の左膳、いつのまにやら泰軒、栄三郎と腹をあわせて、自分にかかる不利な立場を与えたに相違ない。
妙なことがあるものだと源十郎はいぶかしく感じながら、目下はそんなことは第二、まずここのかたをつけなければと、できるだけ薄気味悪くほほえみながら、源十郎が手の氷刃をかすかに振りたてて見せると、眼の前の泰軒先生の鬚面が、急に赤い大きな口をあいて、またもや、
「ワッハッハ……」
無遠慮に笑い出したのでカッとした源十郎。
「此奴《こやつ》、たびたび要《い》らんところに現れる癖《くせ》がある。以後そのようなことのないように、ここでこの世から吹ッ消してしまうからそう思え!」
と、へんにだらしのない科白《せりふ》とともに、ひっこみのつかない彼が、思いきって打ちこんでいこうとすると!
戸外にあたって、
「火事だア! 火事だア!」
まつ川の男衆をはじめ、近所の人々の立ちさわぐ声。
斬りこむと見せて、たちまち身をひるがえして源十郎は、そのままヒラリ庭に飛びおりて、白刃をふりかざして危うく血路をひらくと、ほうほうのていで人ごみのなかをスッとんで行く。
あとには、腹を抱えて笑う泰軒先生の大声が、また一段高々とひびいていた。
三界風雨《さんがいふうう》
笄橋の袂《たもと》。
春の陽が木の間をとおして、何か高貴な敷物のような、黒と黄のまだらを織り出しているところに。
助太刀や、とめだてはおろか、誰ひとり見る者もなく、栄三郎と左膳、各剣技の奥義《おうぎ》を示して、ここを先途と斬りむすんでいるのだった。
刃とやいば――とよりも、むしろそれは、気と気、心と心の張りあい、そして、搏撃《はくげき》であった。
壮観!
早くも夏の匂いのする風が、森をとおしてどこからともなく吹き渡るごとに、立ち会う二人の着物の裾がヒラヒラとなびいて、例の左膳の女物の肌着が草の葉をなでる。
ムッとする土と植物の香。
ひと雨ほしいこのごろの陽気では、ただじっとしていても汗ばむことの多いのに、ここに雌雄《しゆう》を決しようとする両士、渾心《こんしん》の力を刀鋒《とうほう》にこめての気合いだから、いとも容易に動発しないとはいえ、流汗|淋漓《りんり》、栄三郎の素袷《すあわせ》の背には、もはや丸く汗のひろがりがにじみ出ている。
チチチ……とまるで生きもののように、二つの刀の先が五、六寸の間隔をおいて、かすかにふるえているのだが、どちらかの刀が少しく出て、チャリーと[#「チャリーと」は底本では「チャリー と」]小さな、けれども鋭いはがねの音を発するが早いか、双方ともに何ものかに驚いたかのごとく、パッと左右に飛びはなれて静止する。
それからジリジリと小きざみに両士相寄ってゆくのだが、再び鋩子先《ぼうしさき》がふれたかと思うと、またもや同時に飛びすさって身を構える……同じことを繰り返して、春日遅々、外見はまことに長閑《のどか》なようだが命のやりとりをしている左膳、栄三郎の身になれば、のどかどころか、全身これ神経と化し去っているのだ。
そのうちに!
独眼にすごみを加えていらだって来た丹下左膳、無法の法こそ彼の身上《しんじょう》だ、突如! 左腕の乾雲をスウッ――ピタリ、おのが左側にひきおろして茫《ぼう》ッと立った。泰軒先生得意の自源流水月の構えに似ている……と見えたのはつかのま!
「うぬ! てめえなんかに暇をつぶしちゃいられねえや。もう飴《あめ》を食わせずに斬ッ伏せるから覚悟しやがれッ!」
声とともに殺気みなぎった左膳、身を斜めにおどらせて右から左へ逆に横一文字、乾雲あわや栄三郎の血を喫したか? と思う瞬間、白蛇|長閃《ちょうせん》してよく乾雲をたたきかえした新刀の剛武蔵太郎安国、流された左膳が、ツツツツ――ウッ! 思わずたたら足、土煙をあげて前のめりに泳いで来るところを!
すかさず栄三郎。
払った刀を持ちなおすまもあらばこそ、数歩急進すると同時に、捨て身の拝《おが》み撃《う》ち、すぐに一刀をひっかついで、
「…………」
無言、一気にわってさげようとした――が!
