びる》をふるわせて、しきりに何かを刀断するような手真似をするのを、まつ川の家人とお艶が、左右からおさえてききただすとー
 ただ一言!
「棟梁が……棟梁が、そこの横町で殺《や》られたあッ――!」
 それなり新助、ベッタリとまつ川の格子ぐちに崩れて、自分が殺《や》られたようにへなへなになってしまった。
 この死人のような新助をうながして先に立て、お艶の夢八とまつ川の男衆とが宙を飛んで現場へ駈けつける。
 と!
 銀町の大工の棟梁伊兵衛、暗い路の片側に仰向けに倒れて、足を溝へおとしたまま、手に小砂利をつかんで悶絶《もんぜつ》していた。
 場所は、永代橋へ出ようとする深川相川町のうら、お船手組屋敷の横で、昼でも小暗《おぐら》い通行人のまばらなところ。
 傷は一太刀。
 ひだり肩口から乳下へかけてザックリ……下手人はよほど一流に達した武士であることに疑いを入れない。
 やがて仄《ほの》かに白《しら》もうとする寒天のもとに、お艶をはじめ一同は、変わり果てた伊兵衛の屍《むくろ》を路上にかこんで声もなく、なすところを知らなかった――。
 つい先ほど。
「じゃアお艶さん、こんどあっしアお客で来るぜ。ちったあ線香を助けさせてもらおう。ははははは、ま、ごめんなさいよ」
 と、例の渋《しぶ》い声で元気に笑いながら、新助と並んで帰っていった伊兵衛棟梁。
 あの声音がまだ耳の底に残っているのに、今はもうこんな姿になって!……とお艶、この驚愕の真っただなかにあって、うつし世のはかなさといったようなものがしみじみと胸を侵すのだった。
 紛失物《なくなりもの》は? と男衆のひとりが死骸のふところを探ると、案の定、財布がない!
 古渡唐桟《こわたりとうざん》の大財布に、出羽様のお作料の三十両とお艶の身売り金を預かったのとをいっしょに入れて、ズッシリと紐で首からさげていた、その財布が盗まれているのだ。
 人に意趣遺恨《いしゅいこん》をふくまれて暗討ちにあうような伊兵衛棟梁ではなし、これで最初の刹那からみなが考えていたように物盗《ものと》り、金が目当ての兇行ときまった。
 丸にワの字の極印を打った松平出羽守様お払下げの小判三十枚と、お艶がまつ川の夢八と身をおとしたその代とがない!
 兇刃、伊兵衛と知ってか識らずにか、または、かれが暗夜大金を所持して帰路についたことを見定めてのうえか否か――?
 ようよう人心地ついた新助が、わななく口で話すところはこうだ。
「棟梁といっしょに、わたしがまつ川さんで借りた提灯で足もとを照らしながらここまで来るてえと、そこの塀にくっついていたお侍さんがヌウッと出て来て、待てッ! と言いました。灯りで見ると、黒の覆面をして刀の柄に手をかけています。背の高い着流しの方でした。棟梁はああいう人ですから、黙って立ちどまりましたが、あっしが胆をつぶして逃げ出そうとしますと、その侍がヤッ! と叫んで刀を抜こうとする拍子《ひょうし》に、はずみで覆面がぬげ落ちました。はッとして私も顔を見ましたが、暗いのでかおだちはわかりません。が、うす鬢《びん》の小髷《こまげ》、八丁堀のお役人ふうでしたから、あっしが棟梁、お役人といいますと、棟梁はピタリと大地に手を突きました。するとお役人は棟梁の懐中物をしらべて、夜中大金を持ち歩くとは不審だ、明日まで預かっておくから朝奉行所へ出頭しろと、名も役目も言わずにそのまま財布を持って立ち去りそうにしますので、私と棟梁が泥棒《どろぼう》ッ! と大声をあげて騒ぎ立てたとたんに、私は、そのお役人がピカリと引っこ抜いたのを見ました。で、わアッ! と駈け出したとき、うしろに棟梁の魂切る声を聞きましたが、あとは夢中に転がりながら、まつ川さんへ戻ってたたき起こしたんで――」
 新助のいうところはこれだけだ。
 なるほど、持って出た提灯が、なかば焼け、土にまみれ落ちている。
 しかし、近くのどこを捜しても、ぬげた覆面はもとより、何ひとつ手懸りらしいものはみつからなかった。
 上《かみ》役人の斬り奪《と》り強盗……波紋はこれから大きくなっていく。
