もの、わしとてもそれに、指一本|触《ふ》れようとは思い申さぬ。が、ただ、その乾坤二刀の柄の内部《なか》に秘めらるる孫六水火の秘文状《ひもんじょう》それだけ……それだけは、所望でござる! この老骨の命を賭しても!」
「ごもっとも! 伊織、心得ましてござりまする」
と弥生は、話が固くなるにつれて、またもや本性の女らしさが徐々に消えて、この日ごろ慣れている男の口調に返るのだった。
関の孫六の後裔《こうえい》、得印老士兼光の低声が、羽虫の音のようにつづいてゆく。
「当今《とうこん》、新刀の振るわないことはどうじゃ?」
いきなり、老人はこう吐き出すようにいって、眉をあげた。
「御治世のしるし津々浦々にまでいきわたって、世は日に月に進みつつあるというが、刀鍛冶だけは昔の名作にくらぶべくもない。本朝の誇りたる業物《わざもの》うちの技能、ここに凋落《ちょうらく》の兆《きざし》ありといっても過言ではあるまい。なんとかせねばならぬ! 古法の秘を探り求めるか、みずから粉骨砕身《ふんこつさいしん》して新道をきりひらくかせぬことには、鍛刀のわざもこれまでである――こう思ってわしは寝る眼も休まず勤労して来たものだが、菲才《ひさい》はいかにしても菲才で、恥ずかしながらいまだ一風を作《な》すところまで到らぬうちに、それでも、どうやらこうやら祖師孫六のやすりを使い得るようになって、一日この老いの胸にときめく血潮をおさえて、ついに鑢《やすり》箱のほこり払ったとおぼしめされ」
「は……?」
「と、出て来たのじゃ! 出て来たのじゃ! 乾坤二刀に水火の秘訣が合符《がっぷ》となって別べつに封じこめてあるという、まごう方なき孫六直筆の一書が現れたのじゃ! 弥生どの、そのときのわしの悦びと驚きは、ただもうお察しありたい」
「…………」
「以後のことは申すまでもござるまい。弟子どもを八方に走らせて探らせると、いまその大小は、ソレ、そこもとの父御《ててご》、江戸根津あけぼのの里なる小野塚家にあると聞きおよび、急遽《きゅうきょ》、四人の高弟をしたがえ、平鍛冶中より筋骨のすぐれし者をえらんで駕籠屋に仕立て、ただちに江戸おもてへ馳せつけ参ったのでござるが、その時はすでに御存じのとおり、かの丹下めの無法により二剣ところを異にして、刀が血を欲するのか、内部《うち》なる水火が暴風雨を生ぜぬにはおかぬのか――とまれ、かかる騒動の真っただなかへ、われら、美濃国関の里よりのりこみ来たったわけでござる。その後、そこもととこうして起居をおなじうすることに相成ったのも、奇縁と申せば奇縁じゃが、これも水火の霊、すなわち祖孫六の手引きであろうと、わしは、ゆめおろそかには思いませぬ」
老人がポツリと口をつぐむと……沈みゆく夜気が今さらのごとく身にしみる。
かくして。
謎《なぞ》の老士得印兼光は、夜泣きの刀の作者関孫六の子孫だったことがわかり、部下の、同じ火事装束の四人はその弟子、六尺ぢかい大男ぞろいの駕籠かきも、重い鉄槌《てっつい》をふるう平鍛冶のやからなればこそ、これも道理とうなずけて、弥生は、こころからなる信頼のほほえみを禁じ得なかったと同時に、斯道《しどう》に対する老人の熱意のまえには、さすがは名工孫六の末よと、おのずから頭のさがるのをおぼえるのだった。
もう夜は五刻になんなんとして、あるかなしの夜映を受けて、庭に草の葉の光るのが見える。
会話《ことば》がとぎれると、人家のないこの青山長者ヶ丸のあたりは、離れ小島のようなさびしさにとざされて、あぶらげ寺の悪僧たちであろう、子恋の森をへだてた田の畔《くろ》を、何か大ごえにどなりかわしてゆくのが聞こえる。
犬が吠えて、そしてやんだ。
春の宵は、人にものを思わせる。
得印老人の物語が、感じやすい弥生のこころをさらって、遠く戦国のむかしにつれ返っているのだった。
近くの闇黒に、弥生は見た――ような気がしたのである。
古い絵のなかの人のようなよそおいをした刀鍛冶の孫六が、美濃の国、関の在所にあって専心雲竜の二刀を槌《つち》うつところを!
