が写っているのだ――かげ芝居。
左の部屋には……武士らしい大一座が群れさわいで、だいぶん酒がはずんでいるらしく、大きな影法師が入り乱れて杯の流れ飛ぶのが蝶の狂うがごとくに見える。
と!
そこの障子に、細長い影が一つうつり出した。ほかの者が手を叩くのが聞こえる。するとその立っている影が、朗々たる詩吟の声に合わせて、剣舞でも舞いはじめたものとみえて、たしかに抜き身の手ぶり畳を踏み鳴らすひびきが伝わってくるのだが! 下の道路から見あげる泰軒と栄三郎がわれにもなく足をとめたゆえんのものは!
その影が隻腕《せきわん》片剣……。
「栄三郎殿、あれはどうじゃ?」
「泰軒先生ッ」
すばやく私語《しご》しあいつつ、なおも障子に躍る片腕長身の士のつるぎの舞いを見つめている両人――諏訪栄三郎|満腔《まんこう》の戦意をこめて思わず柄がしらを握りしめ、おのずからなる武者ぶるいを禁じ得なかった。
それが、分身坤竜丸の刀魂に伝わってか、カタカタカタとこまかく鍔《つば》の鳴る音! うしみつ。
刀が刀を慕い刃が刃を呼んで、いまし脇差坤竜が夜泣きをしているとも聞こえる。
が、まもなく。
こんどは右の小座敷に……。
男女のくろ影が鮮やかに映り出して、それは別の意味で、泰軒と栄三郎を、ひいてはすこし離れたところに隠れている弥生と豆太郎を、あっ! と言わせずにはおかなかった。
障子へ墨で書いたように、はっきりと写っていたふたつの人かげ。
男と女である。
夜更けのあたりをはばかってか。声は聞こえない。が、男が無体をいって女を追いまわしているらしく帯のゆるんだ、しどけない姿の女の影が、右へ左へ、裾を乱して逃げかわすありさまが、影絵のように手にとるごとく見えるのだ。
となりの広間には、痩身左腕の剣舞が今や高潮……。
そのためこの一座は次の部屋のさわぎに気がつかないとみえて、それをもっけの幸いに男の影はますます女の影へ迫る。
肩に手がかかる。かいくぐる。うしろから抱きすくめようとする。かがんでそらす――影と影とが、付いては離れはなれては付きしてさながら鬼ごっこ――。
二階真下の往来に立つ栄三郎と泰軒、黙然と、二間つづきの障子におどるそれぞれの影法師を見あげていると、弥生と豆太郎も、遠くから、この二人と階上の影とに眼を離さない。
隣室には鬼どもが……と思うと、お艶の夢八、声をたてることはできるだけ控えたかった。
しかし! 気はあせる。
どうかして今宵の乾雲の秘密を瓦町へ未然にしらせなくては!
と気が気ではないが、この場合、猛《たけ》りたっている鍛冶屋をなだめすかしておいて、そのまに身を抜いて浅草へ走るのが、唯一《ゆいつ》の道であると彼女は考えているのだった。
けれど! かじ富の煩悩《ぼんのう》の腕は、払ってもはらっても伸びてくる。
たまらなくなったお艶、いっそ人眼でもあったら一時のしのぎになるだろう――と!
逃げながらサラリ、二階縁の障子をあけたから、ぱっと流れる灯のなかに、座敷着も崩れてホンノリ上気したお艶のすがたが……。
そしてばったり栄三郎と眼があった。
瞬間!
栄三郎は、歩き出していた。
「泰軒先生! よしないものに足をとめて、チッ! けがらわしい図を見せられましたな。いざ、どこへなりとお供つかまつりましょう」
と! 同時に。
ぴしゃり、二階に音あり……お艶は早くも障子を閉《し》めた。
二階を走り出たとっさの光線を全身に浴びた栄三郎――それは昼間のべに[#「べに」に傍点]絵売りの風俗ではなく、本来の浪人風に返ってはいたが、いずれにしてもお艶にとっては、会わぬ日のつもるにつれて、夢にだに忘れたことのない恋人栄三郎であった。
栄三郎様に泰軒先生!
