三郎ら乾雲の一団が、相手は一諏訪栄三郎と侮って、一気にしてこれを屠《ほふ》り坤竜丸をおさめるつもり――鍔鳴りのひびきが錚然《そうぜん》として月明に流れた。
空はあかるく、地は夢の国のように霞んでいる……。
膚さむい微風の底に、何がしの人の心を唆《そそ》らずにはおかない仲春のいろが漂って、どこか遠くの町に火事があるのか、かすかに間《ま》伸びした半鐘の音が流れていた。
行春静夜。
しかし、それは暴風雨のまえのあの不気味なしずもりにすぎなかった。
今暁を期して瓦町に栄三郎方を突襲すべく宵のうちから本所の化物屋敷を出て、この料亭に酒汲みかわし、もうだいぶ時刻も移ったので、さあ、そろそろ出かけようではないか――という調子。くわえ楊子《ようじ》のほろ[#「ほろ」に傍点]酔い気分でブラリといまその家を立ちいでて来たところだから、乾雲の一行、まさにひとつ[#「ひとつ」に傍点]出鼻をどや[#「どや」に傍点]された形で、ちょっと立ちおくれざるを得なかった。
しかも! 諏訪栄三郎、飛び出すとともにはやひとり斬り捨てているのだ。
抜く手も見せず……ということをいうが、ちょうどそれ。
声高に話し合いながら三々伍々、金剛神院お庭の小径を徒歩《ひろ》って、先に立った法勝寺三郎がとある繁みのまえへさしかかった時だった。
やにわに黒いものが躍りでたかと思うと、氷刃一閃――三郎のどこへくいこんだのか、そのままかれは土を舐《な》めて、代りにそこに立っているのは、血線あざやかな武蔵太郎を引っさげた諏訪栄三郎であった。
と見るより、とっさの驚愕から立ちなおった左膳と月輪の勢、ピタリ! 踏みとどまると同時に、もういっせいに皎剣《こうけん》の鞘を払って、月の斑《ふ》がうろこ[#「うろこ」に傍点]のように鍛鉄の所々に光った。
おのずから半月の陣!
その背後から、しわがれた左膳の声が物の怪《け》のごとく走った。
「オオ坤竜か。これから参ろうとしているところへ、そちらから出かけて来るたアいよいよ運の尽《つ》きたしるしかナ。いかさま汝のいうとおりまだ短夜じゃアねえ……では、一晩こころおきなく斬りむすぶとしようか」
いいながら左膳、隻腕の袖をグイと脱ぐと、例の女物の下着が月を受けて浮きたつ。
不敵なほほえみが、その、刀痕の眼だつ顔をいびつに見せていた。
風雲急!
栄三郎は沈黙。
ただ、霜がこいの藁で法勝寺三郎の血を拭き終った武蔵太郎を、かれはしずかに正面に持しただけである――神変夢想の平青眼《ひらせいがん》。
と!
タ! タ! と二、三あし、履物を棄てて草を踏みつつ、栄三郎の前へ進み出た長剣の士、月輪の道場にあって三位を保《たも》つ轟玄八だ。
玄八。平潟《ひらかた》船《ふな》番士で、その剣筋、幅もあれば奥ゆきもゆたかに、年配は四十に手のとどく円熟練達の盛年。
ガッシリした体躯に心もち肩をおとして、濡れ手拭を絞るようにやんわり[#「やんわり」に傍点]と柄をささえ、
「参れッ! ウム!」
大喝、誘いの声だ。と、ともに、スウッ! 手もとをおろして突きにいくがごとく見せかけ、老巧|狷介《けんかい》の刀士、もろに足をあおって栄三郎の頭上へ!……飛刀、白弧をひいて舞いくだった瞬間、体を斜めに腰かわした栄三郎の剣、チャリーン! 青光一散、見事に流すが早いか、ただちにとって車返《くるまがえ》し武蔵太郎、血に渇して玄八の左肩を望んだ。
が、轟玄八、即時左手を放して柄尻《つかじり》で受ける。
そして!
刹那、妙機の片手なぐり、グウンと空にうなった燐閃《りんせん》が、備えのあいた栄三郎の脇胴へ来た。
竹刀ならばお胴一本取られただけですむかも知れない。しかしこれは真剣も真剣……見守る一同、秒刻ののちには上下半身を異にしている栄三郎を見ることと思った。
――にもかかわらず、ガッ! と音を発して玄八の刀をそらした栄三郎、すかさずつけ入ってヒタヒタと鍔《つば》を押している。
これは見物《みもの》!
