
 ききながら、忠相はもう立ちあがっている。
 大作は、驚いて押しとどめた。
「御前! どちらへお越しでござります? よもや女のところへ……いえ、じつは、女が舞いこみましてまもなく、弟と申す若い町人が探し当てて参りまして、われわれともどもなだめてつれ戻ろうと骨を折っておりますが、女め、いっこうに動こうとはせず、暴れくるうておりまする」
 とめる大作を軽く振り払って、着流しの突き袖、南町奉行の越前守忠相は、もはや気軽に庭づたいに女のとびこんで来たという裏門のほうへ足早に歩き出していた。
 お中庭を抜けて背戸口。
 植えこみのむこうに小者の長屋が見える。
 もうすっかり夜になろうとして、灯が、あちこちの樹の間を洩れていた。
 ぽつり……雨である。
 さっきから、なんだか妙に生あたたかく曇っていると思ったら、とうとう降りだしたか。
 ――忠相が空をあおぐと、星一つない真ッ暗な一天から、また一粒の水が額部《ひたい》をうった。
 声が聞こえる。
 近い。
 つと歩を早めて、忠相が裏門ぐちの広場へ出てみると……。
 なるほど、これが大作のいった気のふれた女であろう。下町づくりのひとりの女が、見るも無残に取り乱して地に横臥し、何かしきりにわめいているのだ。
 取り巻く中間折助のうしろからそっとのぞきみた忠相は、何を思ってか、続いてきた大作に命じて一同を立ち去らせ、あたりに人なきを待って、女と、その弟と称してかたわらに土下座する町人ていの男とのまえに、つかつかと進みよった。
「お藤! 櫛まきお藤であろう、汝は! 狂人をよそおって何を訴えに参った?」
 忠相はしゃがんだ。
「お奉行様、いかにもそのお藤でございます。スッパリと泥をはいて、いっさいを申し上げますから、どうぞそのかわりに……」
「目をつぶって、江戸をおとせ――と申すか」
 ジロリと、忠相の目が、そばの男へ走った。
「与吉であろう? つづみの」雨が、しげくなった。

 雨と風と稲妻と……。
 九刻《ここのつ》ごろから恐ろしいあらしの夜となった。樹々のうなり、車軸を流す地水。天を割り地を裂かんばかりに、一瞬間に閃めいては消える青白光の曲折。
 この時!
 本所化物屋敷の離庵《はなれ》では。
 相馬藩|援剣《えんけん》の残党、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八の四名とともに枕を並べて眠っている剣妖丹下左膳が――夢をみていた。
 五|臓《ぞう》の疲れ――であろうか。
 左膳の夢は。
 静夜、野に立って空をあおいでいる左膳であった。
 明るい紫紺の展《ひろ》がりが、円く蓋《ふた》をなしてかれのうえにある。
 大きな月。
 星が、そのまわりをまわっていた。
 と、左膳が見ているまに、星の一つがつうッと流れたかと思うとたちまち縦横にみだれ散った。
 そして――。
 おのれの立っているところを野と思ったのは誤りで、かれは、茫洋《ぼうよう》たる水の上に、さながら柱のごとく、足のうらを水につけて起立しているのだった。
 海だろうか?
 それとも、池かも知れない……。
 左膳がこう考えたとき、頭上の月が、クッキリと水面にうつって、死のような冷たい光を放っているのを彼は見た。
 同時に、目がさめたのである。
 グッショリと寝汗をかいた左膳は、重いあたまを枕の上にめぐらして部屋じゅうを眺めた。
 やぶれ行燈が、軍之助の一|張羅《ちょうら》であろう、黒木綿の紋付を羽織って、赤茶けた薄あかりが、室内の半分から下を陰惨に浮き出さしている。
 そこに、月輪の四人が、思い思いの形に寝こんで、かすかな鼾声《かんせい》を聞かせているのは平七郎らしかった。
 耳に食い入るような夜更けのひびき……音のない深夜の音、地の呼吸《いき》づかいである。
 左膳は、一つしかない手で身を起こすと、そのまま腹這いになって考え
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