余人なら知らぬこと、月輪にあっても荒殺剣《こうさつけん》の第一人者として先代月輪軍之助に邪道視され、それがかえって国主大膳亮のめがねにかない、一徒士の身をもって直接秘命を帯び、こうして江戸に出て来たのち、幾多の修羅場をはじめ逆袈裟《ぎゃくけさ》がけの辻斬りによって、からだがなまぐさくなるほど人血を浴びて来た左膳のことだ。いかに栄三郎、神変夢想の万化剣をもつといえども、いまだ白昼の一騎勝負に左膳をたおすことはできなかった。
と見えて。
サッ! と電落した武蔵太郎の刃先にかかり、折りからの風に乗ってへんぽんと左膳の足をはなれたのは、着物とそうして、女物の肌着の裾だけ……。
「むちゃをやるぜオイ!」
いつしか飛びのいて立ち木に寄った左膳が、こう白い歯を見せて洒々然《しゃしゃぜん》と笑ったとき!
ヒュウッ!
どこからとも知れず、宙にうなって飛来したのは、いわずもがな、人猿|山椒《さんしょう》の豆太郎投ずるところの本朝の覇《は》、手裏剣の小柄!
「こりゃアいけねえ……南無三《なむさん》」
左膳のうめきが、海底のような子恋の森の空気をゆるがせて響き渡った。
飛びきたった豆太郎の短剣は、危うく左膳の首をよけて、ブスッと音してその寄りかかっている木の幹につき立っただけだったが、場合が場合、左膳の驚きは大きかったのであろう。彼はとっさに一、二|間《けん》とびのくと同時に、ピタリ乾雲を正面に構えながら、一方栄三郎を牽制《けんせい》しつつ、大声に呼ばわった。
「出てこいッ、卑怯者めッ! 声はすれども姿は見えず……チッ! ほととぎすじゃあるめえし、出て来て挨拶をするがいいや」
が、この左膳の大喝に答えたのは、森をぬけてかえって来る山彦ばかり、あたりは依然として静寂をきわめている。
どこを見ても手裏剣のぬしの姿はないのだ。それも道理。
丹下左膳がこの青山の弥生の住所を知ってかけ出したと見るや、弥生は一筆走らせて豆太郎を使いに瓦町へしらせると同時に、自らも道を急いで青山へ引っかえし、森の一隅で瓦町へ寄って来る豆太郎を待ち二人で左膳を待ち伏せるつもりだった……にもかかわらず、左膳のほうが先に来たばかりに、こうして栄三郎と斬りむすんでいる最中へ、おくればせながら弥生と豆太郎が現場近くかけつけたわけで、今もそこら近くの草のあいだに、この両人が身をひそめているに相違なかった。
と気がつくや!
左膳は栄三郎を飛来剣から庇護《ひご》するがごとく見せかけ、同瞬、左腕の乾雲をひらめかし、続いて飛びきたるであろう二の剣三の剣に備えながら、ニヤリ! 苦笑とともにそっとあとずさりをはじめたかと思うと、予期した剣がつづいて来ないのに刹那《せつな》安心した左膳。
「諏訪氏《すわうじ》、またくだらねえじゃまがはいったようだ。近いうちに再会いたし、その節こそは左膳、りっぱにお腰の一刀を申し受けるつもりだから、今からしかと約束いたしておこう」
いうや否、左膳はゆっくりと身をめぐらして、突如森の奥へ駈け出しそうにするから、闘気に燃えたっている栄三郎は、あわてて身を挺して追いかけようとしたとき、眼前の笹藪《ささやぶ》がざわめいて、兎のように躍り出たのは、帯のまわりに裸の短剣をズラリとさしまわした亀背の一寸法師!
これが弥生に使われる山椒の豆太郎であろうとは、栄三郎はもとより知るよしもないから、ハッとして立ちすくんだ刹那、その怪物のうしろに、もう一人立ち現れた覆面の人影、美しい若侍とみえて澄んだ眼が二つ、顔の黒布のあいだからジッと栄三郎を見つめたまま、しきりに手を上げて、栄三郎に停止の意味を示している。
弥生!――とは夢にも知らない栄三郎、この、人猿めいた怪物と、その飼主らしい撫肩《なでがた》の若侍とを斬りまくってゆくくらいのことは、さして難事でもないように感じられたが、そのまに、片うでを空《くう》にうちふりつつ見る見る森の下を駈けぬけてゆく左膳のすがたが、だんだん遠ざかりつつあるのを知ると、栄三郎も追跡を断念してあらためて眼のまえの小男と、そのうしろに立っている若侍とを見なおした。
灌木《かんぼく》と草とに、ほとんど全身を埋めて、大きな顔をニヤつかせている小男!
