んで、弥生はこころもち固くなった。
いま、この人なき、夕べの一刻にかれはそも何をいい出そうとしているのか……それが弥生には、この際すくなからず気になるのだった――。
千年を経た松柏《しょうはく》のごときこの家のあるじ――。
弥生がここへ来て、起臥《おきふし》をともにして以来知り得た限りでは。
老士……名は、得印兼光《とくいんかねみつ》。
美濃《みの》の産、仔細あって郷国を出て、こうして江戸に、関の孫六の夜泣きの大小を一つ合わして手に収めんと身を低めているのだとのみ――。
何ゆえの奔走か? また、従う四士と十人の大男はいかなる関係にあるのか――これから自余《じよ》のいっさいは、かれらはもとより、固く口をつぐみ、弥生もまた、ふかく一味の侠義に感じている以上、内部にあってその真相を探ろうとするがごときは慎しまなければならなかった。
ただ。
兼光と弥生のあいだに成り立っている約束は、ともに力をかし合ってひとまず雲竜二剣をひとつにし、その上で兼光の手から、改めてその大小一つがいを故小野塚鉄斎の遺児なる弥生に返納しようということになっているのだ。
さてこそ。
風のように随所随所に現われて二刀を狙う五梃駕籠と、豆太郎を引き具してそれを助ける小野塚伊織の弥生。
丹下左膳から乾雲丸を奪還しようというならば話はわかるが、なにゆえ彼らは、それのみならず栄三郎の坤竜をも横どりしようとし、また弥生がそれに協力しているのであろうか。
弥生、かなわぬ恋の意趣返《いしゅがえ》しに栄三郎を敵にまわそうというのか? あらず!
弥生としても、助けられた恩のある五人組である。ただ一時二刀をひとつにして、そのうちただちに弥生に返すというのだから、弥生はその日の一日も早からんことを望み、豆太郎を使ってもちろん主に左膳をつけ狙うと同時に、栄三郎のほうは密《そっ》と坤竜を奪《と》ろうとしてその身辺に危害なきを期しているのだ。
いわば弥生は、兼光一団の申し出を利用しているまでのことなのだが、はたして豆太郎、よく弥生の真意《しんい》を汲んで、その望むがごとく立ちまわるであろうか?
毒を用いる者は、みずからその毒を受けぬ用心が第一である。
すでに小野塚伊織の人柄をひそかに怪しんでいるらしい豆太郎……なるほど、得印《とくいん》老人の言うとおり弥生は、気づかれぬ注意が肝要であった。
が、豆太郎は、豆太郎として。
今宵は。
得印兼光のほうから口をひらいて、はじめてここに、われとおのれに誓った秘命のすべてを語り出そうとしている。
夜に入っていっそうの寂寞《せきばく》。
兼光の一言一語をも洩らさじと耳を傾ける弥生の顔に、大きなおどろきが、波紋のようにみるみる拡がっていくのだった。
して、その、世をしのぶ老士得印兼光なる主の物語というのは? はなしは、文明《ぶんめい》より永正《えいしょう》にかけてのむかしにかえる。
火事装束五梃駕籠の頭首《とうしゅ》、世をしのぶ老士得印兼光の物語は。
文明《ぶんめい》より永正《えいしょう》にかけての昔――。
当時|美濃《みのの》国に、刀鍛冶の名家として並ぶ者なき上手《じょうず》とうたわれたのが、和泉守兼定《いずみのかみかねさだ》であった。
すべて業物《わざもの》打ちは、実と用とともに品位を尊ぶ。
この和泉守の太刀姿は、地鉄《じがね》こまやかに剛《つよ》く冴えて、匂いも深く、若い風情のなかに大みだれには美濃風《みのふう》に備前の模様を兼ねたおもむきがあり、そのころまず上作の部に置かれていたという。
美濃の国、関の里。
世に関の七流というのは、善定《ぜんじょう》兼吉、奈良太郎兼常、徳永兼宣、三|阿弥《あみ》兼高、得印兼久、良兼母、室屋兼任――この七人の末葉《まつよう》、美濃越前をはじめとして、五|畿《き》七|道《どう》にその数およそ千百相に別れ、みな兼の字を冒して七流の面影を伝えたのだったが――。
関《せき》の孫《まご》六と号した兼元《かねもと》も、この和泉《いずみ》の一家であった。
