番ゆくえをくらまして、この金のつづく限り、おもしろおかしく旅の飯を食ってこよう……と、おのが手にはいらない物は他人《ひと》にもとらせたくないのが下司《げす》の人情、金を持って瓦町へ行くとは真っ赤なうそ[#「うそ」に傍点]で、おしんやおさよをちょろまかし、しばらく家をあける気で飛び出して来た富五郎だが――。
いよいよとなってこうして町を歩きながら考えると、ハテどこへ旅立ったものやら、いっこうに勘得《かんとく》がつかない。
で、鍛冶富、ブラリブラリと徒歩《ひろ》ってゆくのだが、そのうちに、ふと思いついたのが子供のころから望んでいて、まだ一度も出かけたことのないお伊勢詣りだ。
ウム! それがいい、伊勢詣りと洒落《しゃれ》よう。
こう心に決めたかれは、どうもひどいやつで、鈴川源十郎が伊兵衛棟梁を殺して奪った五十両を我物とし、丸にワの字は出羽様の極印《ごくいん》が打ってあるとも知らずに、それからただちに辻駕籠を拾って六郷の渡船場まで走らせ、川を越せば川崎、道中駕籠を宿つぎ人足を代えて早打ちみたよう――夜どおし揺られて箱根の峠にさしかかるあたりで明日の朝日を拝もうという早急《さっきゅう》さ。
「おウッ! 駕籠え! いそぎだ、酒代《さかて》エはずむぜ、肩のそろったところを、エコウ、あらららうアイ! てッんだ。やってくんねえ!」
気の早いおやじもあったもので、そのまま桜花にどよめくお江戸の春をあとに、ハラヨッ! とばかり、ドンドン東海道を飛ばして伊勢へ下りにかかった。
水火秘文状《すいかひもんじょう》
藍色《あいいろ》の夕闇がうっすらと竹の林に立ちこめて、その幹の一つ一つに、西ぞらの残光が赤々と照り映えていた。
ほの冷たい風に、蜘蛛の糸が銀にそよぐのを見るような、こころわびしいかわたれのひと刻である。
城西、青山長者ヶ丸。子恋の森の片ほとり……。
そこの藪かげに、名ばかりの生け垣をめぐらし、草ぶきの屋根も傾いて住みふるした一軒の平屋が、世を忍ぶ人のすがたを語るかにおぼつかなく建っていた。
野中の森はずれ――ひさしくあいていたその家にこのごろ、いつからともなく二十人ばかりの正体のはっきりしない男達が移ってきて、出入りともにさだめなく、ひそやかな日夜を送っているのだった。
もとは、相当裕福な武家の隠居所にでも建てたのであろう、木口、間取り、家つきの調度の品々までなかなかに凝《こ》った住居《すまい》ではあるが、ながらく無人、狐狸《こり》の荒らすにまかせてあったうえに、いまの住人というのがまた得体《えたい》の知れない男ばかりの寄合い世帯なので、片づけや手入れをするものもなく、荒廃乱雑をきわめているぐあい、さながらこれも化物屋敷といいたいくらい……。
この、安達《あだち》ヶ|原《はら》ならぬ一つ家の土間に、似合しからぬ五梃の駕籠がきちんと、並べておろしてあるのだった。
そして。
その上の壁に、五人分の火事装束がズラリと釘にかかっている――かの五人組火消し装束の不思議な住居。
首領――とよりは、むしろ長老と呼びたい白髪の翁のもとに。
四肢のごとく動く屈強な武士が四名。
ふだんは掃除水仕事や家の警備に当たり、一朝出動の際はただちに駕籠舁《かごかき》と早変りする、六尺近い、筋骨隆々たる下男が十人。
それに。
中途から一団に加わった小野塚伊織の弥生と、そのまた弥生が稀腕《きわん》を見こんで招じ入れた手裏至妙剣《しゅりしみょうけん》の小魔甲州無宿|山椒《さんしょう》の豆太郎と、〆めて十七人の大家内に、森かげの隠れ家には、それでも賑やかな朝夕がつづいているのだった。
丹下左膳と、諏訪栄三郎の中間にあって等しく両者をねらい、左膳から乾雲を、栄三郎から坤竜を奪って雲竜二刀をひとつにせんとしている謎の一群!