ふいごが鳴る。火がうなる。赤熱《しゃくねつ》の鉄砂が蛍のように飛び散ると、荘厳《そうごん》神のごとき面《おも》もちの孫六が、延べ鉄《がね》を眼前にかざして刃筋をにらむ……。
それは真に、たましいを削るような三昧不惑《さんまいふわく》の場面であった。
と見るまに。
その幻影は掻き消えて、そこに、弥生の眼には、またほかのまぼろしが浮かぶともなく描かれているのだった。
死に近い孫六である。
かれは、書いている。ほそ長い紙きれに、おどろくべき細字をもって、しきりに筆を走らせているのだが、その字の色はうす赤かった。血のように赤く、また汗のごとくに水っぽいのだ。
それもそのはず!
彼は、みずからの血におのが汗をしぼりこんで、この水火の秘文《ひもん》をしたため遺《のこ》しているのではないか!
そのうちに、書き終わった孫六は秘文を中断して割文となし、ふるえる手で、乾坤二刃のみにそれぞれに捲《ま》きしめている……が、ここまで自分の想描《そうびょう》を追って来たとき、弥生はハッ! として[#「ハッ! として」は底本では「ハッ!として」]眼をまえの得印老士のほうへ返した。
死につつある孫六の顔が、兼光のように見えて来、再びそれが、亡父《ぼうふ》鉄斎のおもかげに変わりだしたような気がしたからだ。
「弥生どの!」
りんとした得印兼光の声が、鋭く弥生を呼んでいるのだった。
「は」
これで弥生、暗中の醒夢《せいむ》をふるいおとしていずまいをなおした。
「かかる次第じゃによって、わしはいかにもして、一時かの二剣を手にせねばならぬのじゃ。ナニ、ちょっとでよい。ほんの一刻、ふたつの柄をはずして秘文を取り出しさえすればあとの刀には、わしはなんらの未練も執着も持ち申さぬ。当然、正当の所有主《もちぬし》たるそこもとへ即時返上つかまつるでござろう」
「は。そのお言葉を頼みに、わたくしも豆太郎も、せいぜい働きますでござりまする。ではそのようなことに――何はともあれ、二剣ひとまず御老人のお手もとへ! ハッ心得ました」
老士はただ、会心の笑みを洩らしただけらしい。こたえはなかった。
が!
雲竜奪取もさることながら……。
弥生のこころは、いつしか先夜、豆太郎とともに深川のお山びらきに左膳月輪を襲った時に、瓦町からつけていった栄三郎の姿。さては、夕ぐれ彼の帰り来る折りの風流べに絵売りのいでたち――それらの思い出を悲しく蔵して浮きたたなかった。
扮装《なり》は男でも、名は若侍でも、弥生はやはり弥生、成らぬ哀慕に人知れず泣くあけぼの小町のなみだは今もむかしもかわりなく至純《しじゅん》であった。
と、そこへ。
おなじ夜に、旗亭《きてい》の二階に障子をあけて現われたお艶の芸者すがたが眼にうかぶ。
自分に義理を立てて、さてはあの女は歌妓《かぎ》とまで身をおとしたのか……すまぬ!
