ったナ」振り向いた源十郎、「青山長者ヶ丸、子恋の森の片ほとりの一軒家」
 夢中の人のごとくつぶやくのを聞くより早く、
「なあに、青山?」
 左膳、それこそおっとり刀のいきおいで、それなりブウンと化物屋敷を駈け出した。と見るより、源十郎も速力を早める。
 一は深川へ。
 他は青山へ。
 同時に走り出した源十郎と左膳。
 だが、この会話とようすを、最初《はな》から庭のしげみに隠れて、立ち聞いていた大小ふたつの人かげがあった。
 それが、いつもこのごろ、絶えず当家にはりこんでいる弥生と豆太郎……であろうとは?
「いやいや! 貴様がなんと申そうと、お艶、ではない、夢八が当家におるということは、拙者、しかと突きとめて参ったのだ。じゃませずと部屋へ通せ」
 源十郎、やぐら下まつ川の上がり口に立ちはだかって、うすあばた面の顔をまっかに、こうどなり立てている。
 よほど逆上しているものらしく、この色街にあって不粋もはなはだしいことは、源十郎が今にも抜かんず勢いで、刀の柄に手をかけているのだが、応対に出たまつ川の主人はいっこうに動《どう》じない。
「エ、なんでございますか、手前どもにはとんと合点が参りませんでございます。へえ、しかし、夢八……というのはどうやら聞いたことのあるような名、いや、この辺やぐら下|界隈《かいわい》には、御案内のとおり、置屋もたくさんあることにござりますれば、どうぞほかの家をお探しなすってくださいまし」
 ばか丁寧に、主人はこういって、しきりにテカテカ光る額を敷居にこすりつけているのだが、たしかにやぐら下のまつ川にお艶がいると聞いてきた源十郎、いっかなひきさがる道理がない。
 お艶の夢八、もちろんこの家にいるには決まっているが、八丁堀まがいの、あんまり相のよくない侍がのりこんできて強面《こわおもて》の談判なので、おやじはこう白《しら》をきりとおしているのだ。
 いる、いない――の押し問答。
 場所がら、いかついおさむらいが威猛高《いたけだか》に肩をはり、声を荒らげているのだから、日中用のない近所の女や男衆それに通行の者も加わって、はやまつ川の戸口には人の山をきずいている。
 源十郎はいらだった。本所からここまで急ぎに急いで駈けつけたのに、そういう女はおりません。ハイそうですか、さようなら……では彼もひきとるわけにはゆかなかった。
 そこで!
「黙れッ! おらんというはずがないッ。拙者はどこまでも押しあがって家《や》さがしをするからそう思え!」
 いうが早いか源十郎、片手なぐりにおやじを払いのけておいて、ドンドンまつ川の家の中へ踏みこんでみると!
 ちょうど突当りの小廊下に、チラとのぞいた女の影!
「お! お艶ッ、待てッ」
「あれッ!」
 同時に両方が声をあげた。その声音は源十郎が夢にうつつに耳に聞くお艶の調子!――だから源十郎、勇士が敵陣へでも進むかっこうで、パタパタと廊下を鳴らして奥へ走った。
 と!
 すでにそこにはお艶の姿はなく、この狂気めいた武士の闖入《ちんにゅう》に、家の内外に人の立ちさわぐのが、聞こえるばかり……ポカンとした源十郎が、血走った眼でそこらを見まわす!
 すぐ前に、桟《さん》のほそい障子を閉《た》てきった小部屋がひとつ、何かをのんでいるように妙にシンと静まり返っている。
「此室《ここ》だナ! うむ、お艶め、これへ逃げこんでひそんでおるに相違ない」
 われとうなずくと同時に、源十郎はフト障子に手をかけてサッとひらいた。
「ワッはっはっは」
 この、とてつもなく大きな笑い声が、まず源十郎をうった最初のおどろきだった。
 何者?……眼を凝《こ》らして見る――までもなく。
 部屋の中央に、むこう向きに大胡坐《おおあぐら》をかいて大盃をあおっているぼろ袷《あわせ》に総髪の乞食先生……。
 意外も意外! 蒲生泰軒だ!
