いつのまにか一同のそば近く割りこんで来て、草の根に一升徳利をまくらに寝ていた泰軒先生は、すでに笑いながらゆっくりと立ちあがっていた。
これも我流我伝《がりゅうがでん》の忍びの怪術か。かれ泰軒は、栄三郎とともに繁みに隠れて左膳の一行を待っていたにもかかわらず、栄三郎が躍り出て先頭の法勝寺三郎を斬り捨てると同時に、誰も気がつかないうちにコッソリ敵のうしろへまわったが、そうかといって背後をつくでもなければ虚を狙うでもなくこの修羅場をまえにして今までのんこのしゃあ[#「のんこのしゃあ」に傍点]と草露にゴロリと寝ころんで見物していたのは、べつに栄三郎に不実なわけではない。まったくのところこれが泰軒先生独特の持ち前で、その証拠には逸《いち》はやく乾雲を鞘走らせた隻眼《せきがん》片腕の刃妖左膳と、一歩さがって大刀の柄に手をかけた月輪軍之助の両剣妙を前面にひかえて、泰軒先生、このとおりニヤニヤと鬚を動かしているだけだ。
「乞食坊主とはいささか的をはずれたぞ、いかさま拙者は乞食かも知れぬが、坊主ではない。以後ちと気をつけてものをいわっしゃい」
「よけいなことを吐《ぬ》かしくさる! たった今その舌の根をとめてつかわすからそう思え!」
「ホホウ! それは耳よりな! おもしろかろう」
と、うそぶいた蒲生泰軒。貧乏徳利を片手にさげて半ば眼をつぶり、身体ここにあって心は遠く旅しているがごとく、ただボンヤリと佇立《ちょりつ》しているように見えて……そうではない。
剣は手にしないが、その体置きの眼のくばりが、そっくり法にかなった自源流《じげんりゅう》水月《すいげつ》の構相――。
たかの知れた白面柔弱の江戸ざむらいとあなどっていた栄三郎に、先刻から同志の三人まで斬り伏せられて、月輪の一統、すくなからず武蔵太郎の鋭鋒を持てあまし気味のところへ、相馬からの道中さんざ悩まされた血筆帳《けっぴつちょう》のもち主、ヌウッとしてつかまえどころのない例のひげ男が出て来たので、のこりの連中、急に浮き足が立ちはじめた――とみた援軍の盟主月輪軍之助、手にした霜冽《そうれつ》三尺の秋水にぶうん[#「ぶうん」に傍点]と、空振りの唸りをくれながら、あたりの乱陣に聞こえるような大声に呼ばわった。
「月輪軍之助、お相手つかまつる。いざ、おしたくを……」
すると泰軒。
「ナニ、したく? したくも何もいらぬ。どこからでも打ちこんでくるがよい」
放言。依然として身うごきだにしない。
「しからば……」
いいかけた軍之助の声は宙に消えて、同時に、早瀬をさかのぼる魚鱗《ぎょりん》のごとき白線、一すじ伸びきって泰軒の胸元ふかく!
と思われた瞬間!
パアッと砕け散ったのは、泰軒先生愛用の一升徳利で、それとともに泰軒は、つい[#「つい」に傍点]と軍之助の腕の下をくぐり抜けて、近くの月輪のひとりをダッ! 足蹴《あしげ》にしたかと思うと、その、はずみをくらって取りおとす大刀を拾い取るが早いか、やはり、のっそりの仁王立ちの、流祖自源坊案|不破水月《ふわすいげつ》のかまえ。
つねに刀を佩《はい》しない巷の流人《るにん》泰軒居士、例によって敵のつるぎで敵をたおすつもりと見えるが、無剣の剣、できれば、これこそ剣法の奥極かも知れない。
しののめとともに月輪のざわめき。
それは、またもやこの乞食が刃物をとったという驚きと戒めの声々であった。
しかし、泰軒は泰軒として、
今宵の諏訪栄三郎のはたらきは神わざに近かった――。
かれは、はじめに法勝寺三郎を斬り、それから四人を地にのめらせたのだが、この長時の剣戦に疲れるどころか、蒼白《そうはく》の顔にほほえみさえうかべ、殺眼に冷たい色を加えて、神変夢想の技《わざ》ますます冴えわたり、
「やッ!」
と捲《ま》き剣、当面の相手土生仙之助のまえに武蔵太郎の斬っ先を円くまわしていたと見るや、
「うヌ! 参るぞ!」
一喚! 終わらぬに先んじてッ……慕いよるまもなく、縦横になぎたてたその一下が仙之助の虚につけいって、ザクリッと右肩を割りさげられた仙之助、
「うわアッ! 痛ウウウ――!」
おさえる気で肩へやった左手が手首まではいりこむほどの重傷だ。
月のひかりに、アングリと口を開けた自分の肩を、仙之助はちょっと不思議なものと見た。
が、つぎの一瞬、かれは再び栄三郎の一刀を臓腑《ぞうふ》に感じて、焼けるような痛苦のうちにみずから呼吸をひきとりつつあるのを知った。
ぷうんと新しい血の香。
その時だった! どこからともなく飛来した一本の短剣が、折りから栄三郎へかかろうとしていた岡崎兵衛の咽喉ぼとけに射《い》立ったのは……!
