きましたよ」
「道理で、影が見えないと思いました。おふたりともいつもお達者で結構でございますねえ」
「いんや、あんまり結構でもねえのさ」
 と、ほろにがい調子で富五郎が答えている時に、ちょうど露地づたいに近所の風呂から帰って来た富五郎女房のおしん、何ごころなく裏口からあがろうとすると、誰やら客らしい声がいやにしんみりと流れてくるから、おや! どなただろう? と障子の破れからのぞいてみたところが、かねがね亭主の富五郎がひそかに懸想《けそう》していることを自分も感づいているお艶の母のおさよなので、ハテ、珍しくなんの用だろう――? そのまま水ぐちにしゃがんで耳をすましている……とは知らない鍛冶富。
「女房と畳はたびたびかえるがいいそうでネ。ハハハハ、いや、こいつあ冗談だが、さて今の話で、お艶さんがこの日ごろどこに何して暮らしているかは、おさよさん、実はわっしも知らねえんだよ」
 おさよは、いつしか眼のふちを赤くしていた。
「ですけれど親方、ついさっき、何もかも御存じのような口ぶりを洩らしたじゃありませんか。後生ですから――」
「はっはっは! そりゃア事の次第によっちゃアまんざら吐きださねえこともねえかも知らねえが、と、当分、おれは何ものんでやしねえものと思っていてもらいてえ。が、ものは相談だから、お前さんがわしの念をとどけさせるというのならおれもここで一肌ぬいで、ちと大時代だが、御親子対面の場を取りはからわねえとも限らない……」
「親分、なんでございますね、そのお前さんの念《ねん》というのは」
「ウフフフ、なんだネそんなまじめな顔をして! お前さんにそう真っ向から問いただされちゃア、おれも困るじゃないか」
「――――」
「まあよい。こっちのことは第二にして、お前さんも、そうやってわざわざ出て来なすったからにゃア、何か大切な用があってのことだろう? そいつを一つ、即《そく》に聞こうじゃねえか」
 いわれた時におさよは、その鍛冶富も疾《と》うからお艶に心をよせて、今はまたお艶が夢八と名乗って深川のまつ川から羽織に出ている事実をつきとめている唯一の人間……ということなどは思いもおよばないで、きかれるままに渡りに船とばかりきょう尋ねて来た用むきをポツリ、ポツリと話し出したのだった。
 どうも栄三郎がああいう柔和な人間でまことに結構だが、いってみれば働きがなく、末の見こみというものがない。殊には富五郎のいうとおり、もうお艶栄三郎がキッパリ別れているならなおのこと、いまおさよの奉公先本所法恩寺前で五百石のお旗本鈴川源十郎様が、きつう娘に御執心《ごしゅうしん》なされて、一度はお屋敷に閉じこめてわがものにしようとしたが、栄三郎ときれいに手を切って娘を生涯の妾にくれるならば、内々のところは奥様にして、そうならばこのさよも五百石の女隠居、眼をつぶるまで世話をしてやろうといってくださる。栄三郎にはいささか不実だが、これもなんともいたし方がない。しかもすでに離れているものなら、さほど生木を割くというわけでもなし、世の中はまず自分の楽をはかるのが当世かと思う。ついては、いかになんでもわたしから栄三郎へは掛合いがしにくいから、富五郎さんおいそがしいところをお頼み申して心ないが、どうだろう、ここに殿様からいただいた小判が五十両――これだけあれば、いつぞやお前さんに返金するために栄三郎に立て替えてもらった金の埋めもついて、ほかにうるさいことをいわれるおぼえはないはず。その五十金がこのとおりソックリ財布にはいっている。これを手切れにして、一つ出向いて栄三郎を説き伏せて来てはくれまいか……。
 富五郎は沈黙。
 白っぽい場末の静寂が、おさえつけるように真昼の街をこめている。
 弟子の吉公が、またお向うの質屋の小僧と喧嘩をはじめたらしくうわずった声がおもての往来に流れていたが台所にひそむおしんは、何も耳にはいらないふうで、ひたすら室内の富五郎の返答を待った――うなだれて固唾《かたず》をのむおさよ婆さんとともに。
 いわば恋がたきである――源十郎と鍛冶富。