「やッ! 貴様はッ?」
 思わずたじたじとなる源十郎へ、ゆったりと振り返って投げつけた泰軒の言葉は、いつになく強い憎悪と叱咤《しった》に燃えたっていた。
「たわけめッ! いささかなりと自らを恥じる心あらば、鈴川源十郎、サ! そこに正座して腹を切れイッ!」
「ウウム……」
 うめいた時に源十郎は、腹を切るつもりかどうか、とにかくパッ! と腰間の秋水《しゅうすい》、もう鞘を走り出ていた。
 泰軒はすわったまま、ジイッ!――源十郎をにらみあげている。
 ふしぎ!
 どうしてこのお艶の部屋に、泰軒先生が来あわせていたのか……といえば!

 水の音がするので、ふと気のついた左膳は、小走りの足をとめて谷間へおりると、清冽《せいれつ》なせせらぎにかわいた咽喉を湿《うる》おした。
 弥生のいどころが知れて本所の化物屋敷からここまで息せききって急いで来た左膳である。
 もうあの、向うにこんもりと見える繁《しげ》みが弥生のいるという子恋の森であろう……と水を飲みおわった左膳、腰の乾雲丸を左手に揺りあげて、再び土手に帰って歩を早める。
 このへん一体、鬱蒼《うっそう》たる樹立のつづき。
 笄橋《こうがいばし》。
 ここ青山長者ヶ丸の谷あいの小溝にかかっている橋で、国府の谷橋の転じたものであろうといわれているが――左膳がこの笄橋にさしかかった時だった。
 フッと行く手に人影がさしたかと思うと白く乾いた土が埃をあげている小径のさきに、片側から、まず太刀の柄がしらが影をおとしてハッと左膳が立ちすくむまに続いて浪人|髷上半《まげじょうはん》、それから徐々にさむらい姿が、黒く路上に浮き出されて、同時に静かな声とともに行く手に立ちふさがったのを見れば……!
 坤竜丸――諏訪栄三郎!
「待っておったぞ。左膳!」
「ヤッ! 坤竜か、うむ、栄三郎だな――ひとりかッ」
 いいながら左膳、グイと片手に乾雲の柄をつき出して目釘をなめつつ、あわただしくあたりを見まわした。
 シーンとして深山のよう。
 ホウホケキョー、どこか近くの木で鶯《うぐいす》が鳴いている。
 栄三郎はほほえんで、
「もとより拙者ひとり。貴公の来らるるを知って栄三郎、坤竜とともにここにお待ちうけ申しておったのだ。幸いあたりに人はなし、果たし合いにはもってこいの森でござる。今までたびたび刃を合わせても、じゃまや助太刀が入って、貴公と、拙者、心ゆくまで斬りむすんだおぼえはござらぬ。またとない機会、いざ御用意を!」
 残忍な笑みが左膳の頬に浮かぶと彼はガラリと調子が変わった。左膳が、この江戸の遊び人ふうの言葉になる時、それは彼が満身の剣気に呼びさまされて、血の香に餓え、もっとも危険な人間となりつつあることを示すのだ。
 声が、薄い口びるの角から押し出された。
「俺のいいてえことをいっていやアがらあ。ハハハハ、何やかやと今まで延び延びになっておったが俺と手前は、夜泣きの刀を一つにするために、どっちか一人は死ななきゃアならねえんだ。なら栄三郎、去年の秋、俺が根岸|曙《あけぼの》の里の道場を破ったとき、俺とてめえは当然立ち会うべくして立ち会わなかった。今日は竹刀の代りに真剣だが、あの日の仕合いのつづきと思って、存分に打ちこんで参れッ!」
 いよいよ栄三郎ひとりと見きわめた左膳は、真剣よりも、本当に仕合いにのぞんでいる気で、こうネチネチといいながら、じっと独眼をこらして栄三郎の顔に注いだが、あたまは、鈴川源十郎に対する火のような憤怒《ふんぬ》にもえたっていた。
 さては、謀《はか》られたな!
 と左膳、歯ぎしりをかんで思うのだった。
 かの源十郎、いつのまにやら栄三郎に与《くみ》して、自分をここまでおびき出したに相違ない。
 とすれば!
