いていた。
早い月の出……。
下りきった夕ぐれの色が煙霧のようにただよって、そこここの油障子から黄色な光線の筋が往来に倒れている。
どこかの鐘の音が遠く空に沈んで、貧しい人々の住む町は、宵の口からひっそりとしていた。
たたき大工の夫婦、按摩、傘張りの浪人者、羅宇屋《らうや》――そして、五十近いその羅宇屋の女房は、夜になると、真っ白な厚化粧に赤い裏のついた着物を着て、手拭をかぶってどこかへ出かけてゆく。そうすると、火のつくように泣く赤児を抱いて、羅宇屋が長屋中を貰い乳してまわる……このあたりは絶えて輝しい太陽の照ったこともなく、しじゅうジメジメと臭い瓦町の露地奥だ。
いま、小豆を買って帰る途中の栄三郎、露地へはいろうとして、角の酒屋の灯火を全身に浴びるといつものことながら、はッとして足のすくむのを覚えた。
みずからのすがたである!
湯島あたりのかげまか、歌舞伎《かぶき》の若衆でもなければ見られない面映《おもは》ゆい扮装《いでたち》……。
ものもあろうに風流べに絵売りとしての自分には、たとえそれが世を忍ぶ仮りの生業《なりわい》とはいえ、根津あけぼのの里小野塚鉄斎道場に鳴らした神変夢想流の剣士諏訪栄三郎または御書院番大久保藤次郎実弟と生まれた諏訪栄三郎――どうしてこれが恥じないでいられようか。
何事も! 何ごとも……と常にみずからをおさえてはいる。が、こうしたものさびしい早春のたそがれなど、ひとり路を歩いていると、いったい今この道を踏んで行ってどこへいき着くのか? わが身の末はどうなのであろうか? 自然とかぶさってくる暗い考えが、眼に見えぬ蜘蛛《くも》の糸のようにかれの心身にからみつくのをどうすることもできないのだった。
弥生様のほうはお艶ゆえに断ちきった。
鳥越《とりごえ》の兄藤次郎には勘当されている身分。いままたそのお艶とも別れて、しかも事件の起こりの乾坤二刀はいまだに離れたままである。
ことすべておのれに不利。
真の闇黒――そういった気がモヤモヤとわきたって来て、ちょうど寄辺《よるべ》なぎさの捨《す》て小舟《おぶね》とでも言いたい無気力なこころもちにつつまれる朝夕、栄三郎は何度となく万事を棄てて仏門へでも入りたく思ったのだが。
この若い、そして若いがゆえにねばりのすくない栄三郎の心をひきたたせて、そばから怠らずはげましているのが、唯一《ゆいつ》の助太刀、同時に今は友であり師である蒲生泰軒先生であった。
お艶の去ったのち、栄三郎はお艶の思い出とともにひとりさびしく瓦町の家に暮らしていたが、かれはいよいよお艶のこころが遠くおのれを去ったことと思いこんで、その不実無情を嘆き悲しんだのも暫時《しばし》、昨今はすっかりあきらめおおせて、今やその精心の全部を雲竜二剣にのみ集中しているべきはずなのが、ともすればそれさえ棄てて、いっそくだけて町人にでもなろうか……などという考えを、よしぼんやりにしろ起こすところを見れば、栄三郎かえってお艶に執心《しゅうしん》の強いものがあるのではなかろうか。
もちろん、ここはそうなくてはならぬところ。世の栄誉順境のすべてを犠牲に、ともに誓い誓われたお艶ではないか。どこにどうしているかは知らぬものの、やはり栄三郎の胸ふかくお艶を思う念の消えぬのはむりもなかった。消えぬどころか、相見ぬ日の重なるにつれて、四六時じゅう栄三郎の心にあるのはお艶のおもかげ態度《ものごし》、口ぶり――、あア、あの時ああいって笑ったッけ、そうそう、またいつぞやあれが軽い熱でふせった折りは……。
と栄三郎、こうして戸外をあるいていても、お艶恋しやの情炎にかりたてられて、さながら画中のよそおいの美男風流べに絵売り、もの思いに深くうなだれて、暗い裏町の小路をトボトボとたどってゆく。
だが! この美男のべに絵売り!