と見てはっとしたお艶、みずからのすがたを恥ずるこころが先立って、気のつくさきにもう障子を閉《と》ざしていたのだったが、遅かった。
泰軒、栄三郎がお艶をみてとったのはもとより、すこし隔ててうかがっていた弥生にも、刹那《せつな》にして消えた二階の芸者が、意外にもお艶であることは一眼でわかった。
奇遇――といえば奇遇。
それはまことに思いがけない出会いであった。
無数の青蛾《せいが》が羽をまじえて飛ぶと見える月明の夜半である。
ところはお山開きの賑いも去った深川富ヶ岡八幡の境内。
一道のひかりの帯が半闇に流れて、何か黄色い花のように、咲いたかと思うと閉じたとたんに……見あげ見おろした顔であった。
一度は、否、今まで、たがいに死をもって心中ひそかに慕いしたわれているお艶栄三郎である。
ただその恋情を、世の義理のためにまげているお艶と、男の意地、刀の手まえわれとわが胸底をいつわりおさえなければならぬ栄三郎と、世にかなしきはかかる恋であろう――。
最初、栄三郎は、変わり果てたお艶に大きなおどろきを覚えたのだったが、一面かれは、お艶のこんにちあるは前もって知れきっていたような気がして、すぐにその驚愕から立ちなおることができたけれど、それとともにお艶に対する新しい憐憫が湧然《ゆうぜん》とこころをひたして、眼頭おのずから熱しきたるのを禁じ得なかった。
しかし、憤りはより大きかった。
ものもあろうに芸者なぞになりさがって、おのが恥のみならず拙者の顔にまで泥をぬりおる! と考えると栄三郎、お艶の真意を知らぬだけに、とっさの激情に青白く苦笑するよりほかなかった。
で……。
「はしたないものを見ましたナ。はははは」
ペッ! と唾《つば》してあるき出そうとしたが、お艶を解している泰軒は、なおも影芝居を宿している二階の障子を見上げたまま動かないので、つりこまれた栄三郎、見たくもない二階へヒョイと視線を戻すと!
あろうことか!
小座敷の男女の影が、これ見よがしに二つ映っている。
お艶が男にしな垂れかかっているのだが、思わず栄三郎、カッ! と血があたまへのぼるのを感じて[#「感じて」は底本では「感じで」]空《から》つばをのみながら声がひしゃげていた。
「参りましょう、泰軒先生!」
が、依然として泰軒はうごかない。
栄三郎の眼がまたもや二階へ吸われると、こっちの弥生と豆太郎も、その障子の影がますます親しげになるのを見た。
家内のお艶は。
いま隣の部屋に、左膳の一味が坤竜|強奪《ごうだつ》の秘策を凝《こ》らしていることを知っているから、栄三郎がこのあたりに長居をしては危険である。さりとて、瓦町へ帰すのもいっそうあぶない、これは、一時も早くここを立ち去らせて、すぐに後を追って今夜の奇襲をしらせるにかぎる……それには、まず鍛冶富になびくと見せて安心させ、すきを求めて逃げ出すことにしよう――こう考えたお艶が、急に心にもなく折れて出て、
「ねえ三間町さん、ホホホホ、もうよしましょうよ、鬼ごっこみたいなこと」
と、われから鍛冶屋富五郎のふところに身を投げて擦りよると、富五郎は、短い太腕にお艶を抱きすくめて、その影がぼうっと大きく障子にうつったのだ。
同じ一枚の障子に映ずる黒かげ――ではあるが、戸外から見上げる栄三郎と、内部《うち》にあって自ら眺めるお艶と果たしてどっちがいっそう苦しくつらかったであろうか。
髑髏《どくろ》の譜《ふ》
長閃《ちょうせん》! 月光に躍る白蛇のごとき一刃、突如として伸びきたると見るまに!
声もなく反りかえって路上に転倒したのは、ひとり先に立った月輪剣門の士法勝寺三郎だった。
三郎、相馬藩内外に聞こえた強力豪剣ではあったが、機を制せられてひとたまりもなく、まっくろな血潮の池が見る見る社庭の土に拡がって、二、三度、けもののようなうめきとともに砂礫《されき》をつかんだかと思うと、そのまま――月のみいたずらに蒼白く死の這い迫る顔を照らした。
間髪《かんはつ》!