なんという奇怪な! こんな奇妙な人間は見たことがないと……思うとたんに、栄三郎は、一瞬|悪寒《おかん》が背筋を走るのをおぼえて、こんどは、この男の主人らしい若侍へ目を移した。
やせぎすの小男……黒のふくめんをしているので、その面立《おもだ》ちは見きわめるよしもないが、切れ長のうつくしい目がやきつくように栄三郎のおもてに射られて、それが、単に気のせいか、なみだにうるんでいるごとく栄三郎には思われるのだ。
栄三郎はキッとなった。
「助剣のおつもりかは知らぬが、いらぬことをなされたものでござる……」
すると、
「エヘヘヘ」
笑い出した男をつと片手に制して、若侍は無言のままきびすを返して、森の奥へはいろうとする。
その、回転の動作に、なんとなく栄三郎の記憶を呼びおこすものがあった。
「お!」栄三郎はあえいだ。
「や、弥生どの――ではござりませぬかッ!」
が、弥生は返事はおろか、見かえりもしないで、豆太郎をうながし、森の中のむらさき色へ消えようとしている。
「弥生どのッ! オオそうだッ、弥生どのだッ!」
という栄三郎の声に、弥生が逃げるように足を早めると、ならんで歩いている豆太郎が、横から顔を振りあおいだ。
「弥生の伊織さんか……ヘッヘッヘ、本名弥生さんてンですね、あんたは」
刹那、またしても、
「弥生どの、お待ちくだされ――!」
栄三郎の声が、あわただしく追ってくる。
その日のそぼそぼ暮れであった。
江戸の夕ぐれはむらさきに、悩ましい晩春の夜のおとずれを報じている。
陽の入りがおそくなった。
空高く西の雲に残光が朱《あけ》ににじんで鳶《とび》に追われる鳥のむれであろう、ごまを撒《ま》いたように点々として飛びかわしていた。
そして。
地には、水いろの宵風がほのかに立ちそめようとするころ。
本所法恩寺まえの化物屋敷、鈴川源十郎の離庵《はなれ》に、ひとりは座敷にすわり、他は縁に腰かけて、ふたりの人影が何かしきりに話しあっている。
やぐら下のまつ川を泰軒の手から逃げ出して来た源十郎と――。
青山長者ヶ丸子恋の森で、栄三郎の斬先《きっさき》と豆太郎の飛来剣をあやうくかわしてきた丹下左膳と。
左膳は源十郎の口から弥生の居場所を聞き、源十郎は、また左膳によって、お艶がいることとのみ思いこんでまつ川へのりこんだのだから、たがいに言い分はあるはず。
「おい源十!」
左膳はもう喧嘩ごしだ。
「てめえッてやつはなんて友達がいのねえ野郎だ! 汝《うぬ》アおれに出放題をぬかしておびき出し、子恋の森であの人猿めに一本投げさせて命を奪る算段だったに相違ねえ。が、そうは問屋がおろさねえや。源的! こうしてピンピンしていらっしゃる左膳さまのめえに、手前、よくイケしゃあしゃあとそのあばたづらをさらせるな。たった今この乾雲の錆《さび》にしてくれるから、待ったはきかねえぞッ!」
縁にかけている源十郎は、鯉口《こいくち》を切った大刀を側近く引きつけてつめたく笑った。
「まあ考えても見ろ。貴様のいうことを真に受けて、テッキリお艶が隠れているものと信じ、おっとり刀で障子をあけたところが、かの、泰軒とか申す乞食がふんぞり返っておるではないか。仕方がないで、一刀をぬいて暴れぬいて逃げて参ったのだが、源十郎この年歳《とし》になるまで、きょうほど業《ごう》さらしな目にあったことはない。恨みは、こっちからこそいうべき筋だ。左膳、いったい貴様は、お艶が夢八とか名乗って、やぐら下のまつ川から羽織に出ておるということを誰に聞いたのだ!」
「ウウム!」
左膳は、うなり出してしまった。
「てめえのほうにもそんな手違いがあったとしてみると、おれも手前に、そう強くは当たられねえわけだが
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