猛鳥のごとく、宙を裂いて来た一梃の小剣、あわや跳躍に移ろうとしていた岡崎兵衛の顎下へガッ! と音してくいこんだ。
と見る!
数条の血線、ながく闇黒に飛散して、兵衛はたちまちはりきっていた力が抜け、あやつり人形の糸が切れたように二、三度泳ぐような手つきをしたかと思うと、そのままガックリと地にくずれてのけ[#「のけ」に傍点]ぞった。
思わぬ時に意外な伏勢!
しかも、薄明の夜に防ぎようのない魔の手裏剣である!
即座に、一同のあたまに電光のごとくひらめいたのが、あの、過ぐる夜半、本所化物屋敷の庭に突如として現われ、またたくまに二、三月輪の剣士を亡き者にしてはてた猿のような一寸法師と彼の投剣術だ……。
なんじらは順次にわが手裏剣の的《まと》なり――。
この威嚇《いかく》の文句も、いまだかれらの眼にこびりついている……そのやさき、こうしてなんの前ぶれもなく、小刀、どの方角からとも知れずに疾飛しきたって、またもや剣を取っては錚々《そうそう》たるひとりの同志を、まるで流れ矢にでも当たったように他愛なく射殺したのだから月輪の剣連、瞬間、栄三郎をも泰軒をも忘れて、ひとしく驚愕と畏怖にたじろいだ。
事実!
かのふしぎな、手裏剣手は岡崎兵衛を倒したのみにあきたらず今、夜はどこまでもその入神錬達の技を見せるつもりらしく、つづいて二の剣、三の剣と月光をついてシュッ! シュッ! という妖奇な音が、ながくあとを引いて木の間の空に走り出した。
と思うと、
ちょうどその時、刀を引っさげて、小剣来たる方を見さだめようとあたりを眺めまわしていた藤堂粂三郎の横腹へ命中して、粂三郎、二つに折れ曲がって傷口をおさえ、ウウム! と一こえ、うなり声もものすごく夜陰にこだまするが早いか、すでに彼は、ばったり土に仰向いて、空を蹴ろうとするように足を高く上げたのも、二、三度――まもなく草の根をつかんで静止……悶絶してしまった。
そして!
再びざわめき渡る月輪の一同へつぎの手裏剣! こんどは、燐閃、河魚《かわうお》のごとく躍って各務房之丞の鬢《びん》をかすめ、ガッシ! とうしろの樹幹に突き立ったから、ここに月輪の残士たち、はじめて短秒間のおどろきから立ちなおって、一団にかたまりあっていたのが、わアッ! と叫んで四方に散ずると同時に危険を実感したらしい首領軍之助のどら声が、指令一下、葉末の露を振るいおとしてひびき渡った。
「伏せ! 伏せ! ピッタリ腹をつけて土に寝ろ! 早く散って……早く!」
これでようやく対策を得た月輪組、あわてふためきながらもソレッ! と蜘蛛の子のように跳び隠れて、一瞬のうちには、みなあちこちの地上に腹這いになったものらしく、見わたす八幡の底に立てる人影もなく、ただ草を濡らす血潮と死体から腥風《せいふう》いたずらにふき立って月の面をかげるばかり剣闘の場も一時は常の春の夜に返ったと見えた。
騒擾《そうじょう》の夜の静寂は、ひとしお身にしみる。
ことに夜……その不気味な休戦には、いっそ血を浴びていたほうが、まだましだと思わせる緊張がはらまれていた。
早いあけぼの。
栄三郎と山東平七郎は。
泰軒と月輪軍之助は。
また、かの丹下左膳は。
かれらも、共同の敵なるこの玄妙飛来剣のまえには勝負を中止せざるを得なかったとみえて、どこにもそこらには立ち姿の見えないのは、いいあわしたように草に伏しているのであろう――。
じっさい、かの手裏剣は左膳をはじめ、月輪組を襲うのみならず栄三郎泰軒をも目標にしているものに相違なかった。
というのは、一度ならず二度、三度までも、例の小柄《こづか》が泰軒栄三郎の身辺に近く飛んで来て、ひとつは、栄三郎の腰なる武蔵太郎の鞘を殺《そ》いで落ちたことさえあったことだ。