いま、瓦町へ向かおうと、ついそこの料亭を出て来たばかりの乾雲丸丹下左膳を取りまく一同、まだ八幡の庭を半ばも過ぎないうちに、つぶてが飛来するようにいきなり横合いから斬りこんで来たこの太刀風に、命知らずの者がそろってはいるのだが、さすがに度胆《どぎも》を奪われてコレハッ! と歩をとめながらいい合わしたように腰を低めて先方の薄闇をのぞきこむと……。
肩から月に濡れて立っている諏訪栄三郎。
脇差坤竜をグルッと背中へまわし差して、手の、抜き放すと同時に法勝寺三郎の生き血を味わった愛剣武蔵太郎安国を、しきりにそばの、まだ映山紅《きりしま》を霜囲いにしてある藁へ擦りぬぐっている。
そして、こともなげな静かな低声が、殷々《いんいん》として左膳の耳へ流れた。
「――丹下殿、乾雲丸をお所持になったか? ははは、いや、坤竜はたしかにここに! サ、雲よく竜をまきあげるか、それとも竜が雲を呼びおろすか……まだ夜あけまでは時刻もござる。今宵こそはゆっくりと朝まで斬りむすぼう、朝まで――」
ひとりごとのようにこういいながら、栄三郎は、せっせと藁で血がたなをぬぐっている。
虚心の境……。
神変夢想流《しんぺんむそうりゅう》において、もっとも重くかつ、もっとも到りがたしとなっている忘人没我《ぼうじんぼつが》の域《いき》に、今宵の栄三郎は期せずして達しているのだった。
何が機縁となって、かれらの剣胆《けんたん》をここまで導きあげたか?
それは、いうまでもなく、お艶が泪《なみだ》をのんで打った、あの影芝居であった。
思いにわだかまりあれば、腕がにぶる。
栄三郎の場合がちょうどそれだった。
すべてを捨てお艶に走ったかれとしては、そのお艶に去られたのちも、口や表面はともかく、胸の奥ふかくお艶を慕うこころ切々たるものあるのだったが、こんや[#「こんや」に傍点]という今夜、はからずも芸者姿のお艶を見て、これだけでさえ、いよいよ栄三郎に彼女を思いきらせるに十分だったところへ、まるで見せつけのような男との痴話ぐるい――栄三郎は、あの、二階の障子に黒く大きく写り出た男女の影によって、ここに初めて長夜の夢からさめたような気がしたのだった。
やはり、当り矢のお艶は当り矢のお艶だけのもの。男をたらす稼業の水茶屋女が、それに輪をかけた芸者になったとてなんの不思議があろう?……こう思うと、栄三郎は、影の相手の男が誰であろうと、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ豁然《かつぜん》とあらゆる未練をたった彼、おのが心身の全部を挙げて乾坤二刀の争奪につくそうと、あらたなる闘魂剣意にしんそこからふるい起ったままであった。
忘れかけていた小野塚鉄斎直伝神変夢想流の覇気、これによみがえった栄三郎は、もはやこの日ごろの栄三郎ではなく、ふたたび昔日、根岸あけぼのの里の道場に雄《ゆう》を唱えた弱冠の剣剛諏訪栄三郎であった。
今やかれの前にお艶なく、われなく、世なく――在るはただ亡師の恩と高鳴る戦志の血のみ。
かくてこそ、これからなお雲竜の刀陣に介《かい》して、更生の栄三郎が思うさま神変夢想の秘義を示し得るわけ……だが?
お艶はどうした?
彼女は、首すじに毛虫を這わせるおもいで鍛冶富になれなれしくして酒をすすめたのち、泰軒と栄三郎の立ち去ったのを見すますが早いか、ただちにその家の若い衆を走らせて泰軒だけを呼び戻しいそぎ二階の隣室に左膳の一団が宴を張っていて、いまにも瓦町へ押しかけようとしていることを告げたのだった。
だから、時分はよかろうと、左膳、軍之助の連中が旗亭をあとに、ほんの四、五十歩も踏んだかと思うところへ先ほどから献燈のかげに待ち構えていた栄三郎が、現われると一拍子に、先頭の法勝寺三郎を抜き撃ちにたおしたのだ。
月に更けゆく夜――。
左膳をはじめ月輪組も、栄三郎も無言。
泰軒はどこか近くにひそんでいるのであろう。
遠くで、樹陰から木かげへと大小ふたつの人影が動いた。
ポタリ……夜露が木の葉を打つ音。
寂莫《せきばく》たる深夜――ふかがわ富ヶ岡八幡の社地に、時ならぬ冷光、花林《かりん》のごとく咲きつらなったのは丹下左膳、月輪軍之助、各務房之丞、山東平七郎、轟玄八、岡崎兵衛、藤堂粂
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