、なあに、こっちのことで……ただね、ただ殿様にゃア女性《おなご》のにおいがするから、それでその、あんまり女の子が寄りつかねえんじゃねえかと――はははは、これああっしの勘ですがね」
ギラリと凄い光が、豆太郎の眼尻から弥生の横顔へはねあがる。
弥生は、大きく口を開けて欠伸《あくび》をした。
「見ろ! きゃつら両人、いよいよ深川へはいりおるぞ! さ、すこし急ごう」
「いそぐのはいいが、こうして尾《つ》けてってどうするんです?」
「さきは拙者のいうとおりにしろ」
と足を早めると、なるほど、泰軒と栄三郎は、もう永代《えいたい》寺門前通り山本町、名代の火の見やぐらの下あたりにさしかかっている。
この夜ふけに、いずくへ?――いくのだろう?
心中にはいぶかしく思っても、栄三郎はべつにたずねもせず、また泰軒も話そうとはしないで、瓦町を出てから口ひとつきかずに押し黙ったまま、ここまで来たのだ。
柳暗花明《りゅうあんかめい》、名にし負う傾斜のちまた。
栄三郎、ちと迷惑げに眉をひそめていると、ぼろ一枚に貧乏徳利の泰軒先生、心得がおにブラリブラリと先に立つ……。
何かは知らず、早くから弥生につれられ、青山長者ヶ丸子恋の森のふしぎな家を出てきて、宵の口いっぱい瓦町に張りこんで今あとをつけて来た豆太郎も、弥生とともにすこし遅れてついてゆくのだが。
一寸法師、おまけに亀背で手長の甲州無宿山椒の豆太郎、すくなからず勝手がちがってキョロキョロしている。
ただこうして先刻夕がた、べに絵売りとまで身をやつしている栄三郎のあらぬ姿を見た弥生、こころいたんでやまないのはぜひもなかった。
三月二十一日より四月十五日まで深川八幡《ふかがわはちまん》のお山びらき。
山開き客も女も狂い獅子。
これは山びらきに牡丹《ぼたん》町から獅子頭が出るので、それにかけて言ったものだが、とにかく当時はふかがわの山開きといえば大した人気、さかんな行事の一つであった。
この期間、別当のお庭見物差しゆるす。
別当は、大栄山永代寺金剛神院。
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に擬して富ヶ岡八幡といい、社地に二軒茶屋とて、料理をひさぐ家があったことは有名なはなし……。
――さて、
ちょうど今がその山びらきお庭拝観の最中で昼は昼で申すもさらなり、夜は夜景色見物と、そのまた見物に出る美形《びけい》を見物しようというので、近くはもとより、江戸のあちこちから集まって来る老若男女の群れが自然と行列をつくって切れもなく流れ動いている。
樹間の灯籠が光線の魔術を織り出し、そこここの焚き火の余映を受けて人の顔は赤い。
木の下やみに隠れてつれを驚かそうとする職人、ふくべをさげた隠居、句でも案ずるらしくゆきつ戻りつする大店の主人てい、肩で人浪を分けてゆく若侍の一隊、左右に揺れて押しあいへしあい笑いさざめいてくる町のむすめ達……人を呼ぶ声、ひるがえる袂、騒然とうす闇に漂う跫音――、
夢のなかで、もう一つ夢を見ているような、それは夜霧もまどやかな人出の宵であった。
そこへ、月が昇る。
おぼろ夜にはまだ早いけれど、銀白の紗《しゃ》が下界を押しつつんで、人はいっそうの陶酔《とうすい》に新しくさざめき合う……。
その時、人ごみのなかを左褄《ひだりづま》をとっていそぐ粋な姿があった。
言わずと知れた羽織芸者――水のしたたりそうな、スッキリとした江戸好みに、群集中の女同士さては男までが眼顔で知らせ合って、振り返り、伸びあがって見送っていると、芸者は、裾さばきも軽やかに社庭を突っきり、艶っぽい声を投げて一軒の料理家の戸ぐちをくぐった。