 その鈴川の殿様のために、手切れの使者に立って金を渡し、はなしをまとめてくれとおさよ婆さんに頼まれたときに、鍛冶屋の富五郎、味もそっけもなくポンとはねつける。
 と、思いのほか。
 逆に、グッと一つそり返りざま、胸のあたりを大きくたたいて見得をきった。
「ようがす!」
 と容易《たやす》く受け合う。
 立ち聞くおしんは、案に相違して、お艶を源十郎にやろうという良人《おっと》のことばに燃えかかっていた嫉妬のほむらもちょっとしずまって、いささか安心したらしいようすだが思ったよりこともなく承知《うけあ》ってくれたのに、かえってさよのほうがびっくりし、
「え? それではアノ――?」
 せきこんでききかえすと、ますます鷹揚《おうよう》に合点をした富五郎親方。
「わかりました、おさよさん。お前さんの心はよっく理解がつきましたよ。なアるほどネ、子を思う親の誠に二つはねえとは、よくいったもんだ。お前さんはつまりお艶さんにこのうえの苦労をさせたくねえ。なんとかして鈴川様へさしあげて、すこしでも楽な身分にしてやりてえという腹でいっぺえで、いってみりゃア自分のことなど二の次なんだろう。そうなくちゃアならねえ……うム……親ッてえものはありがてえもんだなあ! おらあおさよさん、この年になって初めて親の恩を知りましたよ。あああ、焼野《やけの》の鶴に夜のきぎす――」
 なんかと富五郎、何を思い出したのかそこらのお寺の説法にでも聞いたらしい文句を並べだしたりはいいが、どうもいうことがさかさまである。
 にもかかわらず。
 涙っぽいその調子に誘われて、おさよが思わずさしうつむくと、うら口のおしんまでが湯帰りの濡れ手拭とまちがえて、雑巾《ぞうきん》で眼じりをこすっている。
 春の日の午さがりだけあって、いかにも間の抜けた愁嘆場《しゅうたんば》……。
 なまあったかい風が、ほこりを舞わせて家をつつむ。
 世の中があくびをしているよう……いかにも眠いもの憂さである。
 おさよが、赤くなった眼をあげた。
「では、瓦町へ出かけて行ってお金を渡し、栄三郎さんから離縁状を取って来てくださるというんでございますね」
「そうともサ! お前さんの言うとおり、世の中は真直ばかりでもいかねえ。おまけに、手前の女房を食わせることもできずに追ん出てゆかれた栄三郎さんだ。そりゃア先様はまた先様で、なんのかのとほかに心をつかうこともあるんだろうけれど、なあに先方の都合なんざア聞く耳もいらねえ。これからすぐに瓦町へ行って栄三郎さんをおだて、ニッコリ笑って縁切り状を書かせて来てみせるから、お前さんはマアわしに任《まか》せて、なんの心配することアねえやな、今におしんも帰ってくるから、ユックリ話して休んでいなさるがいい」
「ほんとに普段は勝手ばかり、用がなければおたずねもしないくせに、とんだ御迷惑なお願いをして――」
「マアいいとも、いいとも、そんなことは言いなさんな、勝手はお互いだ」
「恐れ入りますでございます」
「ナアニ! ところでもうおっつけかかあの帰って来る時分だが……畜生! 何をしてやがるんだろう? 碌でもねえ面の皮の引んむけるほど、おびんずる様みてえに磨きたてやがって――」
 と、これを聞いたおしん、そっと足音を忍ばせてもう一度戸外へ出たが、気がつくと、もしも話の模様がじぶんを突きだしてお艶を入れるようなことにでもなったら、これを振りまわして暴れこんでやろうと、さっきから手にしてたたずんでいた擂粉木《すりこぎ》を、まだ握ったまんまなので、われながらアッ! とふきだしそうになるのをおさえつつ、ほどよいところから、エヘン! 一つさりげなく咳払いをして、
「あれ! どなたかお客さまでござんしたか」
 わざとあわただしく駈けあがって障子をガラリ、
「まあおさよさん! お珍しい!」
 とニコニコ顔のおしん、これでうちの亭主野郎もどうやらお艶さんをあきらめるであろうと思うからそのはなしを持ちこんできたおさよ婆さんを下へも置かずもてなしだすと、