といった色めきが、半月の列を渡った。
ガッキ! と咬《か》み合ったまま微動だにしない鍔と鍔。
諏訪栄三郎と轟玄八。
一同が、眼をそばだてて熟視するなかにしばらくは双方、伯仲《はくちゅう》の力をあつめて保《も》ち合いの形と見えたが――。
雲が出た。
月の影が、さまざまの綾を地上に織りなす。
やがて!
いかなる隙ありと見たのか、玄八、やにわに、
「ううむ」
一声! これが気合い、同時に、満身の筋力を刀手にこめて押しかかる――と思わせて、じつは逆に、スウッと張りを抜きながら数歩、引きこむようにさがろうとしたのは、いわずもがな、誘い入れの一手。
栄三郎もさる者、離れゆく玄八をあえて追おうとはしなかった。
不動。
で。
間余《けんよ》の間隔をおいた、ふたりいたずらに鋩子《ぼうし》先に月の白光を割いて、ふたたび対立静止の状をつづけだした。
風死んで、露のしたたりが明日の晴天をしらせる。
凄寂《せいじゃく》たる深更の剣気……。
月輪軍之助以下北藩の援士は、抜きつらねた明刃をグルリと円列につくって、青眼の林、捲発《けんぱつ》する闘気をもって微動だにしない。
左膳は、軍之助とともに剣列の背後にあった。
誰ひとり声を出すものもない。はち切れそうな殺気に咽喉をつまらせて、一同ものをいう余裕などはなかったのだ。
ジイ――ッと薄光の底に停止するおびただしい刀身を、春の夜の月が白く照らしている。
突如!
その氷柱《つらら》のごとき一剣が銀鱗をひらめかして上下に走ったと見るや、またもや玄八、これでは際限がないと思ったものかやにわに刀を起こして大上段……真っ向から栄三郎の前額を指して振りおろした。
パチリッ! 柄近く受けとめた武蔵太郎、つづいてジャアッと刀がかたなを滑って、ほの青い火花が一瞬、うすやみの空《くう》をいろどった。
と!
この時まで受身の形だった栄三郎は、鼻を打つ鉄の香にひとしお強烈な戦志を呼びさまされたものか、はたしていきなり攻勢に出て、新刀を鍛えて東海にその人ありと聞こえた武蔵太郎安国晩年入神の一剣、突発して玄八を襲うが早いか、そのひるむところを、すかさず追うと見せて瞬転、横一文字に払った斬先に見事にかかって、刀を杖にたじろいだのも暫時《しばし》、モンドリうってその土に倒れたのは、月輪剣門の一士若松大太郎だった。
大太郎といえども選に当たって江戸くんだりへ生命のやりとりに出てくるくらいだから、もとより刀のたたない男ではなかったが、油の乗りはじめた栄三郎には、所詮《しょせん》、敵ではなかった。
腰の蝶番《ちょうつがい》へしたたか刃を打ちこまれた大太郎、全身の重みで土をたたいたのが、かれの最後だった。
と見るや!
気負いたった月輪の剣列、犇《ひし》ッ! とおめいて一栄三郎をなます[#「なます」に傍点]にせんものと、燐閃《りんせん》、乱れ飛んで栄三郎に包みかけたが、かいくぐった栄三郎、最寄《もよ》りの一人に※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》ッ! 体あたりをくれると同時に、ただちに振り返って、おりから拝み撃ちに来ようとしていた山東平七郎へ!
「おウッ!」
片手の突き!
「うむ!」
平七郎、パッと払ってニッコリした。
「なかなかやるナ……来いッ!」
息もしずかに、栄三郎はもう平青眼に返っている。
月の端を雲がかすめた。
夜明けが薄らいだ。
月の端に雲がかかったのだ。
ふかがわ富ヶ岡八幡の社地内に乾雲に乗ずる一団をむこうにまわして、武蔵太郎に殺剣乱跳《さつけんらんちょう》を舞わせる諏訪栄三郎、ツゥ……ツと刀をさげて下段のかまえ、取り巻く自余の者へは眼もくれずに前面の豪敵山東平七郎をめざして血のにじむ気あいを振りしぼった。
「エイッ」
平七郎、ピタリ一刀、中青眼にかすかに微笑をふくんで応ずる。
「やッ!」
と、この時。
わざと誘いに乗ったとみせた栄三郎、俄然! 太郎安国を躍らせて平七郎の右脇へ!――と思うまもなく、たちまち銀閃《ぎんせん》ななめに走って、栄三郎、相手の腋《わき》の下を上へはねあげようと試みた。
が!