一朝、つるぎを抜いては神変夢想の遣い手、しかも日中しょい歩く絵箱の中に関の孫六の稀作、夜泣きの刀の片割れ陣太刀づくりの坤竜丸を秘して、その艶な眼は、それとなく途上行人《とじょうこうじん》のあいだに、同じ陣太刀乾雲丸とその佩刀者を物色しているものとは、誰ひとりとして知る者はなかったろう。
離れれば夜泣きする二つの刀……それは取りもなおさず、別れていて夜泣きするお艶栄三郎の身の上であった。
定《さだ》まれる奇縁。
栄三郎は、そういう気がする。
黙想のうちにわが家の門口まで来たかれ、そのままはいりかけた足をとめて、ふと露地のむこうの闇黒をすかし見た。
何やら黒い影がふたつ、逃げるように急ぎ去っていくのだ。
ひとつはどうやら若侍のうしろ姿。だが、つれとみえる他のかげは?
小児か?……それとも野猿のたぐい?
栄三郎、思わずギョッ! として眼をこすった。
大小二つの人影!
ひとつは煙のごとく、他は地を這うように、たちまち消え失せたと見るや、栄三郎は、追いかけようとした身の構えをくずして家内へはいった。
飯のふきこぼれるにおい。
泰軒の大声。
「うわアッ! いま沢庵《たくあん》を切っとって手が離されん。早く、その、釜のふたをとってくれ」
帰るやいなや、栄三郎も手伝って、ふたりの男がてんてこまいを演じたのち、ようように小豆も煮えて、どうやら赤の御飯らしいものができあがる。
台所道具から夜具蒲団まで勝手放題に取り散らかした真ん中で、両人さっそく夕餉《ゆうげ》の膳に向かう。
くらい行燈の灯かげ……。
無言のうちに箸をとる。
ふと栄三郎が気がつくと、むこう側の泰軒正座して眼をつぶり、しきりに何かを念じているようす。
ははあ、今宵は心祝いがあるといって小豆めしを炊いた、それを祈っているのであろう――とは思ったが、栄三郎は聞きもしなかったし、泰軒もまた黙ったまますぐ食事にかかった。栄三郎がこの赤の御飯を食べさえすれば、かれが知る識らぬにかかわらず、やがては身ふたつになる、お艶への前祝いと観じて、泰軒はそれでこころから満足しているのだった。
だんまりをつづけて食事がすむ。あと片づけは栄三郎の役目。
泰軒は手枕、ゴロリとそこに横になった。
そして、栄三郎が水口で皿小鉢を洗う音をウツラウツラと聞きながら、ひとり何ごとか思いめぐらしている。
しいんと世間はしずまりかえって夜の呼吸が秘めやかに忍びよってきていた。
蒲生泰軒……。
かれは、かの殺生道中|血筆帳《けっぴつちょう》をふところに北州の旅から帰って、この瓦町の栄三郎方にわらじの紐をとき、そうして血筆帳を示してすべてを物語ったのち、相馬藩月輪一刀流の剣軍が江戸へはいって、いま本所の化物屋敷に根城《ねじろ》を置いているから、近く左膳を頭に彼らの一味が来襲するに相違ないといましめて、いまだに放れ駒のように、恋と義にはさまれて心の拠りどころなく苦しんでいた栄三郎に緊褌《きんこん》一番、一大奮励をうながしたのだった。
と同時に。
敵の眼をくらましてその裏をかく方便として、泰軒が栄三郎にすすめたのが、この、風流べに絵売りの変装であった。
泰軒が味噌をすれば、栄三郎が米をとぐ。栄三郎が水を汲めば泰軒先生が箒を手にする。が、居候《いそうろう》四角な部屋を丸く掃き――掃除というのも名ばかり型ばかりで、男同士の住居は梁山泊《りょうざんぱく》そのままに、寝床は敷きっ放し、手まわりの道具や塵埃は散らかり放題。それで、栄三郎がかつぎ売りに出ている昼のあいだは、泰軒居士は寝てばかりいて、床のなかから豆腐屋を呼んだり金山《きんざん》寺を値切ったり……いまではこの家、瓦町長屋の一名物となっているのだ。
白皙《はくせき》紅顔の美青年栄三郎は、このごろはべに絵売りの扮装《いでたち》も板についてきて、毎日、はでなつくりに木箱を背負っては江戸の町々を徘徊《はいかい》し、乾雲の眼を避けながらその動静を探っている。
「アレ! きれいなべに絵さんだこと!」
はすっぱな下町娘や色気たっぷりの後家《ごけ》などが、ゆきずりに投げてゆくこうした淫《みだ》らがましい言葉、それにさえ慣れて、はじめのような憤りや自嘲を感じなくなった栄三郎であった。
が、しかし!
家にある泰軒先生が一日じゅう蒲団をかぶって奇策練想に余念のないごとく、優《ゆう》にやさしいべに絵売り栄三郎の胸中にも最近闘気|勃然《ぼつぜん》としてようやくおさえがたきものが鬱積していた。
背にした箱の脇差坤竜!
それはやがて乾雲をひきつけるよすがである。
――こうして泰軒先生と栄三郎との奇妙な生活のうえに、こともなく日が重なって来たのだったが!
それが今朝!
日本橋銀町伊兵衛棟梁の家の前で、お艶はべに絵売りの栄三郎を見かけた……けれど、栄三郎は気がつかずに通り過ぎてしまった。
風流べに絵売りの栄三郎と、芸者夢八のお艶と――そのたがいに変わった姿に泣いたのは、だからお艶だけだったのである。
いま……真夜中近い亥《い》の刻。
突如ムックリ起きあがった泰軒、何を思い出したか、
「栄三郎どの、だまってついて来なさい」
とひとりサッサとはやもう戸口におり立っていた。
すっかり浪人風に返った栄三郎、武蔵太郎安国《むさしたろうやすくに》と坤竜丸をぶっちがえて、泰軒とともに露地を立ち出でた時、中空に月は高く、そして地には、かれのあとから、またもや大小ふたつの影が動くともなくつけていた。
「ね、伊織さん、殺《ば》らしちゃいけねえんですね?」
小の影――山椒の豆太郎、チョコチョコ走りに追いつきながら、こう声を忍ばせた。
人通りのない、両国広小路である。
月のみ白く、町は紺いろに眠っていた。
その、小石さえ数えられる明るい往来《みち》のむこうに、細長い影を斜めに倒して、泰軒と栄三郎の並んでゆくのが、小さく、だがハッキリと見える。
そのうしろ姿から眼を離さず小野塚伊織の弥生、同伴の豆太郎を顧みて答えるのだった。
「うむ! 殺すはもとより、どちらにも怪我があってはならぬ。そちのその手裏剣をもって、ほどよくおどかしてくれればよいのじゃ」
豆太郎は、グルリと帯のあいだにさしつらねた十幾つの短剣をなでながら、にやりと笑った。月光がその顔にゆがむ。
「むずかしい御注文ですね。いっそひと思いにやっちまえというんなら骨は折れませんが、傷をつけねえようにおどかせなんて、こいつア少々……」
「そこが豆太郎の手腕ではないか」
いいながらも弥生は、前をゆく二人をみつめているので、そばの豆太郎が、これはいささか曰《いわ》くがありそうだわい! というように狡《こす》そうに首をかしげたのに気がつかなかった。
米沢町《よねざわちょう》から薬研堀《やげんぼり》へと、先なる両人は肩を並べて歩いてゆく。
月しろと夜露。
あとの、豆太郎と弥生のふたりも、戸をおろした町家の軒下づたいに、見えがくれにつけていくのだが、深夜の無人にすっかり安堵してか、泰軒も栄三郎も一度も振り返らないで、忍びとはいえ、半ば公然なのんきな尾行。
もう四つ半をまわったろう。中央に冴え返る月が、こころもち東へ傾いて、遠街を流す按摩の笛が細く尾を引いて消える。
脚が短いので、ともすれば遅れがちの豆太郎、ベタベタと草履を鳴らして弥生の横へ出た。
「どこイ行くんでげしょう、あいつら?」
「まあ――どうも方角が辰巳《たつみ》だな」
「たつみ? フウッ、乙ですね」
「そうかナ。方角が辰巳だと乙ということになるかな」
「しらばくれちゃアいけませんぜ。失礼ながら殿様なんざア男でせえふるいつきてえぐらいいいごようすだ。ねえ、女の子がうっちゃっちゃアおかねえや。さだめし罪なおはなしがたくさんごわしょう。だんまりで夜道を徒歩《ひろ》うてえなア気がきかねえ。一つ、色|懺悔《ざんげ》をなさいまし、色懺悔を……豆太郎、謹んでお聞きしますよ、エヘヘヘヘ」
「たわけ! 黙って歩け!」
「へ? するてえとなんですかい、それほどの男ぶりでまだ女を――てエのは、ハテ! 変だな!」
「ナ、何がへんだ?」
弥生の声には、早くも警戒の気が動いている。豆太郎は笑いほごした。
「いえ
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