にお世辞がよく、たんと御馳走をしてくれたのはいいけれど、そのもてなしの最中に、伯父のやつこんなことを言いやがった――実はナ鈴川、昨年わしの知行が水かぶりで二百石まるつぶれになってしまった。が、まあ、お役料二百俵あるから、それでどうやらこうやら内外の入費をやってのけたけれど、そういう訳でまことに勝手向きが不如意だ。ついてはいつぞや用だてた五十両の金、全額といったら貴公も迷惑だろうから、どうか半金ばかり入れてもらいたい……とこう、真綿で首を締めるように、丁寧に催促されては、そこへこっちから、また二十両拝借ともきりだしかねて、なるほど、それではいずれ近日調達して返済いたします――と、俺は汗をかいてそこそこに逃げ帰って来た。
 ああ先手をうたれてやんわりやられちゃアかなわない。まったく我善坊《がぜんぼう》の伯父御《おじご》と来ちゃア食えない爺いだからなア……。
 と源十郎。
 自分こそ親類じゅうの爪弾《つまはじ》き、大の不実者、人間の屑のように言われているのを棚にあげ――アアこうなることとわかっていたら、ふだんからもうすこし不義理をつつしみ、年始暑寒にも顔を出して、あちこち敷居を低くしておけばよかったと、いま気がついても後のまつり。
 暗剣殺《あんけんさつ》……八方ふさがり。
 しんから途方にくれた鈴川源十郎が、五十両に魂を失って操り人形のように、仙台堀から千鳥橋を渡って永代《えいたい》に近い相川町、お船手組の横丁へでたときだった。
 月のない夜は、うるしのように暗い。
 ふとゆく手にあたって弓張提灯《ゆみはりぢょうちん》――まつ川と小意気な筆あとを灯ににじませて、「オッと! 棟梁《とうりょう》、ここは犬の糞が多うがす」
「なあに大丈夫でえ。踏みアしねえ」
 来かかった町人ていの男ふたり……。
 源十郎、自分で気がつくさきにもう片側の土塀に背をはりつけて、鼠絹長襦袢の袖をピリリと音のしないように破り取るが早いか、すっぽり頭からかぶって即座の覆面……汗ばむ手のひらを衣類にこすり拭《ふ》いてペッ! 大刀の目釘を湿《しめ》していた。

 岡場所《おかばしょ》……といっても。
 江戸の通客粋人が四畳半|裡《り》に浅酌低唱《せんしゃくていしょう》する、ここは辰巳《たつみ》の里。
 ふかがわ。
 柳はくらく花は明るきなかに、仲町《なかちょう》、土橋《どばし》、表やぐらあたりにはかなり大きな楼も軒をならべて、くだっては裏やぐら、すそつぎ、直助など――。
 人も知る、後世|京伝《きょうでん》先生作仕かけ文庫の世界。そこのやぐら下の置屋まつ川というのに。
 さきごろからお目見得に住みこんで来ていた若い美しい女があったが、容貌といい気性といい申し分ないとあって、この四、五日親元代りの大工伊兵衛と話しあいの末、きょうはいよいよ身売りの相談がなりたち、女は夢八と名乗ってまつ川から出ることになり、大工の伊兵衛は、今夜その金を受け取って新助《しんすけ》という若い者とともにさっきかえっていった。
 こうしてやぐら下のまつ川からあらわれた新顔の羽織衆、夢八。
 この夢八こそは、当り矢のお艶、というよりも、諏訪栄三郎の妻お艶が、ふたたび浮き世の浪に押され揉まれて、慣れぬ左褄《ひだりづま》を取る仮りの名であった。
 伊達《だて》の素足に、意地と張りを立て通す深川名物羽織芸者……とはいえ、この境涯へお艶が身を落とすにいたるまでには、じつはつぎのようないきさつがあったのだった。
 それは。
 弥生と乾坤二刀のためにわれとわが恋ふみにじって栄三郎を離れて来たお艶、泰軒に守られて江戸のちまたをさまよい歩いたのち、泰軒は彼女を、もったいなくも大岡越前様に押しつけて、与吉を追って北国の旅へたってしまった。
 そのあとで越前守忠相は。
 正道に与《くみ》する意と畏友《いゆう》泰軒へのよしみとから、かげながら坤竜丸に味方しているとはいえ、そしてこのお艶は、その坤竜の士諏訪栄三郎の妻だとはわかっていても、家中の者の手まえ、不見不識《みずしらず》の若い女性を屋敷にとめておくわけにはゆかない。