山東平七郎は、北州の雄剣月輪軍之助の門下にあって、師範代各務房之丞の次席、各務、山東、轟をもって月輪の三羽烏と呼ばれたその中堅だ。
小野塚鉄斎の遺道に即して、栄三郎いかに神変夢想をよくすといえども、いまだ平七郎の生き血を刃に塗ることはできなかった……のであろう、平七郎、つと栄三郎の剣動を察して、一歩さがると同時に、パッ! 伸び来る刀鋩《とうぼう》を柄で叩くが早いか、側転! そのまま打ちおろして、手をかけた障子が自ら滑り出したように思わず空《くう》を泳いでいた栄三郎を、見事に真っ向から割りつけた――と思われた刹那、よろめきながら必死の機、栄三郎の刀尖、平七郎の剣をはじき流して、かろうじて危地を脱した栄三郎、強打を伝えて銀盤のごとくふるえ鳴る武蔵太郎を、こんどは車形にうち振りつつ、
「おウッ!」
おめきざま、月輪の刃《やいば》ぶすまの真っただなかへ、身を斜《はす》かいに斬りこんでいった。
乱戦――。
空高く風が渡っているらしい。
雲の流れが早いとみえて、月光を照ったりかげったり……そのたびに、樹間の広場に皎剣《こうけん》をひらめかす人のむれを、あるいは明るく小さく、またはただの一色のやみに押しつつんで、さながら舞台の幕が開閉するかのように見えた。
豆を炒《い》るような剣人のうごき。
飛びちがえては斬り結び、入りみだれたかと思うとサッと左右に別れ、草を踏みにじり木の葉を散らしてまさにここは神変夢想対月輪一刀の、二流優劣の見せ場となった。
剣戟《けんげき》のひびきは、一種耳底をつらぬいて背骨を走る鋭烈な寒感《おかん》を帯びている。
それが、助けをいそぐ夜の空気に霜ばしらのごとく立ち伝わってかけ声、風を起こす一進一退――気の弱い者を即殺するにたる凄壮な闘意が、烟霧のようにみなぎって地を這いだした。
闇黒をこめる戦塵……。
その刃渦《じんか》の底をすこしく離れた木かげに隠れて、さっきからこの剣闘をうかがっていたひとりの女があった。
いうまでもなくお艶、いや、今は羽織芸者のまつ川の夢八だ。
彼女は。
うるさい客の鍛冶屋富五郎に、せいぜいなびくがごとく見せかけて酒をすすめ、その間にぬけ出て泰軒を呼び返し、左膳ら今宵の策動を未然に報じてこの対計を採らしめたのだが、こうしてここから眺めていても、斬り合っているのは栄三郎一個、頼みに思う泰軒先生はいまだに姿をあらわさないのだ。
なるほど、今のうちは栄さまひとりでどうやら太刀打ちをしていけそうだが、なにしろこっちは一人に相手は多勢――どうなることであろうか? と、わが身も忘れてお艶はしきりにハラハラしているけれど!
逆にここに待ち伏せして、出てくるところをこうして不意に襲ったくせに、栄三郎にだけ剣をとらして、泰軒はいったいどこにひそんでいるのか……?
となおも見守っていると!
あせりだした栄三郎、群刀をすかしてその背後をのぞめば、鞘ぐるみのかたなを杖に、しずかに会話《はなし》つつ観戦のていとしゃれている二人の人かげ――月輪軍之助と丹下左膳である。
「乾雲! そ、そこにいたのかッ!」
声とともに躍りあがった栄三郎がいままでに何人か月輪の士の肉を咬み骨を削った武蔵太郎を正面にかざして打《ちょう》ッ! 撃ちこもうとしたとき、列を進んで中間にはいったのが土生《はぶ》仙之助だ。
「おのれッ! 邪魔立てするかッ!」
「何を言やアがる! さ、来いイッ!」
仙之助、栄三郎に真向い立ってぴったりとつけたとたん! 足もとの草むらから沸き起こった破《わ》れ鐘《がね》のような笑い声がかたわらの左膳を振りむかせた。
「わっはッは! やりおる! やりおる! こりゃ儂《わし》は出んでもええらしいテ」
「うむ」
早くも声の主をみてとったらしく、左膳は例になく沈痛な調子だった。
「乞食坊主であろう? そこで何か申しておるのは」
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