 新助が走って、日本橋銀町へ知らせると、帰りを案じていた伊兵衛《いへえ》の女房が若い者をつれて駈けつけてくる。
 自身番《じしんばん》から人が来て、ひとまず死骸を引き取っていったあと。
 未明……の雨。
 お艶はその足ですぐ、まつ川の男衆とともに辻駕籠をやとって、外桜田の大岡越前守お屋敷へ、おねむりを妨げるのもかまわずに訴え出た。
 あかつきかけて降りだした時節はずれの寒《さむ》しぐれ――さんざめかして駕籠の屋根を打つその音を、お艶はこの日ごろ耳にする色まちの絃歌、さんざ時雨と聞いてぼんやりしたこころにいっそうの哀愁と痛苦をつのらせるのだった。
 大岡様へ急の御用!――とあって女の身ながらも木戸木戸を許されたお艶、数丁さきで駕籠を捨てて、あとは裾をはさんで裸足になり、湿った土を踏んで、バタバタバタとあわただしくお裏門へかかると、
「この夜ふけに何者だ? なんの用で参った?……おお! 見れば若い女のようだが」
 御門番の士がのぞいてみて不審がお。
「はい。実はいそぎを要しまして、駈込みのおうったえでございます」
 狼狽したお艶が、こう懸命に声を張りあげると、門内の士はいっそう威猛高に、
「黙れ、だまれッ! 駈込みの訴えならば、夜が明けてから御奉行所へ参れッ、南のお役所を存じておろう、数寄屋橋《すきやばし》の袂だ」
 と、今にも、ピシャリ、潜門《くぐり》に小さく開いているのぞき窓をしめてしまいそうな形勢だから、お艶はもう泣かんばかり――。
 番士のほうにも理屈はある。
 強訴《ごうそ》……いわゆる駈込みうったえというのは。
 南町奉行所の前へ行くと、腰かけが並んで願い人相手方というのがズラリ並んでいるが、そのむこうに見えるお呼び出し門、これが開いたとみるや、ドンドン素足でとびこんでゆく。すると門番がいて、差し越し願いは取り上げにならん、帰れといって突き放す。そこをもう一度走りこむ。そうすると今度は、訴え事があるならば差添《さしそ》い同道、書面をもって願い立てろと門番がどなって、二度目に手あらくどんと門外へつき出すのだがそれを押しきり、三度目に御門内にとびこんで、わたくしはこの御門を出るとすぐに殺されてしまいますと大声をあげると、人命に関するとあってはお上でも容易ならずと見て、はじめてここにお取上げになり、荒筵《あらむしろ》のうえに坐らせられて、八丁堀同心見習の若侍が握り飯二つに梅干を添えてお手当として持ってくる。これをすぐさまむさぼるように食べて、大事の訴えに朝飯を食わずに来たという非常ぶりを見せなければならない。そのようすを当番の与力が訴え所の障子を細目に開けて見ていて、これはいかさまよほど重大な願いごとがあるのだろうと、そのおもむきをお奉行さまへ上申して第一の御前調べにひき出される……これが、当時公事の通《つう》とも言われるものは必ず一とおり心得ていた駈込み訴えの順序とコツ。
 言うまでもなく、これはすべて、お役所での法外の法なのだが――。
 が、しかるに今。
 お艶は、お役宅の門をたたいて駈込みの訴えだといったから、相手はここいらにふさわしからぬなまめかしい女のことだし、門番も、奇異の感とともに面倒に思って、雨中ではあり、さっさとひっこんでしまいそうにするので、
「アノ、ちょっと殿様の御存じの者でございますが……」
 お艶が言いかけるが、
「ナニ? 御前がお前|見識《みし》りごしだというのか」
「いえ。わたくしではございません。お出入りの大工|伊兵衛《いへえ》と申すものが八丁堀お役人ていの追剥《おいは》ぎに斬り殺されまして――」
「ナ、なに? あの伊兵衛が……?」
 とびっくりした御番士、伊兵衛ならば自分もよく知っているから、まだ夜中ではあるが、取り急ぎその旨をおつぎの間にひかえた御用人伊吹大作を通して申しあげると、
 オ、あの老人の大工が? それは! とこれも驚いた大作、かみにはおやすみではあろうが、ひとまずごようすをうかがって、もしお眼覚めならば御聴聞《ごちょうもん》に達しようと、境の襖をそろそろと開けてみてそしてギョッ! としたのだった。