やぐら下まつ川の夢八が、羽織見番へ口がかかって、いまお座敷へ出るところ……。
すぐあとから箱屋が三味線箱をかついでつづく。
これはいかさま箱屋で、その三味線箱なるものが、大工の道具箱にも似ていれば、そうかと思うとあとつけにも見える。あとつけというのは、武士で道中で替差しの刀を入れておく箱のことだ。
お祭り同然の山びらきで座はこんでいる。
「おやまあ、新がおの夢八姐さん、さっきからお客様がお待ちかねでネ、エエエエ、もう、じりじりなすっていらっしゃいますよ」
こう言われて夢八のお艶、通されたのは庭の池に面した表二階の一間だった。
人声と物音が綾をなして直下の道路に揺れている。
どこか遠くの部屋で、酒でも呼ぶらしくつづけざまに手を叩いていた。
廊下に小膝をついて障子をひきあけたお艶、
「ヨウ! 来たね」
という客の、すこし訛《なま》りをおびた嗄声《かれごえ》で、なんだか聞きおぼえのあるような気がして、かすかにさげていた頭をあげ室内を見た。ちんまりと洒落《しゃれ》た小座敷。
骨細のきゃしゃなあんどんをひきつけて坐っている町人のひとり……五十がらみのがっしりとした恰幅《かっぷく》、色黒――鍛冶富!……鍛冶屋富五郎である。
「おお!」
「アレ!」
これがいっしょの声だった。
客というのは鍛冶富――嫌なやつ! と思っても、お艶の夢八、とっさに立つわけにもゆかず、さりとてそのままはいる気にはなれず敷居のところでモジモジまごまごしていると、こっそり遊びに来て芸者を呼ぶとそれが昔のお艶だったので、より[#「より」に傍点]驚いたのは鍛冶富だ。
「イヤッ! お艶さんじゃアねえか。お前さん、どうしたえ? 喜左衛門どんも始終うわさをしていたよ。この土地から芸者に出ているなんておらアちっとも知らなかった。え? いつからだい? 栄三郎様とは別れたのかえ?……マずっとこっちへおはいんなさい。しばらくだったなア!」
「三間町さんでしたか。ほんとにマア御無沙汰申し上げております。お変りもなく――」
言いながらお艶は、なんとか口実をつけて帰らせてもらおう――こう考えたが、富五郎はもう溶けんばかりにでれりとなって、
「いや! そんな挨拶はぬきだ、ぬきだ! それよりお艶さん、きれいになったなあ……」
じいッとみつめる色ごのみな鍛冶富の視線にお艶はますます首肩のちぢむ思い――。
「軍《いくさ》にはまず兵糧が第一だて」
「さようさ。ここでしこたま詰めこんだのち出かければちょうど刻限もよかろう」
「なあに! 相手は優男に乞食ひとり、何ほどのことやある。これだけの人数をもって押しかけ参らばそれこそ一揉みに揉みつぶすは必定! さ、前祝いに一|献《こん》……」
「善哉《よいかな》善哉!」
「今宵こそは左膳どのも本懐を達して――」お艶はギョ! として思わず呼吸をのんだ。
最後の言葉が、動かないものとして彼女の耳をとらえたのである。
じつは、さっきから隣の部屋にいろんな声がしていたのだが、どこかの家中の士が流れこんできて駄々羅《だだら》あそびをしているのだろうと、お艶は、それよりも目前のおのが客鍛冶富に気をとられて、隣室の話し声にはたいして意を払わずにいたのだったが、はじめはヒソヒソ低声《こごえ》にささやき合っていたのが、だんだん高くなるにつれてお艶もいつしかそれとなく耳を傾けていると!
……相手はやさ[#「やさ」に傍点]男に乞食ひとり、というのが聞こえた。
さてはッ! といっそう聞き耳を立てたところへ、今宵こそは左膳どのも云々《うんぬん》――と誰かが言い出したからこっちの部屋のお艶、うっかり叫び声をあげそうだったのを危うくおさえて、つと鍛冶富のまえへ膝を進めながらニッコリ笑顔をつくった。
が、耳の注意だけはやはり隣室へ!