この得体の知れない飛び道具にはせっかく腕に油の乗りかけて来た栄三郎も、また天下に怖いもののないはずの泰軒先生も、ちょっと扱いようがなくて、とにかくとっさに相手の月輪とともに地に伏さっているのだった。
左膳もどこかに這っているのであろう……しいんとした夜気に明け近い色がただよって、低く傾いた月は漸次に光を失いつつある。
ところどころに小高く見えるのは、斬り殺された月輪の士の死体だ。
この上に東天紅《とうてんこう》のそよ風なびいて、葉摺《はず》れの音をどくろ[#「どくろ」に傍点]の唄と聞かせている。
この休止のままに夜があけるのであろうか?――と、こちらの木かげからのぞき見るお艶がひとり気をもんだとき、白煙のような朝|靄《もや》のなかを小走りに遠ざかりゆく大小ふたつの人影が眼にはいったのだった。
猿まわしと小猿……夢を見ているのではないかと、お艶は眼をこすった。
さくら暦《ごよみ》
あすか山。この享保年中に植えしものには、立春より七日目ごろもっとも盛んなり。
王子|権現《ごんげん》。同七十七日目ごろよし。古木五、六株あり。八重にて匂いふかし。
すみだ川。おなじく六十四、五日ごろをよしとす。水辺《みずべ》ゆえ眺め殊《こと》にすぐれたり。
御殿山《ごてんやま》。七十日目ごろさかん也《なり》。房総《ぼうそう》の遠霞《えんか》海辺の佳景、最もよし。
大井村。七十五日ごろさかん也。品川のさき、来福寺、西光寺二カ所あり。
柏木村。四谷の先、薬師堂まえ右衛門桜という。さかり同じころ也。
金王桜。しぶや八幡の社地。おなじころよし。
当時評判東都花ごよみ桜花の巻一節。
さて――はな季節である。
どんよりと濁った空。
砂ほこり……そして雨。
一あめごとのあたたかさという。
咲き始めた。いや、さきそろった。もう散った――などとこのあわただしさが、さくらのさくらたる命だと聞くが、風呂屋や髪床のような人寄り場に、桜花より先に、花のうわさにはなが咲く……そうした一日の午後だった。
「いや、ようよう、我善坊《がぜんぼう》の伯父御隈井九郎右衛門殿から五十両立て換えてもらって、おれもこれでほっ[#「ほっ」に傍点]といたした。どうもこの節はふところ工合が悪く、そこもとにいろいろと心配をかけて相すまない。が、マア、こうして手切れの金もできたのだから、この上は一刻も早く栄三郎に渡して離縁状を取って来てくれるよう……源十郎、このとおり頼み入る」
「ま! 殿様、なんでございます、おじぎなんぞなさいまして!」
「ははは、不見識だといわるるか。ハテ、実は母者人《ははじゃびと》に生きうつしのそこもと、これからはまたお艶のお腹さまとして拙者にとっては二つとない大切な御隠居、そのお人に頭をさげるに、なんで異なことがござろう?」
「ホホホホ、それはまあそうでしょうけれど……ではあの五十枚たしかに」
しずかな声が曇った春の陽のうつろう縁の障子をポソポソと洩れ出ている。
本所法恩寺前――化物やしきと呼ばれる五百石小ぶしん入りの旗本、鈴川源十郎の奥座敷である。
定斎屋《じょうさいや》の金具の音がのんびり[#「のんびり」に傍点]と橋を渡って消えてゆくと、近くの武家の塀内で、去年の秋から落ち葉を焼くけむりが、白くいぶったままこの部屋の端にまでたゆって来ている。
春長うして閑居。
明窓浄几《めいそうじょうき》とはいかなくても、せめて庭に対して経《きょう》づくえの一脚をすえ、それに面して書見するなり、ものにはならないまでも、詩箋のひとつもひねくろうとい
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