んで、相馬からの路を擁《よう》して月輪組を斬殺した次第を物語り、忠相は、泰軒の留守にお艶の身柄を出入りの大工棟梁伊兵衛なる者に預け、伊兵衛は又あずけにお艶を深川の置屋まつ川へ自分の娘として一枚証文の芸者に入れたことを泰軒に話しているところだった。
 大岡様へ申しあげる前に伊兵衛は不慮《ふりょ》のやいばにたおれたのに、忠相はいかにしてお艶のその後の消息を詳知《しょうち》しているのか? 泰軒に頼まれた大事な人妻お艶である女ひとりの動き、いわば奉行にとっては瑣事《さじ》とはいえ、かれはお艶を伊兵衛に渡したのちも決しておろそかにはしなかった。
 万事にとどく大岡さま……。
 小者を派してそれとなく伊兵衛方を探らせると、遊んでいては気がめいるから型ばかりに芸者にでも出して月日を早く送らせようとしているという。宴座に侍るだけならそれもよかろう。堅人の伊兵衛のすることだから間違いはあるまいと、忠相は最初から知って見ぬふりをしているのだった。
 いまそのことを泰軒へ伝えている時にこの訴え――。
 黙っていると、かすかに雨の音が聞こえる。
「暁雨《ぎょうう》」
 何か詩の一節を忠相が口ずさみかけた拍子に、パッと敷居に明るい花が咲いたように、お艶がうずくまった。

「お艶どのか」
「お! 泰軒先生もここに!」
 おどろくお艶へ、忠相はしずかに顔を向けて、
「雨らしいの」
 と、淡々として他のことをいう。
「たいへんでございます。伊兵衛さまが追剥《おいはぎ》に殺されましてございます!」
「うむ。いま聞いた」
 泰軒は平然と脇息《きょうそく》にもたれて、
「いつのことかな、それは」
「っい先ほど……」
「場所は?」
「はい。深川の相川町、こちらから参りますと、永代を渡ってすぐの、お船手組お組やしきの裏手、さびしい往来でござりました」
「ふうむ。それで奪《と》られた物は?」
「はい、アノ」と恥ずかしそうなお艶、「わたくしが身を売りましたお金と、それからなんでも出羽様からとかいただいた小判が三十とやら――」
「ほほう!」
 眼をつぶって聞いていた越前守忠相、急に何ごとか思い当たったらしく、呵々《かか》と大笑した。
「出羽殿の金とか? すりゃ極印があるはず。丸にワの字じゃ。すぐ出るわい。たどって元を突きとめればわけなく挙《あ》がるであろう。江戸内外の両替屋に手まわしして触帳《ふれちょう》に記入させておく。よろしい!……つぎに下手人じゃが、これは誰も見た者もないであろうナ?」
「いえ、ところが……」
 お艶はこの大事に、えらいお奉行さまの前をも忘れて、自分ながら驚くほどスラスラと言葉が出るのだった。
「ふむ。ところが……と言うと、何者か眼証人《めしょうにん》でもあると申すか」
「はい、伊兵衛の供《とも》をしておりました新どんが――」
「コレコレ、新どんとは何者だ?」
「新助と申しましてお弟子の大工でございます。その新助さんがいいますには、なんでも相手はお役人だったそうでございますが……」
「何を申す!」
 突然、威儀を正した忠相、いくぶん叱咤《しった》気味で声を励ました。
「上役人とな?」
「はい」
「黙れッ!」
「――――」
「不肖といえどもこの越前が奉行を勤めおるに、その下に、追い落としを働くがごとき不所存者はおらぬぞ! たしかにその者、じぶんは役人であると申したというか?」
「いえ、あの、決して初めからそう申したわけではございませんそうで、どうもお役人らしかったし、あとからその人もそう言ったという新どんのはなしでございます」
「偽役人《にせやくにん》であろう?」
 泰軒がこう横あいから口を出すと、忠相はジロリとそのほうを見やって、
「これは、貴公にも似合わぬ。最初からおれは上役人だが……と自ら名乗ってこそ故意に役人をかたったものとりっぱに言い得るが、今も聞いたとおり、初手《しょて》は黙っておったとすれば――? 越州察するところ、こりゃ単に役人にまぎらわしき風体のものであろう。ううむ、覆面でもとれるか、不覚に顔を照らし見られでもして、幸いおのれが平常より役人に似ておることを心得ているゆえ、また伊兵衛とその新助とやらが確かに役人と思いこみおるようすに、その場にいたってにわかに役人風を吹かせたものに相違あるまい」