 といって、もとより帰る家なきものを追い出し得る忠相ではなかった。ましてや、これは泰軒から預かっている大切な身柄である。で、このうつくしい荷物にはさすがの南のお奉行さまもいろいろに頭をひねったあげくふと思いついたのが、ちょうどそのとき屋敷の手入れに呼ばせてあった出入りの棟梁、日本橋|銀町《しろがねちょう》の大工|伊兵衛《いへえ》のことだった。
 伊兵衛棟梁は、もと南町奉行の御用をつとめたこともあって、手先としても、下素者《げすもの》ながら忠相の信任厚い老人だったが、いまでは十手を返上して、もっぱら本業の大工にかえり、大岡家をはじめ出羽様などに出入りして御作事方《おさくじかた》いっさいをうけたまわっているほど、堅いので聞こえた男なので、彼なら安心して一時お艶を又預けにすることができると考えた忠相が、さっそく自身邸内の普請場へ出向いて伊兵衛をものかげへ呼び、その旨を話して依頼すると。
 ほかならぬお奉行様の命に二つ返辞で引き受けた伊兵衛、ただちにお艶をつれて、銀町の自宅へ戻る。
 はしなくも大岡様をおそば近く拝んだうえ、種々御下問にあずかって、雲と竜ふたつ巴《どもえ》の件、丹下左膳、鈴川源十郎一味の行状なぞ己が知るかぎりお答え申しあげたお艶は、わが一身のことまでお耳に入れて恐懼《きょうく》したまま、かくして伊兵衛とともに御前を退出したのだったが――。
 うちに帰ってよくお艶を見なおした伊兵衛は、その世にも稀《まれ》なる美貌におどろくと同時に、遊んでいても差しつかえないがそれではかえって気がつまるばかり、むしろしばらく芸者にでもなったら憂《う》さ晴らしにいいだろう……と、女房とも談合して、幸いやぐら下のまつ川というのが講中や何かで相識《しりあい》だからお艶さんをこっちの娘分にして当分まつ川へ置いてもらったらどうだろう? 決して枕はかせがないという一枚証文なら、べつに身体に瑕《きず》がつくわけでもなし、おもしろおかしい日がつづいたら本人もさぞ気がまぎれてよかろうではないか――こうお艶にすすめてみると、
 気兼ねのないようにされればされるほど、さきが届けば届くにつけ、いづらいのが他人の家。
 朝ゆう狭い肩身のお艶は、いっそここで思いきって芸者にでも出れば、第一、ひろく人に会い、したがって口も多いから、この日ごろ気になってならぬあの弥生さまの行方にもひょっとしたら手掛かりがあろうも知れぬし、自分をねらう本所の殿様へは何よりの防禦《ぼうぎょ》と面《つら》あて……が、ただ風の便りに栄三郎さまがお聞きなされたらどんなに悲しまれることか!
 けれどそれも、愛想づかしの上《うわ》ぬりとはこのうえもない渡りに舟!
 こうした泣き笑いに似た気もちから、大工伊兵衛を親元として、みずから幾何《そこばく》の金でまつ川へ身を売ってきた夢八のお艶であった。
 そうして今宵――。
 そうして今宵……。
 はじめて櫓《やぐら》下のまつ川から出た羽織芸者の夢八。
 身売りの金は、いずれ足を洗う時の用意にもと固い伊兵衛がそのまま預かって、まつ川と字の入った提灯を借り、弱子の新助を連れて河むこうの銀町へ帰って行ったのは、月のない夜の丑満《うしみつ》すぎてからだった。
 さんざ時雨《しぐれ》のさざめきも夜なかまで。
 夢八のお艶が伊兵衛を送ってまつ川の門ぐちへ出たときは、さしも北里のるい[#「るい」に傍点]を摩《ま》するたつみの不夜城も深い眠りに包まれて、絃歌《げんか》の声もやみ、夜霧とともに暗いしじまがしっとりとあたりをこめていた。
 そとへ出るとすぐ、伊兵衛は夢八を押し戻すようにした。
「いや、お艶さん――、じゃアない、もう夢八姐さんだったね、はははは、ここでたくさん、夜風はぞっとします。風邪《かぜ》を引きこんだりしちゃアいけない。さ、構わずはいっとくんなさい。またね、何かつらいことがあったら遠慮なく言って来なさるがいい。お前さまは大岡様からの大事な預り人で、困って芸者に出る人じゃないから、嫌になったらいつでも廃業《よ》すこった。ここの親方は、さっきの話でも知れるとおり、よっくわかった仁《ひと》だから決してむりなことは言やしないが……マア気のすすまない座敷はドンドン断わって、保養に来たつもりでせいぜいきれいにして遊んでいなせえ。なみの芸者奉公たア違うんだから気を大きく持つんだよ。なアに、クヨクヨするこたアねえやな。またすぐにいい日が廻って来ようってもんだ」