頭《かしら》立つ老人は小野塚鉄斎の化身とでもいうのであろうか? 弥生までが黒髪を断ち切ってこの五人組に加担し、あまつさえ豆太郎などという変り種までとりこんで戦備をととのえ、じっさい着々活躍しつつあるとは、たとえ弥生の伊織と五人組とのあいだに、どんな了解《わけあい》がついているにせよ、それは、老翁はじめ五人組の正体同様、なんとも外からは想像をゆるさない秘情であった。
白髪童顔の老人は、そも何者か?
それに仕うる血気の四士?
また、彼らと行動をともにする男装の弥生の心中は? 栄三郎への彼女の悲慕哀恋《ひぼあいれん》はいったいどうしたというのだろう?
これらすべてが、火事装束に包まれる青白いほのお、やがては燃え抜いてあらわれんとする密事の火種であらねばならない。
この、去来突風のごとく把握すべからざる火事装束五人組と弥生豆太郎の住家のうえに、今や武蔵野の落日が血のいろを投げて、はるかの雑木ばやしに※[#「口+伊」、第4水準2−3−85]唖《いあ》と鳴きわたる烏群の声、地に長い痩竹《そうちく》の影、裏に水を汲むはねつるべの音、かまどの煙、膳立てのけはい――浮世の普通《なみ》に、もの悲しくあわただしいなかに、きょうもはや宵を迎えようとする風情が噪然《そうぜん》として漂っていた。
たそがれ。
あかね色。
……輝き初《そ》める明星。
その時、夕まけて寒風の立つ背戸ぐちの竹やぶに、ふたつの影がしゃがんでいた。
弥生と、そうして豆太郎である。何かの話のつづきらしく、豆太郎は顔をあげずにいいはじめた。見ると、彼は小刀をといでいるのだ。
例の殺人手裏剣用の短剣を、何梃《なんちょう》となく地べたに並べて、かたわらの手桶の水をヒョイヒョイとかけながら、豆太郎は器用な手つきでせっせと小柄をとぎすましている。
青黒く空の色を沈めて横たわる小さな刃……それが血を夢みて心から微笑んでいるようだ。
「なあに伊織さん、あの二人だって、あれだけおどかしときゃアたくさんでさあ。へっへっへ、みんな肝をつぶして突っぷしゃがったっけ」
いいながら豆太郎、手の小剣を鼻さきにかざして、しかめッ面《つら》で刃をにらんだが、まだ気に入らないとみえて、
「チッ! こいつめ!」
またゴシゴシ磨石《といし》にかけ出したが、あの二人と聞いて、弥生が急にもの思いにあらぬ方を見やったとたん、
「伊織どの! 伊織殿! 伊織殿はおられぬかな?」
奥から、老翁の声が流れてきた。
「そうさ。乾雲一味の者は大分たおしたようだから、まずあれで上出来であった……あの紅絵売りの若侍と乞食とはああして威嚇《いかく》するだけでよいのだ、怪我があってはならぬ」
起きあがりながら、こうそそくさと弥生がいうと、豆太郎はちょっと不審げな顔を傾けて、
「へえい! そういうことになりますかね。なんだか俺チにゃあわからねえ」
で、弥生がまた、なにか口にしようとしているところへ、さっきから呼びつづけていた老人の声が、こんどはひときわ甲高《かんだか》に聞こえてきた。
「伊織どの! そこらに伊織殿はおらぬかな?」
手裏剣を磨く手も休めもせずに豆太郎が注意した。
「伊織さん、呼んでるぜ、大将が」
弥生はうなずいて家内《なか》へはいった。
奥の書院へ通る。
何一つ家具らしいもののない八畳の部屋、水のような暮色がしずかに隅々からはいよるその中央に褪《あ》せた緋《ひ》もうせんを敷いて一人の翁が端座している。
銀糸を束ねた白髪、飛瀑《ひばく》を見るごとき白髯、茶紋付《ちゃもんつき》に紺無地|甲斐絹《かいき》の袖なしを重ねて、色|光沢《つや》のいい長い顔をまっすぐに、両手を膝にきちんとすわっているところ、これで赤いちゃんちゃんこでも羽織れば、老いて愚に返った喜《き》の字の祝いのようで、まるで置き物かなんぞのように至極穏当な好々爺《こうこうや》としか見えない。
さて、何者にせよ、火事装束の四闘士と十人の荒らくれ男をピッタリおさえて、自ら先に乾坤の刀争裡《とうそうり》に馳駆するだけあって、その眼は鷲のような鋭光を放ち、固く結んだ口もと、肉《しし》おきの凝《こ》りしまった肩から腕の外見、一|瞥《べつ》してこの老士とうてい尋常の翁ではないことを語っている。
松の古木のような、さびきったその身辺に、夕ぐれとはいえ、何やらうそ寒いものが漂っているのを感得して、