「あッ!」かえってお艶のほうが大岡様から知らされるくらいで、
「おっしゃるとおりでございます。申し忘れましたが、初めは覆面をしておりましたそうで、それが抜け落ちて顔を見ますと、どうやらお役人……」
「そうであろう。曲者は、覆面で足りれば役人顔はしとうなかったのじゃ。それが、顔を見られて役人とふまれたればこそ、自ら役人に似ておることを利用したのであろうと思われる。フウム、いよいよ常から役人らしき風俗をいたしておるものの所業ときまった! めあては金子! ははあ、一見役人とまがうこしらえの者が金につまっての斬り奪《と》り沙汰――誰じゃナ? 蒲生心当りはないか」
 泰軒を顧みた忠相の眼《まな》じりに、こまかい皺がにこやかにきざまれている。
「役人……と申すと、与力か」
「さよう。八丁堀、加役のたぐいであることは言うまでもあるまい」
「役人に似た侍が追いおとし――コウッと、待てよ……」
 首をひねった泰軒、即座に思い起こしたのは去秋お蔵前正覚寺門まえにおける白昼の出来ごと!
「おお! アレか!」
 と口を開こうとした泰軒、忠相、急遽手を上げて制した。
「名は言うな! 先方も直参《じきさん》の士、確たる実証の挙がるまでは、姓名を出すのも気の毒じゃ、万事、貴様とわしの胸に、な、わかっておる、わかっておる!」
 狐につままれたようにお艶がキョトンとしていると、忠相と泰軒、やにわに大声を合わせて笑い出したのだった。
 春とは言え。
 まだ膚《はだ》さむい早朝……。
 雨後の庭木に露の玉が旭《あさひ》に光って、さわやかな宙空に、しんしんと伸びる草の香が流れていた。
 ぼちゃりと池に水音がはねると、緋鯉《ひごい》の尾が躍って見えた。雨戸を繰《く》らないお屋敷のまわり縁に夜の名残りがたゆたって、むこうの石燈籠《いしどうろう》のあいだを、両手をうしろにまわし庭下駄を召して、煙のようにすがすがしいうす紫の明気をふかく呑吐《どんと》しながら、いったり来たりしている忠相のすがたを小さく浮かび出している。
 日例のあさの散策。
 遠くの巷は、まず騒音に眼ざめかけていた。
 射るような太陽の光線が早くも屋根のてっぺんを赤く染めはじめて、むら雀の鳴く声がもう耳にいっぱいだ。
 が、忠相は、朝日や雀とともにこの新しい一日をよろこび迎えるには、あまりに暗いこころに沈んでいるのだ。
 大工伊兵衛の横死――。
 それがかれの脳裡《のうり》を去らない。
 一町人が邪剣を浴びて凶死《きょうし》した……それだけのことではすまされないものが、なんとなく奉行忠相の胸にこびりついて離れないのである。
 ――おそかった。
 ――手ぬかりだった。
 忠相はこうしみじみと思う。
 いずれはかかることをしでかすやつとにらんで、とうからそれとなく見張っておったに……早く手配《てくばり》をして引っくくってしまわなかったのが、返すがえすもわしの落ち度であった。
 申しわけない!
 さまざまのよからぬ風情《ふうじょう》も聞き、家事不取締りの条も数々あって、それらをもってしても容易におさえることはできたのに!
 事実、博奕《ばくち》の罪科のみでも彼奴《きゃつ》をひったて得たではないか。
 それなのに自分は――まだまだ、もう少し現に先方から法に触れてくるまで……手をこまぬいて待っているうちに、暴状ついに無辜《むこ》の行人におよんで、あったら好爺を刀下の鬼と化さしてしまった。伊兵衛にすまぬ!
 この忠相が、手を下さずして殺したようなものとも、いえばいえようも知れぬ。
 アアア、手おちであった……とおのれを責めるにやぶさかならぬ忠相が、ひとり心の隅々を厳正のひかりに照査して、すこしなりとも陰影を投げるわだかまりに対しては、どこまでも自らを叱って法道のまえに頭を垂れ、悔いおののいていると、
 この、粛然《しゅくぜん》襟を正すべき名奉行の貴い悶《もだ》えもしらずに、忠相の足もとに嬉々《きき》としてたわむれる愛犬の黒犬。
「黒か、わしは馬鹿じゃったよ。大馬鹿じゃったよ。おかげで人ひとり刀の錆《さび》にして果てた。なア、そうではないか」
 黒は、喜ばしげに振り仰いで……ワン!