「はい。何からなにまでお世話さまになりまして、お礼の言葉もございません」
「オッと! そんな固ッ苦しいこたアよしにしてもらおう。大岡様の御前様にゃ、わしからよく申しあげておくがね、お艶さん、お前さんなら大丈夫とにらめばこそ、あっしもこんなところへお前さまを預ける気になったんだから、イヤ、そこらに抜かりはあるめえが、世間にア馬鹿が多いからあっしも駄目を押すんだけれど、――いいかね、ひょんな間違いのねえように、これだけはくれぐれも頼みましたよ」
「ハイ。それはもう……」
「そうだろう、そう来《こ》なくちゃアお艶さんじゃアねえ。わしもそれで大きに安心をしました。だがヨ、見れば見るほど美《い》い女ッぷりだ。ア、なんだかまたわしはお前さんを残してゆくのが気になり出した。これでわしももう十年若いとね、およばねえまでも一つ口説《くど》いて見るんだが、ははははは――コラッ! 新公《しんこう》! てめえなんだってそうポカンと口を開けてお艶さんを見ているんだ? ソラ涎《よだれ》が垂れるじゃアねえかッ、この頓痴奇《とんちき》めッ! 汝《うぬ》みてえな野郎がいるから、どこへ行ってもお艶さんが苦労をするんだ。ハハハハハ――お! そりゃそうとお艶さん、この金だがね、こりゃア、言うまでもなくお前さんが身売りした代だからお前さんのものだけれど、縁あってわしが親元となっている以上、一時このままお預りしておきますよ。入要《いりよう》があったらいつでもそう言ってよこしなさい。大岡様のお眼がねに添うあっしだ、ちゃんとこのとおり、出羽様のお下《さ》げ金といっしょに胴巻きへ包んで――」と言うと、そこへ供《とも》の新助が口をはさんで、
「アアそうだ! そういえば、きょうここへまわる前に出羽様へうかがったんでしたね。あそこのお作事でお受け取んなすった小判三十両、あれは御隠居所のお手付けでございますか」
「何を言やがる! こんどの請負は二千三百両。近えうちに前金が千両さがる。それでなけア大工の足留め金を出すことができねえ」
「へえ? 豪勢な御普請ですねえ。じゃアあの三十両がなんのお金で!」
「あれは正月の手間の払い残りがあったのをくだすったんだ。ホラ見ろ、丸にワの字、松平出羽守様の極印《ごくいん》が打ってあらア」
 と、その出羽守様のしるしをうった小判とお艶の身売り金とをいっしょに懐中《ふところ》にして、棟梁伊兵衛はお艶に別れを告げ、新助に提灯を持たせて銀町へ帰っていったのだが。
 しょんぼりと一人、まつ川の戸をくぐって部屋へ通ったお艶。
 変わった姿にともすればもよおす涙が、今夜はひとしお過ぎ来し方ゆく末などへ走って、元相馬藩士和田宗右衛門というれっきとした武士の娘がなんの因果か芸者などに身をおとして! と耐らぬ自嘲の念が沸き起こる一方、考えてみれば、ついこの間まで水茶屋をかせいでいた自分、当り矢のお艶が夢八になったところで大した変りもないではないか。
 ぼうっと眼で追うなつかしい栄三郎さまの面影《おもかげ》。
 そして、鈴川様にいる母さよのこと。
 くずれるように坐ったお艶が、夜さむに気がついて、肩をつぼめながら、もうあの伊兵衛さんと新どんは永代を渡ったころだろう――と思うともなくこころに浮かべていたやさき!
 ドンドンドン! 割れんばかりに表戸をたたいて、
「まつ川さん! お艶さん! タタ大変だアッ! 棟梁が……」
 狂気のような新助の声だ!
 新助は、白痴のように取り乱して口もきけなかった。
 ブルブルと口唇《くち
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