うのなら、さすがは徳川幕下|直参《じきさん》の士、源十郎もすこしは奥ゆかしかろうというものだが、どうしてどうしてこの鈴川のお殿様ときた日には、書物といえば博奕《ばくち》の貸借をつける帳面以外には見たこともなく、筆なんか其帳《それ》へ記入する時のほか手にしたこともないという仁だから、いくら錆《さ》びた庭面に春の日が斑《まだら》に滑ろうが、あるかなしかの風に浮かれて桜の花びらが破れ畳に吹きこんでこようが、いっこうに風流|雅味《がみ》のこころを動かされるふうもなく、きょうも先刻から、とうのむかしに抱きこんである老婆さよを呼び入れて、こうしてしきりに五十金の縁切り状だのと春らしくもないことを並べたてているのは、さては源十郎、いよいよお艶を手に入れる策略を現にめぐらしはじめたものとみえる。
さてこそ、ふたりの中間に、山吹色――というといささか高尚だが、佐渡の土を人間の欲念で固めた黄金が五十枚、銅臭|芬々《ふんぷん》として耳をそろえているわけ。
俗物源十郎の妄執《もうしゅう》、炎火と燃えたってついにお艶におよばないではおかないのであろうか?
邸前の野に、雲に入るひばりの声……。
それも、買わんかな、売らんかなの両人の耳には入らぬらしく、源十郎、したり顔に膝を進めてつ[#「つ」に傍点]と声をおとした。
「サ! おさよ殿、これなる五十両を受け取って、約束どおりに栄三郎から三行半《みくだりはん》を取って来てもらいたい。いかがでござる?――よもや嫌とは……」
「いやだなどとめっそうもない! それではお殿様、はい、この五十両はわたくしがお預り申して」
と何も知らないおさよは、眼を射る小判の色に眩惑《げんわく》されて、一枚二枚と小声で数えながら金を拾いあげはじめたが! その一つ一つに、出羽様の極印《ごくいん》で、丸にワの字が小さく押してあるのには、おさよはもとより、よく検《あら》ためもしなかったので、源十郎じしんさえすこしも気がつかなかった。
血のにじんだ小判!
大工伊兵衛の死相をうかべた金面!
それが一つずつ老婆の貪欲《どんよく》の手に握りあげられてゆくとき、左膳と月輪の雑居した離室に、どッ! と雪崩《なだれ》のような笑い声が湧いて消えた。
この室内のしじまにチロチロと金の触れるひびき……。
怨霊《おんりょう》を宿した金子《きんす》に手をふれておさよの皮膚は焼けただれたか……というに、べつにそうしたこともなく、丸にワの字の出羽様の極印も両人とも知らぬが仏で、世のつねの小判のように、おさよはそのまま五十両を数え終わって、ちょっと改まって源十郎へ向きなおった。
「はい。たしかに五十枚。まことにありがとうございました。これでどうやらお艶の身の振り方もつき、またわたしもこの年になって安|楽《らく》ができ、いわばわたしども母娘《おやこ》の出世の――いとぐちと申すべきもの、では、これからさっそく参りまして……」
「ア、そうしてもらいたい」
源十郎は上々機嫌だ。
「なに、財布がない。では、これを持っていかれるがよい」
と、これが世にいう運のつきであろうとは後になって思い合わされたところで、この時は源十郎お艶ほしさの一念でいっぱいだから後日の証拠のなんのということはいっこうに心が働かない。ごく気軽に自分の財布を取り出して内容をはたき、これに件《くだん》の五十金を入れておさよに渡すと、おさよは大切に昼夜帯《はらあわせ》のあいだへしまいこんで、
「じゃ、一っ走り――」
起とうとするところを、ちょいとおさえた源十郎、
「何の中でも、当節《とうせつ》五十両といえばまず大金の部である。こころおぼえのために栄三郎から離縁状を取って戻るまで、受取りをひとつ書いてもらいたいものだが……」
もっともと思ったおさよが、そこで、筆紙と硯を借りて文面は源十郎の言うとおり――。まず差入れ申す一札のこと……と、書きはじめて、やっと筆をおいた。その文言はこうだった。
[#ここから2字下げ]
差入れ申す一札のこと
[#ここから3字下げ]
一金五十両也。上記のとおり確かにお受取り申し候。娘艶儀、御前様へ生涯《しょうがい》抱切《かかえき》りお妾に差上げ申し候ところ実証なり。婿栄三郎方は右金子をもって私引き受け毛頭|違背《いはい》無御座候。為後日証文|依而如件《よってくだんのごとし》。
享保四年四月十一日。
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艶母 さよ
[#ここから3字下げ]
鈴川源十郎様
御用人衆様
[#ここで字下げ終わり]
この誓文《せいもん》を書き残したおさよは源十郎が棟梁伊兵衛を殺して奪った金……内いくらかは松平出羽守お作事方の払い金と、大部分はたらぬとはいい条、現在むすめお艶が羽織に身売りしたその代とを〆《し》めて五十になる。それを持ってイソイソと本所の鈴川様おやしきを立ち出たのだった。
一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
これも、春のなすすさび[#「すさび」に傍点]であろう。
正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって展《ひら》かれるであろうはかない最後の安逸《あんいつ》を、早くもぼんやりと脳裡にえがいて、ひとりでに足の運びもはかどるのであった。
本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の海棠《かいどう》は醒めやらぬ暁夢《ぎょうむ》を蔵して真昼の影をむらさきに織りなし、その下のたんぽぽの花は、あるいはほうけあるは永日ののどかさを友禅《ゆうぜん》のごと点々といろどっているけしき……いつの間にやら、春はどこにでも来ていた。
南の風。
そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
気がついてみると、今日は吉野《よしの》の花会式《はなえしき》である。
なつかしい心もち。
そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
どこへ行こう?……と考える。
栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけ[#「のっけ」に傍点]からこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり頻《しき》りにうなずきながらまたあるきだした。
まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
駒が勇めば花が散る……。
これは駒ではないが、細工場でおもい槌《つち》をふるって、真赤に焼けた金を錬《なら》すごとに、そのひのひびきに応じて土間ぐちに近く一本立っている桜の木から、雪のような白い花びらがヒラヒラ舞い落ちる。
テンカアン、テンカアン! と一番槌の音。
あさくさ三間町の鍛冶富、鍛冶屋富五郎の店さきである。
「サ、吉公、そこんところをもうすこし、裏をよく焼くんだぞ!」
いそぎの請負仕事であるとみえて、きょうは富五郎、桜花をよそに弟子の吉公をむこうへまわして相変わらず口こごとだらけ。
「ふいご[#「ふいご」に傍点]が弱えんじゃねえかナ。あんまり赤がまわらねえじゃねえか。なんでえ、飯ばかり一人前食いやがってしっかりしろい!」
――と、それでも珍しく自分で仕事場に立って真っ黒になっているところへ――。
「はい。ごめんなさい、富五郎さん」
という薹《とう》の立ちすぎた女の声が、藪《やぶ》から棒に聞こえて来たから、富五郎が槌の手を休めてヒョイと戸口の方を見やると、田原町の家主喜左衛門といっしょにいろいろ面倒を見てやった、奥州相馬の御浪人和田宗右衛門さまの後家おさよ婆さんが、妙にニヤニヤ笑ってのぞいているので、
「イヨウ!」
と驚いた鍛冶富、
「やア、おさよさんじゃアねえか」
「どうも申しわけもございません。お世話になりっぱなしでまだその御恩返しの万分の一もできずに、しじゅうわがことにばかりかまけて御無沙汰つづきでおります。そのうえ、今日はまた折り入ってお願いがあって参りましたので」
「ウムウム。ああそうかい、そりゃまアよく来なすった。いま仕事の最中で挨拶もできねえから、さ、かまわずズンズン奥へあがんなさい……といったところで、知ってのとおりの手狭なあばら[#「あばら」に傍点]家だ。ずうっとはいりこむのはいいが、とたんに裏へ抜けちまうからナ、そこは何だ、いいかげんのところにとまって待っていておくんなさい、はははは、ナニ、すぐにこいつを仕上げて、ひさしぶりだ、いろいろ話も聞こうし報《し》らせてえこともある。さ、ま、遠慮しねえで――」
いいところへ彼のお艶の母が舞いこんで来たものだ。こいつは一番、このおさよ婆さんにこのごろのお艶の始末をうちあけ、さよから先に納得《なっとく》させてお艶を手に入れてやろうと、さっそくに考えをきめた富五郎、まるで天からぼた[#「ぼた」に傍点]餅が降ってきたようなさわぎで、
「こらッ吉ッ! きょうはお客が見えたからこれで遊ばせてやる。いますこし励んだらしまいにして手前《てめい》はよくあと片づけしておけ」
ジュウンと火熱の鉄を水につっこんで、富五郎はまっくろになった手と顔を洗い、上り端《ばな》の六畳へ来てみると、ふだんから小さなおさよ婆さんがいっそう小さくしぼんで、眼をしょぼつかせながらすわっている。
そこで。
どっかりと長火鉢の向うにあぐらをかいた富五郎と、出された座布団をちょいと膝でおさえたおさよとが、無音のわびやら何やらにまたひとしきり挨拶があったのちに、
「おさよさん――」とあらたまって鍛冶富が口をきったのだった。
「どうだえ? 眼がさめなすったかい?」低声になって、「俺ア毎度田原町とも、それからうちのおしんともお前のうわさをしているよ。あんな縹緻《きりょう》のいい娘を持ってサ、おれならお絹物《かいこ》ぐるみの左団扇《ひだりうちわ》、なア、気楽に世を渡る算段をするのに、なんぼ男がよくっても、ああして働きのねえ若造にお艶坊をあずけて、それでお艶さんを埋《う》もらせるばかりか、はええはなしがお前さんまでその年をしてお屋敷奉公に肩を凝《こ》らせる、なんてまあ馬鹿げた仕打ちだと、しじゅうおしんとも語りあっておらアお前さんのために惜しんでいた。が、そこはマア若え女のほうがじきに熱くもなりゃあ冷めるのも早えや、お艶坊はお前、とっくの昔にスッパリ栄三郎さんと手を切ってヨ。今じゃア……」
いいかけて口をつぐんだ富五郎へおさよはいきなりすがりつくように乗り出したのだった。
「え? うすうすは聞いてもいましたが、それじゃアあの、お艶はすっかり栄三郎と別れて――して今はどこに何をして?」
「これおさよさん!」
眼を鈍く光らせて、鍛冶富は急によそよそしくなった。
「同じ江戸にいながら、母として娘の所在も生活《くらし》も知らねえとは、おさよさん! おめえ情けねえとは思わねえか」
さも慨然《がいぜん》と腕を組んだ富五郎のまえに、おさよは始めて欲得《よくとく》のない母の純心を拾い戻した気がして、ながらく忘れていたいとおしい涙が、お艶に対してこみあげるのを覚えた。
そのようすに、鍛冶富の片頬が、しめたッ! とばかりにかすかに笑みくずれる。
おさよは、しずかに鼻をかんだ。
「あ! そういえば、あの、おしんさんは?」
おさよは顔をあげてきいた。富五郎はうそぶく。
「なに、かかあかい、かかあ[#「かかあ」に傍点]は先刻湯へ行
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