「おしんや。あっちの羽織を出してくんな……それじゃアおさよさん、ちょっくら瓦町へ行って来ますよ。おしん、おさよさんは飲《い》ける口だ。晩にゃア一本つけてナ、帰途に俺が魚甚へ寄って何かよさそうな物を見つくろって来るから――」
「行ってらっしゃい」
 おしん、おさよに送り出されて三間町の己《おの》が鍛冶店をあとにした富五郎、もう二度とわが家の近くへ立ち寄らないつもりだから、さすがにうしろ髪を引かれる思い、町かどで、叱りじまいに小僧の吉公をどなりつけたまま五十両をふところに浅草瓦町とは違う方角へ、逃げるがごとく、足早に消えていった。
 それからまもなく――。
 三間町を出はずれた鍛冶屋富五郎は、ひとり思案に沈みながら人通りのすくない町すじを選んで歩いていた。
 ときどき、ふところへ手をやる。
 と、五十両入りの財布をのんだ懐中はあったかくふくらんで、中年過ぎのこのごろになってともすれば投げやりに傾こうとする富五郎のこころを躍らせずにはおかないのだった。
 十両からは首の台がとぶころである。
 五十といえば、もちろん大金であった。
 が、金そのものよりも、鍛冶富をうらやませてやまないのは、その金が買い得るあの艶の身膚《みはだ》であった。
 聞けば、本所の殿様は、この五十金をおさよ婆さんに渡して、これで栄三郎からきれいにお艶をもらってこいといったそうな。評判の貧乏旗本で身持ちの悪い鈴川様が、どうして五十とまとまったものを調達できたのか、これが第一の不審だが、それはそれとしても、我欲に眼のくらんだおさよが、選《よ》りに選《よ》って自分のところへ交渉方《かけあいかた》を持ちこんで来たのは、富五郎にとってはこのうえもない幸であった。
 よろしい! 承知した! と大きく胸をたたいて婆さんを安心させたのみか、親の恩なぞと並べ立ててちょっぴり泣かせたのち、いと殊勝に縁切りの使者にたつふうに見せかけて家を出て来た鍛冶富だったが、まともに先方に話をつけて五十両おいてこようとは、かれは始めから考えていないのだった。
 突然おさよ婆さんが訪れてきた時、彼はちょうど女房《にょうぼう》のおしんも留守なので、きょうこそはお艶所望の件を持ち出して、妾《めかけ》で承服なら妾、また家へ入れてくれなければ嫌だというのなら、どうせ前々からあきあきしている古女房だから、すぐにもおしんに難癖をつけて追い出し、その後釜にお艶をすえてやろうから、どうか母のお前さんからもとりなしてくれ。ついては、これはわしだけしか知る者はないのだが、お艶さんはいま、まつ川の夢八という名で深川から芸者に出ているから、会いたいならすぐにもあわせてあげよう――とこうすべてをぶちまけて恩にきせ、お艶のもらい受けを頼みこむつもりでいたやさき、おさよ婆さんがきりだした来訪の要件というのを聞いてみると、鈴川の殿様のほうが先口で、しかもここに五十両という手切れの現金、おまけに五百石の女隠居というのに婆さんコロリと参っているふうだから、こりゃア今になって俺がどんなに割りこもうとしたところで所詮相手が旗本ではかないっこない。
 といって、黙って見ていたんじゃあ、おれが行かなくても婆さんなり誰かなりが出かけて話をまとめ、ことによったら鈴川様はお艶坊を手活《ていけ》の花と眺めるかも知れない。あのお艶を、鈴川だろうが何川だろうが、金で買わせてなるものか!
 ――と、ひどく心中にりきみかえってしまった鍛冶屋の親方富五郎、お艶を本所へやらないためには、じぶんがこの五十両を持って逃げるに限る。そうすれば、おさよも手ぶらではお屋敷へ帰れず、またお艶のありかを知る者は自分以外にないのだから、鈴川様の手がお艶にとどくことはない。――
 そうだ。一つ五十金を路用にして、当分江戸をずらかることにしよう?
 なんとしても、あの菊石《あばた》の殿様にお艶さんを自儘《じまま》にさせることはできねえ!
 どうも女房のおしんにはあきの差しているところだ。一
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