「は、お呼びでございましたか」
と入って来た弥生は、思わずぶるッと小さく身ぶるいをしながら黙りこくっている老翁のまえへ、いざりよって座を占めた。
うす暗い。
となりは、ほとんどもう闇黒に近い室内。
そこに、神鏡のように茫《ぼう》ッと白く浮かんでいる老人の顔を見ると、弥生は、はじめて気がついたようにあたりを見まわした。
「あれ! まだお灯が入っておりませんでございましたか。どうも不調法を……ただいま持って参りまする」
と弥生、そこは天性で、もとを知られているこの老人の前へ出ると、小野塚伊織のはずの弥生、いつも本来の女性に立ち返って、じぶんでもふしぎなくらい自然に、言葉さえもただの弥生になるのだった。
四六時ちゅう、みずから意を配って男のように立ち振舞っているだけに、こうしてしばらくにしろ、その甲冑《かっちゅう》を脱ぎ捨てて女の自分に戻ることは、泣きたいような甘いこころを、つと弥生の胸底にわかさずにはおかない。
老士は口を開かない。
が、この弥生の心もちを伝え知ったかのように、剃刀《かみそり》のように冷やかだった眼色にやさしみが加わって、やがて、ぽつりといいきった声には不愛想ながらも、どこかに児に対するごとき一脈親愛の情がのぞき見られた。
「灯はいらぬ」
そして、珍しく、かすかな笑顔が小さく闇黒に揺れた。
「暗うても会話《はなし》は見えるでな」
「ホホホ! それはそうでございます」若侍の伊織が、娘の弥生として笑う。
そこに、妙に奇異な艶《なま》めかしさが動くのだった。
「して、そのおはなしと申しますのは?――なんでございましょう?」
すると、老人はしばらく沈思していたが、
「伊織どの! いや、弥生殿……のう、伊織が弥生であることに、まだ誰も気づいた者はありませぬかな」
ギョッ! としたらしく弥生はにわかに肩をかくばらせて男のていに返りながら、
「はじめから御存じの先生とお弟子衆のほかは、たれ一人として知るものはないはずにござりまする」
「うむ。かの、豆太郎とか申した人猿めは?」
「は。きゃつとて何条疑いましょう! いうまでもなく、わたしを男と思いこんでいるふうにござりまするが、今宵に限って、先生には何しにさようなことをおたずねなされますか」
老士の膝が、一、二寸前方へ刻み出た。
「いささか気になるによって聞いたまでで、大事ない。だが弥生どの、ぬかりはござるまいが、けどられぬよう十分にナ……」
弥生がうなずいた拍子に、それを合図に待っていたかのごとく、うらの竹やぶに咽喉自慢の豆太郎の唄声。
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坂は照る照る。
鈴鹿《すずか》は曇る。
あいの土山《つちやま》、雨が降《ふ》る。
上り下りのおつづら馬や
さても見事な手綱《たづな》染めかえナア
馬子衆のくせか高声に
鈴をたよりにおむろ節《ぶし》
坂は照る照る
すずかは曇る
間の土山、雨が降ウる
はいッ!
シャン、シャン、か――。
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暮れ迫る森かげの家を、手裏剣をとぎながら、ひとりうかれ調子の豆太郎の声が、ころがるように筒ぬけてゆく。
唄にあわせて砥石《といし》にかけているものらしく、拍子をとって、声に力がはいっている。
ひなびたこころあいを、渋い江戸まえの咽喉で聞かせる、亀背の一寸法師には似あわない、嬉しいうた声であった。
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あいの土山、雨がふる
やらずの雨だよ
泊まって行きなよ
主《ぬし》を松かさ
さわれば落ちるよ
ハイ、ハイ……とネ
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途切れ途切れに伝わってくる豆太郎の唄ごえがパッタリとやむと暗く濃い春宵のしじまのなかで、老士と弥生は、ほのかに顔を見合ってほほえんだ。
思い出したように老人がいう。
「お呼び立ていたしたはほかでもない」
「は」
と呼吸を呑
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