孫六は、業物《わざもの》の作者である。
かれの鍛《う》つところの刀は、にえ[#「にえ」に傍点]至って細く、三杉の小亀文《みだれ》が多くまたすずやき[#「すずやき」に傍点]もあり、ことにその二代兼元なる関の孫六となると、新刀最上々の大業物《おおわざもの》として世にきこえているが、関の新刀になってからはだいぶん位が落ちたけれど、初世孫六のころの関一派の繁栄はじつに空前絶後ともいうべきで、輩出した名工また数かぎりもないうちに、なかでも志津三郎兼氏、兼重、兼定、兼元、兼清、兼吉、初代兼光はすぐれての上手《じょうず》、兼永、兼友、兼行、兼則、兼久、兼貞、兼白、兼重などもすべて上手ということになっている。なべて、美濃物《みのもの》の刀は砥障《とざわ》りがやわらかで、備前刀《びぜんとう》とは大いに味を異にしているのがその特長であった。
一世関の孫六、
かれはその得意とする大|業物《わざもの》を打つに当たって、みずから半生を費やして編み出した血涙の結晶たる大沸《おおわかし》小沸《こわかし》ならびに刃《やいば》渡しという水火両態の秘奥《ひおう》を、ひそかに用いたのだった。
鍛刀の技たるや、細部や仕上げにいたっては各家|口伝《くでん》、なかには弟子にさえ秘しているところがあって、おのおの異なり、容易に外界から推測すべくもないが、まず大体は同法であって、すなわち……。
本朝刀剣|鍛錬《たんれん》の基則。
まず、鉄は、むかしから出場所がきまっている。
伯耆《ほうき》の印賀鉄《いんがてつ》、これを千草といって第一に推し、つぎに石見《いわみ》の出羽鉄、これを刃に使い、南部のへい[#「へい」に傍点]鉄、南蛮《なんばん》鉄などというものもあるが、ねばりが強いので主に地肌《じはだ》にだけ用立てる。
鍛《きた》えに二法あり。
古刀鍛はおろし鉄のいってんばりであったが、これはまず孫六あたりをもって終りとなし、新刀鍛となっては、正則のほかに大村|加卜《かぼく》ほか武蔵太郎一派の真十五枚|甲伏《かぶとぶせ》というのも出たが、多く伝わっているのは卸し鉄と新刀ぎたえのふたつだけだ。
さて、ここに伯耆《ほうき》の印賀《いんが》鉄がある。
これを刀剣に鍛えんとするには、まず備えとて、炭、土、灰を用意し、炭はよく大きさをそろえて切り、粉は取り去る。
土にも産地がある。山城《やましろ》の深草山、稲荷山《いなりやま》などの土が最上。
灰は、藁を焼いたもの。
水――澄冽《ちょうれつ》をよしとす。清砂《せいしゃ》、羽二重《はぶたえ》の類をもって濾《こ》すのである。
それから。
へし[#「へし」に傍点]と称し、平打ちにかけて鋼《はがね》を減らし、刀の地鉄《じがね》を拵《こしら》える。水うちともいう。
つぎに、積みわかし。
これは、ねた[#「ねた」に傍点]土を水でといた濃液《のうえき》を注ぎかけて火床に据《す》え、ふいごを使って鉄を焼くのだ。小わかしというのがそれ。
大沸かしとは、鉄の周囲に藁灰をまぶし、また火中に入れて熾熱《しねつ》する。
すめば鍛えである。
三人の相槌《あいづち》をもって火気を去り、打ち返して肌に柾目《まさめ》をつけ、ほどよいころから沸《わ》かし延べの手順にかかる。
わかし延べは、束《たばね》である。
今までバラバラの鋼だったものを、これで一本の刀姿にまとめ、素延《すの》べに移る。
素延《すの》べは、地鉄のむら[#「むら」に傍点]をなおし、刃方《はがた》の角《かど》を平め、鎬《しのぎ》のかどを出す。
火造り――せんすき[#「せんすき」に傍点]ともいい、はじめて鑢《やすり》を用いていよいよ象《かたち》をきわめる。
つぎに。
反《そ》りをつけ、もっとも大切な焼刃にかかるのだが、そりも焼刃も各流相伝になっていて、それによって艶や潤いに大差が生ずる。
これに要する土は、黒谷《くろたに》のものがよしとされていること、あまねく人の知るところだ。
この反りと焼刃の工程。