こう弥生が、あやうく口に出して独語《ひとりご》とうとしたとき、
「オヤオヤ! これあ驚きましたな。ばかに暗いじゃありませんか」
豆太郎が、あんどんに灯を入れて来た。
候《そうろう》かしく
四月。
ころもがえ。
卯《う》の花くたしの雨。
きょうも朝から、簀《す》のような銀糸がいちめんに煙って、籬《かき》の茨《いばら》の花も、ふっくらと匂いかけている。
屋敷横、法恩寺の川はいっぱいの増水で水泡をうかべた濁流が岸のよもぎを洗って、とうとうと流れ紅緒《べにお》の下駄が片っぽ、浮きつ沈みつしてゆくのが見える。
土手につづく榎《えのき》の樹。
早い青葉若葉が濡れさがってところどころ陽に七色に光っていた。
あかるい真昼の小雨だ。
はるか裏にひろがるたんぼのなかを、大きな蓑《みの》を着た百姓が、何かの苗を山とつんだ田舟を曳いてゆくのが、うごきが遅いので、どうかするととまっているようで、ちょうど案山子《かかし》のように眺められるのだった。
潮干狩のうわさも過ぎて、やがては初夏のにおいも近い。
遠くの野に帯のような黄色な一すじが、雨に洗われて鮮やかに見えるのは、菜の花であろう……。
雨日小景《うじつしょうけい》。
左膳は、その一眼にこれらの風情をぼんやりと映して、さっきから本所化物やしき庭内、離室の縁ばしらに背をもたせたまま、まるで作りつけたように動かずにいるのだ。
人なみはずれて身長の高い左膳は、こうして縁側に立てば、破れ塀のあたまごしに、そと一円を見はるかすことができたけれど、それにしても剣怪左膳、どうしてこうおとなしく、絹雨にけぶるけしきなどを、いつまでも見惚《みと》れているのであろう。
彼らしくもない。
……といえばいえるものの、じつは左膳、これでも胸中には、例によって烈々たる闘志を燃やし、今やこころしずかに、捲土重来《けんどじゅうらい》、いかにもして栄三郎の坤竜を奪取すべき方策を思いめぐらしているところなのだ。
ながい痩身、独眼刀痕の顔。
空《から》の右袖をブラブラさせて、左しかない片手に柱をなで立つと、雨に濡れた風がサッと吹きこんできて、裾の女ものの下着をなぶる。
鋭い隻眼が雨中の戸外に走っているうちに、しだいに左膳の頬は皮肉自嘲の笑みにくずれて来て、突然かれは、いななく悍馬《かんば》のごとくふり仰いで哄笑した。
「あっはははッは! 土生《はぶ》仙之助は殺《や》られたし、月輪も、先夜は岡崎藤堂ら数士を失い、残るところは軍之助殿、各務氏、山東、轟の四人のみか――ナアニ、武者人形の虫ぼしじゃアあるめえし、頭かずの多いばかりが能《のう》じゃねえ。しかし、源の字は当てにならず、おれとともにたった五名の同勢か。ウム! それもかえっておもしろかろう! おれにはコレ、まだ乾雲という大の味方があるからな……」
ひとり述懐を洩らしつつ左膳、みずからを励ますもののごとく、タッ! と陣太刀赤銅の柄をたたいたとき、
「チェッ! よくあきずに降りゃアがる!」母屋《おもや》から傘もなしに、はんてんをスッポリかぶって、ころがるようにとびこんで来たのは、ひさしぶりにつづみの与吉だ。
降りこめられて、しょうことなしに離室いっぱいに雑魚寝《ざこね》している月輪の残党四人をのぞきながら、
「ヒャッ! 河岸にまぐろが着いたところですね」
と相変わらず、江戸ぶりに口の多い与の公、はじめて気がついたように左膳に挨拶して、
「お! 殿様、そこにおいででしたか、注進注進」
「なんだ?」
「なんだ、は心細い! いやに落ち着いていらっしゃいますね……ハテどうかなさいましたか。お顔のいろがよくないようですが――」
「何をいやアがる!」左膳は相手にしない。「てめえもあんまり面《つら》の色のいいほうじゃアあるめえ。儲《もう》けばなしもないと見えるな」
「ところが殿様! 丹下の殿様! ヘヘヘヘヘ、ちょいと……」
「何?」
「ちょいとお耳を拝借」
苦笑とともに左膳、腰をかがめて与吉の口に暫時《ざんじ》、耳をつけていたが、やがて何ごとか与吉のことばが終わると、ニッと白い歯を見せてほくそえんだのだった。
「そりゃア与の公、てめえ、ほんとうだろうナ」
「冗談じゃアない。何しにうそをいうもんですか」
与の公はいきおいこんだ。
「ほんと、ほんと、あのお艶……、母屋《おもや》の殿様がゾッコンうちこんでいなさる女《あま》っこが、深川で芸者に出ているてエこたあ、誰がなんといおうと、お天道さまとこの与吉が見とおしなんで――へえ、正真正銘ほんとのはなしでございます」
「そうか」
と一言、左膳はなぜかニヤリと笑ったが、
「ふうむ。そりゃアまあそうかも知れねえが、なんだって手前《てめえ》は、そいつを肝心の源十郎へ持っていかねえで、そうやっておれに報《し》らせるんだ? お艶のいどころなんぞ買わせようたって、おれア一文も払やしねえぞ」
「殿様ッ! 失礼ながら駒形の与吉を見損《みそこな》いましたネ。こんなことを、筋の違うあんたんとこへ持ちこんで、それでいくらかにしような
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