 栄三郎のほかに多数の伏勢が待ち構えているはずだと、左膳は一眼を光らせて、再び樹間、起伏する草の上を眺めまわしたが、やはり凝《こ》りかたまったような真昼の森のしじまには、笄橋《こうがいばし》の下を行く水の流れが音するばかり……何度見ても人の気配はない。
 血戦ここに、思うさま開かれようとしている。
 対立する諏訪栄三郎と丹下左膳。
 いいかえれば水火の秘文《ひもん》を宿す乾雲坤竜の双剣。
 一は神変夢想流。
 他は北州の豪派月輪一刀流より出でて、左腕よく万化の働きを示し、自ら別称を誇号《こごう》する丹下流。
 しずかな開始だった。
 スウ――ッ! と左膳が、単腕に乾雲丸を引き抜いて、正規の青眼につけると、栄三郎の手にも愛刀武蔵太郎安国が寂《じゃく》と光って、同じくこれも神変夢想、四通八達に機発する平青眼……。
 あいしたう二刀が近々と寄って、いずれがいずれをひきつけるか――これが最後の決戦と見えたが!
 ふしぎ!
 どうしてこの左膳の道に、諏訪栄三郎が刀意を擁《よう》して待ちかまえていたのか……といえば?
 先刻……。
 浅草瓦町の露地の奥、諏訪栄三郎の家に、ちょうど栄三郎と食客の泰軒とがいあわせているところへ表の戸口にあたってチラと猿のような、子供のような人影が動いたと思うと、音もなく一通の書状が投げこまれていったのだった。
 なんだろう?――と栄三郎が拾って来て二人で開いて見ると、栄三郎には覚えのある弥生どのの筆跡。
 よほど急いで認めたものらしく一枚の懐紙《かいし》に矢立ての墨跡がかすれ走って、字もやさしい候《そうろう》かしくの文……。
 というと、いかにも色めいてひびくが、顔を寄せて読んでいるうちに、泰軒と栄三郎、思わずこれはッ! と声を立てて互いに眼を見合ったのだった。
 候かしくの女手紙はいいが、内容は艶っぽいどころか、いかにも闘志満々たるもので、鈴川源十郎がお艶の居所を知って、やぐら下のまつ川へ向かい、同時に左膳は弥生の隠れ家を探り出し、青山長者ヶ丸の子恋の森をさして、いま出かけていったところだと。
 右の趣、取り急ぎ御両人様へお知らせ申し上げ候かしく……とのみで、名前は書いてないが、それが、その後行方の知れない弥生さまの筆であることは、栄三郎にはひと眼でわかった。
 この手紙は。
 このごろ毎日のように豆太郎をつれて、本所の化物屋敷を見張っている小野塚伊織の弥生、きょうもさっき、源十郎方の荒れ庭にひそんで、なんということなしにようすをうかがっていたところへ、母屋と離れから同時に出て来てちょうど弥生と豆太郎の隠れている鼻先で落ちあった源十郎と左膳が、互いに掛引きののち、ついにめいめいの女の居場所をあかしあうのを聞いたので、急ぎ両人が出て行くのを待ち、弥生はさっそく筆を取ってこの一状を認め、それを豆太郎に持たせて、すぐさま瓦町へ走らせて投げこませるとともに、自らはただちに青山の家をさして引っ返したのだった。
 そして瓦町では。
 鈴川源十郎が、いまやお艶を襲い、丹下左膳は弥生のもとへ出向きつつある……と知って、ひさしく謎となっていた弥生の居場所もわかったので、無言のうちにうなずきあいつつ[#「うなずきあいつつ」は底本では「うなづきあいつつ」]、スックと立ちあがった泰軒栄三郎、いわず語らずのうちに手順と受持ちはきまった。
 栄三郎にしてみれば、この際正直に気になるのは、いうまでもなくお艶のほうであったが、そこはことのいきがかり上、泰軒にまかせ、泰軒はまた眼顔でそれを引きうけて、彼はただちに深川の松川へ駈けつけてお艶を救うことになり、義によって栄三郎は、時を移さず青山長者ヶ丸へでばって途中に左膳を待ち伏せ、乾坤一擲《けんこんいってき》の勝負をすることとなったのだった。
 こうしていち早く瓦町の露地を走り出た両人。
 ――だから源十郎がまつ川へ乗りこむさきにすでに泰軒の先《さき》ぶれによって、お艶は気のつかない夜具部屋へかくされ、その代りお艶の部屋に、泰軒居士がドッカとあぐらをかいて、のんきそうに茶碗酒をあおっていたわけ。
 たしかにここにお艶が?――と気負いこんで力まかせに障子を引きあけた源十郎、そこに、思いきや一番の苦手《にがて》、蒲生泰軒がとぐろを巻いているこのありさまに、ハッとすると同時、居合の名人だけに自分の気のつく先に、もうとっさに刀を抜いていた。
 が!
 源十郎心中に思えらく……。
 さては、はかられたな!
 か
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