もとより刀剣の胎生《たいせい》に大切なところで、これによって鋭利|凡鈍《ぼんどん》も別れれば、また鍛家の上手下手《じょうずへた》もきまろうというのだが。
それよりもいっそう重大なのが、次順の湯加減、一名|刃渡《やいばわた》しである。
やいばわたし……鍛刀中の入念場《にゅうねんば》。
まず水槽に七、八分めばかりの清水をたたえ、火床には烈火をおこし、水は四季に応じてその冷温を加減する――これすなわち湯かげんの名あるゆえん。
春、二月の野の水。
秋、八月の野の水。
これと同じくすることがかんじんだ。そうしてしたくができれば、本鍛冶が、※[#「金+示+且」、第3水準1−93−34]元《はばきもと》から鋩子《ぼうし》さきまで斑《まだら》なく真紅に焼いた刀身を、しずかに水のなかへ入れるのだが、ここが魂《たましい》の込《こ》め場所で、この時水ぐあい手かげん一つで刃味も品格も、すべて刀の上《じょう》あがり不あがりが一決するのだから工手は、人を払って一心不乱に神仏を念ずるのがつねだった。
こうして、やいば渡しも終われば。
荒砥《あらと》にかけて曲りをなおし、中心《なかご》にかかって一度|砥屋《とぎや》に渡し、白研《しらとぎ》までしたのを、こんどはやすりを入れて中心を作る。この中心ができあがったうえでさらに研《と》ぎをしあげ、舞錐《まいぎり》で目貫《めぬき》穴をあけ銘を打ち、のち白鞘《しらざや》なり本鞘《ほんざや》なりに入れて、ようよう一刀はじめてその鍛製の過程を脱する――のだが!
ここに。
かの関の孫六の水火両様の奥伝というのは。
ひとつは火で、これは積みわかしにおける大沸かし小わかしのこつ。
他は水で、それは刃わたしの際のいささかの水工夫であった。
まことに。
水と火をもって鍛えにきたえる刀作の術にあっては、その水と火に一家独特の精髄《せいずい》を遺した孫六専案の秘法は、じつにいくばくの金宝を積んでも得難いものに相違なかったろう。
水火の密施《みっし》。
ほかでもない。
個々の鉄体を積み、一種の泥水をかけて焼く時のちょっとした心得――小沸かしの伝と。
そのつぎに、鉄のまわりに藁灰をつけて熱火に投ずるまぎわのふいごの使い……大沸かしの仕方。
これが孫六の体得した火の法で。
水の法は。
すでに一本の形をそなえた荒刀《こうとう》を、刃渡しとして水中に沈めるときの、ほんのちょっとした水温と角度――にはすぎないけれど。
この関の孫六水火の自案《じあん》。
口でいい、耳で聞いたくらいでアアそうかとたやすく会得《えとく》のいくものならば、なんの世話もいらないわけだが、どうしてどうして孫六じしんが一生涯を苦しみ抜いた末、やっと死の床に臥す直前に、ふとしたはずみに心づいて、この刀道の悟りをひらいたという、いわば天来の妙法なのだから、技《わざ》ここに至らんと希《ねが》う者は、身みずから孫六のあえいだ嶮岨《けんそ》を再び踏み越すよりほかに、その秘術をさとり知るよすがはない――こう、美濃の国は関のあたりに散らばる兼の字をいただく工人一家のあいだに、長年いいつたえられて来ているのだった。
しからば。
関七流の長《おさ》、孫六の把握し得た水火|鍛錬《たんれん》の奥義、かれの死とともにむざむざ墓穴に埋もれはてたというのであろうか?
否!
大いに、否!
世に名工|俊手《しゅんしゅ》と呼ばるる者、多く自己にのみ忠《ちゅう》にして頑《かたく》ななりといえども、また、関の孫六、いささかその御他聞に洩れなかったとはいえ、かれとても一派を樹立した逸才、よし自家相伝の意《こころ》はないまでも、日本刀剣づくりの大道から観て、どうして己が苦心になる方策をおのれのみのものとして死の暗界に抱き去るような愚昧《ぐまい》を犯そう!
必ずや、いずくにか、いかなる方法でか、この孫六の水火の秘技、今に伝わっているに相違ない……とは誰しもおもうところ
前へ
次へ
全76ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング