つめながら、思うのだった。
 ――芸者になった……のか!
 これもよくよく考えあぐみ、身の振り方を思案しぬいたすえであろうが、芸者に! とはまた思いきったものだ。
 それも、源十郎の爪牙から自らを守るため。
 ひとつにはいっそう栄三郎をあきれさせ、あきらめさせるあいそづかしの策であろう――ウウム、いっそおもしろかろう! が、ただ……。
 つとお艶は顔を上げた。
 明眸《めいぼう》が露に濡れている。
「先生! つ、艶は、こんな風態《なり》[#「風態《なり》」は底本では「風|態《なり》」]になりましてございます。お恥ずかしい――」
「いや! はずるどころか、美しくて結構じゃ、うう、これは皮肉ではない。今も、しん[#「しん」に傍点]からそう思って見惚れていた、ハハハハ」
「お口のわるい……」
「しかしナ、どこで何をしようと、あんたは栄三郎どのの妻じゃ。それを忘れんように、栄三郎殿になり代わって泰軒がこのとおり頼みますぞ。稼業とはいえ、万一おかしなことでもあったら、仮りに栄三郎殿が許しても、この泰軒が承知せんからそのつもりでいてもらいたい」
「アレ先生、そんなことは、おっしゃるまでもなく艶は心得ております」
「それさえわかっておれば、わしも何も言うことはないが――」
 と急に声を低めた泰軒、
「お艶どの、何か言伝《ことづけ》はないかナ?」
「はい」
 お艶はもう哭《な》きくずれんばかり……。
「アノ、わたくしはいつまでも辛抱いたしますゆえ、どうぞ栄三郎様のほうを――」
「はははははは、お艶どの、このわしを泣かしてくれるな、はははは」
 泰軒は、むりに笑って顔をそむけた。
 その耳へ、何ごとかを訴えるがごときお艶のつぶやきが、低く断続して聞こえてくる。
 意味の聴きとれない泰軒、腰をかがめてお艶に顔をよせ、しばらくは、なにかしきりにうなずきながら聞いていたが、
 やがて、鬚だらけの顔がにっこりしたかと思うと、泰軒先生、喜色満面のていでそりかえった。
「うむ! そうか、そうか。やアめでたい! そりゃア何より……ワッハッハッハ! 早う栄三郎どのにしらせてやりたいが、今はそうもなるまい。しかし、でかしたぞ、お艶どの! あっぱれ、あっぱれ」
 そして、なぜか火のようにあかくなっているお艶をのぞきこんで、泰軒先生ひとりで大はしゃぎだ。
「男か女か」
「まあ先生、そんなことが――」
 お艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
 真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
 この享保《きょうほう》の初年に。
 筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
 同時に、金泥《きんでい》を置き墨のうえに膠《にかわ》を塗って光沢を出したものを漆絵《うるしえ》と呼び、べに絵とともに愛玩されたが、明和二年にいたって、江戸の版木師《はんぎし》金六という者、唐《から》の色刷りを模して版木に見当をつけることを工夫し、はじめて四度刷り五度ずりの彩色版画を作ったところが、時人こぞって賞讃し、その美なること錦に似ているというのでここに錦絵の名を負わすようになった――本朝版画のすすんだ道とにしき絵の濫觴《らんしょう》だが、これは後のこと。
 享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工|奥村政信《おくむらまさのぶ》。
 で、いま。
 その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
 あたまは野郎《やろう》頭。
 京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した留袖《とめそで》。
 それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
 風流|紅彩色《べにいろ》姿絵と横に大書した木箱を背負い、箱のうしろに商売物の絵をつるし、手に持った棒にもべに絵がたくさんさがっている。
 そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、庇《ひさし》まで備わり、三浦と染め出した暖簾《のれん》、横手の壁には吉原と書いた青楼《おちゃや》の雛形《ひながた》に載せてかついでいようという、いかにも女之助と呼びたい、みずからそのべに絵中の一人物――。
 後年はおもに女形の卵子や、芳町《よしちょう》辺で妙な稼業をしたものの一手の商売ときまり、またその時分すでにそうした気風も幾分かきざしていたけれど、それでも享保時代にはまだ、副業の男娼よりは、べに絵売りはただ新しく世に出て珍しい彩色絵《いろえ》を売り歩く単なる絵の行商人にすぎなかった。
 とはいっても。
 どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
 それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の優男《やさおとこ》が、風流紅彩色姿絵《ふうりゅうべにいろすがたえ》そのままの衣裳を凝《こ》らして、ぞろりぞろりと町を練り歩いたもので、決して五尺の男子が、自らいさぎよしとする職業ではなかった。
 世は泰平に倦《う》み、人は安逸に眠って、さてこそこんな男おんなみたいな商売もあらわれたわけだろうが、この風流べに絵売り、そのころボツボツ出はじめた当座で、だいぶんそこここの往来で見かけるのだった……。
 雨あがりの朝。
 外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす靄《もや》のようによどむ町々を罩《こ》めていた。
 お江戸の空は紺碧《こんぺき》だった。
 一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の普化僧《ふけそう》がぬかるみをまたいで来ると、槍をかついだ奴《やっこ》がむこうを横ぎる。町家では丁稚《でっち》が土間を掃《は》いていたり、娘が井戸水を汲んでいるのが見えたり、はたきの音、味噌汁の香――。
 親しい心のわく朝の街である。
 途中何やかやと話し合いながら呉服橋《ごふくばし》から蔵屋敷《くらやしき》を通って日本橋へ出た泰軒とお艶。
 こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
 その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには他《よそ》ながら栄三郎どのに会う機《おり》もあるであろうから、気を大きく持って……お! それから、何よりも身体を大切に、あんたひとりの身体ではないで、むりをせんようにナ」
 と、じぶんの言うことだけいったかと思うと飄々然《ひょうひょうぜん》、一升徳利とともに橋を渡って通行人のあいだに消えてしまった。
 まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて茅場町《かやばちょう》からこんにゃく島、一の橋をわたって伊兵衛の家へといそいで来た。
 いまは、侠《いき》なつくりの夢八姐さん。
 お座敷帰りとも見える姿で、ちょうど忌中《きちゅう》の札をかけて大混雑中の棟梁方の格子戸をくぐろうとした時だ。
 ちらとかなたの町を見やったお艶片足を土間に思わずハッといすくんだのだった。
 べに絵売りの若い男がひとり、朝風に絵紙をはためかして歩いてゆく……江戸街上なごやかな風景。

  影芝居《かげしばい》

「栄三郎どのか、ちょうどよいところへ戻られたナ。あがらんうちに、その足で小豆《あずき》をすこし買《こ》うて来てもらいたい」
 野太い泰軒の声が、まっくらな家の奥からぶつけるようにひびいてくる。
「あずき……」
 と思わずきき返して、いま帰って来た栄三郎は、背にした荷を敷居ぎわにおろした。
 浮き世のうら――とでもいいたい瓦町の露地裏、諏訪《すわ》栄三郎が佗び住居。
 お艶《つや》と泰軒が大岡様のもとにかち[#「かち」に傍点]合って、そして日本橋で別れた、その日の夕刻である。
 今夜もまた灯油《あぶら》が切れたのか、もうすっかり暗くなっているのにまだ灯もつけずに、泰軒は例によって万年床から頭だけもたげているものとみえて、何だか低いところから声がしている。
 ……小豆をすこし買ってこいというのだ。栄三郎は、手探りでべに絵の木箱をおろすと、もう一度のぞきこんでたずねてみた。
「小豆を――? もとめて参るはいとやすいが、なんのための小豆でござる?」
 すると泰軒、暗いなかでクックッ笑い出した。
「アハハハ、知れたこと、赤飯をたくのだ」
「赤飯を? 何をまた思い出されて……しかし、蒸籠《せいろう》もなく、赤飯はむりでござろう?」
「なに、赤飯と申したところで強飯《こわめし》ではない。ただの赤いめしじゃ。小豆を入れてナ」
「ほう!」
 と軽く驚いた土間の栄三郎と家の中の泰軒とのあいだに、闇黒《やみ》を通して問答がつづいてゆく。
「ホホウ! 泰軒どのが小豆飯を御所望とは、何かお心祝いの儀でもござってか――?」
「さればサ、ほんのわし個人の悦びごとを思い出しましてな、あんたとともに赤飯を祝いとうなったのじゃ。お嫌いでなければつきあっていただきたい。きょうのべに絵の売上金のなかから小豆少量、奮発《ふんぱつ》めされ! 奮発めされ! わっはっはっは」
「いやどうも、細い儲けを割くのは苦しゅうござるが、ほかならぬ先生の御無心……」
 と栄三郎も、戯談《じょうだん》めかして迷惑らしい口ぶり、
「殊には、先生のお祝い事とあれば拙者にとってもよろこびのはず。承知いたした! 小豆をすこし、栄三郎、今宵は特別をもってりっぱに奢《おご》りましょうぞ」
 笑いながら、風流べに絵売りの扮装《つくり》のまま、栄三郎は小銭の袋を手にしておもての往来へ出ていった……同居している泰軒のために小豆を買いに。
 泰軒のために? ではない。
 今朝ほどお艶から、彼女が、まだ生まれ出ない栄三郎の子を感じていると聞かされた泰軒、こうしてないしょに、ただそれとなく赤の御飯を炊いて栄三郎に前祝いをさせる気なのであろう――。
 ガタピシと溝板を鳴らして、栄三郎の跫音が遠ざかってゆくと、泰軒居士、いたずららしい笑みとともにむっくり起きあがった。
「うむ! とうとう小豆を買いに参ったな。話せばどんなによろこぶかも知れぬが、今はまだ心からお艶どのを憎み恨んでいる最中、そのためかえって苦しみを増すこともあろうから、こりゃやっぱり、黙って、何事も知らせず祝わせてやるとしよう。どりゃ、そうと決まれば、こっちもそろそろ受持ちの飯炊きにとりかかろうかい」
 ひとりごちながら、火打ちを切って手近の行燈に灯を入れる。
 その黄暗い光に、ぼうッと照らし出された裏長屋の男世帯……。
 乱雑、殺風景を通りこして、じっさい世にいうとおりうじくらい生きていそうな無頓着《むとんぢゃく》をきめた散らかし方だ。
 お艶が家を出たあと、栄三郎がひとりで自炊していたところへ、相馬の旅から帰った泰軒がズルズルベッタリにいすわりこんだから、その無茶苦茶な朝夕、まことに思い半ばにすぎようというもの。
 紙屑、ぼろ布、箸茶碗、食べかけの皿などが足の踏み立て場もなく散らかり、摺鉢《すりばち》に箒が立っていたり、小丼《こどんぶり》に肌着がかぶせてあったり、そして、腐《す》えたような塵埃のにおいが柱から畳と部屋じゅうにしみわたって、男ふたりのものぐさいでたらめな生活ぶりをそのままに語っている。
 勝手もとで、不器用な手つきで米をとぎだした泰軒先生、思い出してはしきりに、
「ウム! めでたい! こりゃあめでたいぞ!」
 ひとりでさかんにめでたがりつつ、泰軒、ふとあがり口のべに絵木箱に、眼を留めて、
「オオ! きょうはだいぶ売れたようだな。ありがたい――」
 栄三郎が、小豆を買って来たらしい。露地に、あし音が近づ
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