 御就寝《おやすみ》とのみ思っていた越前守忠相、きちんと端座して蒔絵《まきえ》の火鉢に手をかざし、しかもそれをへだてて、ひとりの長髪異風な男が傲然《ごうぜん》と大あぐらをかいているではないか。
 仰天した伊吹大作、宿直《とのい》の際は万一の用に、常に身近に引きつけておく手槍を取るより早く、
「おのれッ! 無礼者ッ!」
 閃光、男の胸部を狙ってツツウ! と走った。

  風流《ふうりゅう》べに絵《え》売《う》り

 突如くり出された槍さきを、グッと胸もとに押し流した奇傑泰軒。
「わッはっはっは、夜中忍んで参ること数十回、いままで誰にもみつからなかったが、今夜こそは見事に現場をおさえられたぞ。アッハッハ」
 と、同時に、あっけにとられた大作に、忠相の声が正面からぶつかっていた。
「控えろッ大作! これなるは余の親友、名は言われんが大奥|隠密《おんみつ》の要役を承る大切な御仁《ごじん》じゃ! やにわに真槍をもって突きかけなんとする? 引けい!」
 むかし伊勢の山田でも、忠相は泰軒を千代田の密偵に仕立てて手付きの者のまえをつくろったことがあるが、今また、大奥隠密! という忠相とっさの機知に、徳川家を快しとしない武田残党の流士蒲生泰軒、燭台の灯かげにいささかくすぐったそうな顔をなでていると、何も知らない大作は、思わぬ失策にすっかり恐縮し、カラリと槍を捨ててその場に平伏した。
「いえ、ソノ、いつお越しになったかも存ぜず、それに、あまり変わった服装《なり》をしておいででござりますゆえ、つい、失礼ながら怪しきやつと……」
「うむ……なんじの寝ぼけ眼に映じたのであろう?」
 忠相も、笑いをこらえている。
「はッ」
「かわった服装《なり》[#「服装《なり》」は底本では「服|装《なり》」]と申すが、それもお役柄、隠密なればこそじゃ。その方とても時と場合によっては、探索の都合上、ずいぶんと変わった扮装《なり》をいたすのであろうがの」
「はっ。まことにどうも」
「一応声をかけて然るべきに、余と対談中の方へ槍を向けるとは粗忽《そこつ》なやつじゃ」
「なにとぞ平に御容赦……お客さまへも御前からおとりなしのほどを」
「越州《えっしゅう》どの、わかればもうそれでよいではござらぬか。ただ以後はわしの顔を覚えておいて、御門許しを願いたいものじゃて」
 と泰軒は、うまくバツを合わせながらおかしいのをおさえた。
「今後気をつけるがよい」
 ポツリと言った忠相、
「何か用か。聞こう」
「は」と始めてお艶の訴えを思い出した大作、ズズッと膝を進めて、
「御前《ごぜん》、あの伊兵衛めが先刻辻強盗に斬られて落命いたしたげにござります」
「何? 伊兵衛と申すと大工の伊兵衛か――して、いかにしてそう早く其方《そち》の耳に達したのか。訴人が参ったナ?」
「御意《ぎょい》にござりまする」
「女子《おなご》であろう?」
「は、いかにも女子。なれどどうして御前には……」
「越州殿は千里見通しの神眼じゃ。たえずかたわらにあって御存じないとみえるの」
 泰軒が口を挟む。大作はしんから低頭した。
「恐れ入りましてござりまする」
 いたずら気にニッコリした忠相。
「呼べ」
「は?」
「その女子をこれへ呼び入れるがよい」
「ハッ」
 立とうとする大作を、忠相の言葉がとめていた。
「訴えて参った女というのを、わしが一つ当てて見せようか。まず年若、稀《ま》れなる美女、世に申す羽織、深川の芸妓ふうのつくりであろうがな?」
「実はその、手前もまだ引見いたしませぬが、取次ぎの者の口ではどうもそのようで――」
「それに相違ない。連れて参れ」
 いよいよ恐懼《きょうく》した大作が、お艶を呼びに急ぎさがってゆくと、忠相と泰軒、顔を見合ってクスリと笑った。
 泰軒は、血筆帳の旅から帰府してまもなく、今夜また例によって庭からはいりこ
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