富五郎は気がつかない。
もとからお艶にぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]まいって機会あらばと待ち構えていた彼、羽織衆夢八となってひとしお嬌美《きょうび》を増したお艶の前に、富五郎はもう有頂天になっているのだ。
「いや。人間一生は七転び八起きさ、そりゃア奥州浪人和田宗右衛門とおっしゃるりっぱなお武家《ぶけ》の娘御と生まれた身が、こうして芸者|風情《ふぜい》に――と思うとね、お前さんだっていろいろおもしろくないこともあろうけれど、サ、そこが辛抱だ。なあ、そうやってるうちにアまた思わねえいい芽もふこうってものだ。だがネ、お前さんが栄三郎さんに見限《みき》りをつけたのは大出来だったよ。おらあ他人事《ひとごと》たア思わねえ、いつも喜左衛門どん夫婦と話してるんだ。ねエ、お艶さんは白痴だ。あんな普外《なみはず》れた器量を持ちながらサ、こういっちゃアなんだが、男がいいばかりで能《のう》のねえ御次男坊なんかと逃げ隠れて、末はいってえどうする気だろう?……今のうちに眼がさめて別れちまえば、まだそこに身の立て方もあろうてもんだが――なんてネ、寄るとさわるとお前さんのうわさで持ちきりだったよ。が、まあ、わしのにらんだとおり、お前さんも根ッから馬鹿じゃアなかった。栄三郎と手をきって、こうして羽織を稼いでいるたア褒《ほ》めてもいいね。ははははは、はやるだろう?」
「ええ、……おかげ様で、まあボツボツねえ」
「結構だ。せいぜい稼いでお母に楽ウさせるんだナ。ときに、おふくろといえば、どうしたえ、その後は? 音信《たより》でもあるかね?」
「は。まだ――」
「本所のお屋敷に?」
「ええ」
平気をよそおって富五郎とやりとりしながら、全身これ耳と化したお艶が、襖越《ふすまご》しに気をくばっていると隣室には乾雲を取り巻く同勢十五、六人集まっているようすで、何か声《こわ》だかに話し合って笑い興じている。
「しからば露地ぐちに見張りをつけて……」
といっているのは丹下左膳の声らしいが、あとは小声に変わって聞こえなくなった。
鳩首凝議《きゅうしゅぎょうぎ》――とみえて、にわかにヒッソリとした静けさ。
突然!
「ウム!」
と大きくうなずいて笑いだしたのは、お艶は知らないが月輪の首領軍之助であろう。事実、偶然このお山びらきの夜、社地内の料亭に酒酌みかわして、刻の移るのを待っている一団は……!
一眼片腕の剣魔丹下左膳を中心に、月輪門下の残士一同、深夜より暁にかけて大挙瓦町を襲って坤竜丸を奪おうとしているのだった。
鈴川源十郎はつづみの与吉をつれて、物見の格でとうに栄三郎をさして先発している――が、かれ源十郎をどれほど信じていいかは、臭いもの同士の左膳が迷わざるを得ないところだ。
酒がまわるにつれてそろそろうるさくなりかけた鍛冶屋の富五郎を、お艶はほどよく扱いながら、なんとかして瓦町へこの襲撃を先触れしなくては! と千々《ちぢ》に思いめぐらしていると、何にも知らない鍛冶富はいい気なもので、
「お艶さん、何をそう思案しているんだ? え? わしに惚《ほ》れたら惚れたと、ハッキリ白状したらどうだえ。ま、もそっとこっちへ寄りなッてことよ」
黒い手がムンズとお艶の帯にかかったので、びっくりしたお艶が、
「アレ! 何をなさいます!」
と起き立ったとたん! 下の往来に聞き慣れた謡曲《うたい》の声が……。
「あ! 立ちどまったぞ、あそこに!」
こう言って先なる小野塚伊織の弥生、うしろの豆太郎をかえりみて指さした。
山開きの夜の人出も散りそめた深川八幡の境内である。
九刻《ここのつ》も半に近い寂寞《せきばく》……。
あさくさ瓦町の家から、泰軒、栄三郎をつけて来た弥生と豆太郎、つかず離れず見え隠れにこの別当金剛院のお庭へはいりこんで、ふと気がつくと、今まで先方をズンズン歩いていた栄三郎と泰軒が仔細ありげにぴたッと足をとめているから、こっちもあわてて樹陰の闇黒に身をひそめてじっとようすをうかがうと――。
とある料理屋の表面に、歩をとめた泰軒と栄三郎、明るい灯の流れる二階を見上げたまま、動こうともしない。
ただならぬ気配!
とみて、弥生と豆太郎、同じく眼をあげてその正面の二階を眺めた。
月光を溶かして青白い大気に、惜春行楽《せきしゅんこうらく》の色が香《にお》い濃く流れている夜だ。
そのほんのりとした暗がりに、障子をしめきった旗亭《きてい》の二階座敷が、内部の灯火に映えてクッキリとうき出ている。
二間ならんで閉《た》てきってある二階の障子は……いわば祭礼の夜の踊り屋台のよう。
それへ、影
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