「おお、そちもそう思うか」
 わん! ウアン、ウウウわん!
「はははは、おれをののしるか? うん、もっともっと罵倒するがよい!――奉行いたずらに賢人ぶるにおいては……ううむ! いや、たしかにわしの過失であった」
 と忠相は、ただ一工人の死がそれほど心を悩まし、さかのぼってまで彼の責任をたたかずにはおかないのか――? 傍で見る眼もいたいたしいほど苦しんでいるのだ。
 ほとんど瑕《きず》とはいえないほどの微小な瑕ですらも、それがおのれのうちにあるごとく感じられる以上、どこまでも自己を追究して、打ち返し築きなおさずにはいられない大岡忠相であった。
 いささかも自分と、じぶんの職責をゆるがせにできない冷刃のような判別、それをいま忠相はわれとわが身に加えているのだった。
 市井匹夫《しせいひっぷ》のいのちにかくまでも思いわずらう名奉行の誠心……これこそは人間至美のこころのすがたであると言わねばなるまい。
 忠相の忠相、越前の越前たるゆえん、またこれをおいて他になかった。
「これヨ黒! 貴様に弁当を分けてやりおった伊兵衛の仇は、この忠相には、すでに鏡にかけて見るがごとく知れておる。安堵せい。近く白洲に捕縄をまわして見せるが、まず、丸にワの字の極印つき小判が出るまでは当分|沈伏《ちんぷく》沈伏……すべては、その出羽の小判が口をきくであろうからのう――」
 と忠相、いま黒犬が走り去ったのも気がつかず、しきりに話しかけているが、何におびえてか黒は、池のかなたの植えこみに駈け入って、火のつくように吠え立てる声。
 洗面のしたくでもできてお迎えに来たらしく、はるか庭のむこうを若い侍女が近づいてくるのが見える。
 忠相は、侍女の足労をはぶくために、もうさっさとこっちから歩き出していた。

「あの、先生……」
 朝日の影が障子に躍りはじめると同時に、いま、大岡様のお座敷を出て来たお艶、泰軒のうしろについて、二人がお庭の池に沿うて植えこみの細道に来た時、こうためらいがちに声をかけたのだった。
 例によって貧乏徳利《びんぼうどくり》を片手に、泰軒は歩調をゆるめて振りかえる。
 お艶は立ちどまった。
「先生!」
「なんじゃな?」
答えながら、かぐわしい朝の日光のなかに初めて、お艶のすがたを見た泰軒居士、一歩さがってその全身を見あげ見おろし、今さらのように驚いている。
 そこに、泰軒の眼に映っているのは、あさくさ瓦町の陋屋《ろうおく》にぐるぐる巻きでつっかぶっていたお艶ではなく江戸でも粋と意気の本場、辰巳の里は櫓下の夢八姐さん……夜の室内で見た時よりは一段と立ちまさって、すっきりした項《うなじ》から肩の線、白い顔にパッチリと整った眼鼻立ち、なるほど、よく見ればお艶には相違ないが、髪かたちから化粧、衣装着つけや身のこなしまで、彼女はもう五分の隙もない深川羽織衆になりすまして、これでは、識《し》った者で往来ですれ違ってもとても気がつくまいと思われるほど。
 夜来のおどろきと気づかいに疲れたのか――後《おく》れ毛が二、三本、ほの蒼い頬に垂れかかって、紅の褪《あ》せたくちびるも、後朝《きぬぎぬ》のわかれを思わせてなまめかしい。
 大きな眼が、泰軒の凝視を受けて遣り場もなく、こころもちうるんでいた。
 一雨ごとのあたたかさ。
 その雨後のしずくに耐え得で悩む木蘭《もくらん》の花。
 そういった可憐なものが、物思わしげに淋しい、なよなよと立つお艶のもの腰に、蔦《つた》かずらのようにまつわりついている。
 この嬌美《きょうび》にうたれた泰軒、何か珍奇なものを眺めるように、こと改めてしげしげと見
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