ったばかり、そのまま背後の畳に落ちて刺し立った。
 瞬間、凍ったような静寂《しじま》が室を領した。
 と思うと、おおうッ! と一同恐ろしいおめき声をあげて、めいめい大刀を手に、もうはじかれたように起ちあがっていた。
 そして、
「奇怪! 何奴ッ!」
 と、乾雲の柄をたたいて叱咤《しった》した左膳とともに、皆、庭へ向かっていっせいに身構えをしたが……。
 夜は森沈《しんちん》として闇黒の色を深めてゆくだけで、樹々の影もこんもりと黒く狭霧《さぎり》がおりているのか、あんどんの余映を受けてぼやけた空気が、こめるともなく漂っているきり――いつも見慣れた、なんの変哲もない荒れ庭のけしきだ。
 不審《ふしん》とも、あやしいとも言いようのない寸刻の出来ごと。
 どの方角から短刀が飛んで来たのか……その見わけもつかず、一同、勢いこんだ力のやり場に困って、いささか拍子抜けのまま、なおも、かたなにかけた肘《ひじ》を張りそろえてキッ! と庭面をすかして見ていると、
「いや、おのおの方、お笑い召されることと思って申さなかったが、さっきかしこらと覚《おぼ》しきところに、七つ八つの子供のごとき人影がありましたぞ。それが確かにいま、かの小剣が飛来した時も、ちらと動いたのを拙者は見た……」
 というささやくような土生仙之助の言葉に。
 子供――というのが、場合が場合だけに、深更ひとしおの妖異じみた恐怖を呼んで、化物屋敷の連中われにもなく思わず慄然《ぞっ》と身の毛をよだたせたその刹那であった。
 またもや、ビュウッ!
 と、唸りとともに一隅から風を切って飛び来たった小刀一本、今度は避《さ》けるまもなく右から三人目に庭に面して立っていた山内外記の咽喉笛へ、ガッと骨を削《けず》る音といっしょにくいこんだ。
 ひいいい……ッ! と、気管の破れから、梢を渡る木枯《こがら》しのような息を高々ともらした外記、二、三秒、眼前の虚空《こくう》を掻き抱くがごとく見えたが、瞬時にしてどうッとふき出た血潮の海に、踏みこらえようとあせって足がすべって、腰の一刀を半ば抜いたなり、思いきりよく庭へのめり落ちると、ばあんと鼻ばしらが飛び石を打ってたちまち悶絶。
 これより先。
 やみに浮かぶ離室に氷柱《つらら》の白花一時に咲ききそって、抜き連れた北国剣士のむれ、なだれをうって縁をとびおり、短剣の来た庭隅へ喚声をあげて殺到していた。
 が!
 ここぞと思うあたりへ行ってみると、無!
 湿《しめ》っぽい夜気が重く地を圧しているばかりで、庭のどこにも、さきほど仙之助が見かけたという子供に似た人影なぞはいっさいないのだ。
 はてナ? と抜刀をさげた一同が、きょろきょろあたりを見まわしていると、近くにあたって、
「うふ、ふふふ……」
 と陰にこもる含みわらい。
「おぬし、いま笑ったか」
「いンや。笑ったのは貴公だろう?」
「違う。誰だ、笑ったのは?」
 がやがやと問いあっているところへ!
 二間と離れない草むらから猿のように黒い物がとび出したかと思うと、長い手が一振するが早いか燐光ふたたび流星のごとく閃尾《せんび》を引いて、またしても飛剣、真ッ先に立った夏目久馬の脇腹をえぐって地にのけぞらした。
「ふはははは!」
 笑いを残して、小さな影はすっ飛んでゆく。
「曲者《くせもの》ッ!」
 と面々、それッとばかりに追おうとするや、室内にとどまっていた左膳、源十郎、軍之助の三人が、口ぐちに叫んで皆を呼びあげた。
 そして、何事か――にわかに離庵《はなれ》全体の雨戸をおろさせ、丹下左膳が、最初に飛来して軍之助の酒盃を割った小剣を畳から抜き取るのを見ると、五寸あまりの鋭利な小柄で、手もとに一ぽんの小縒《こよ》りが結びつけてある。
 みなの目が好奇に光るまえで、左膳、紙縒《より》を戻して大声に読みあげた。
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御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的《まと》也。
[#ここで字下げ終わり]
 何者からか殺剣とともに送られた威嚇《いかく》の言!
「フン! きいたふうな真似をしやがる!」
 と吐き出すように苦笑した左膳、不意におちた沈黙の底で、なみいる頭数をかぞえ出したが、いま殺《や》られた二人を加えて月輪組の十七名に、源十郎、与吉で十九、それにじぶんでちょうど二十と最後におのれを指さしたころ。
 猿をつれた猿まわしのような弥生と豆太郎が、遠く鈴川の屋敷をあとに走っていた。
 火事装束一味のまわし者!
 これが、離庵《はなれ》の一同のあたまへ、期せずしてピンと来た考えだった。
 が、それにしてもあの、小児とも野猿ともつかない怪人物の手裏剣|業《わざ》には、さすが独剣至妙の刃鬼丹下左膳の膚にさえ粟《あわ》を生ぜしむるにたるものがあった。
 しかし、世にいう手裏剣《しゅりけん》なる刀技は。
 手裏剣神妙剣などといって、一に本朝剣法の精極手字《せいきょくしゅじ》の則《そく》に出ている。手字《しゅじ》とは、空理《くうり》に敵の太刀や槍の位を見きわめて、その空理に事をかなえて我が道具を持ち、打たねども打つこと、突かねども突くわざ、払わねども払うことを、定住《じょうじゅう》空理に入れて働くをいい、敵の太刀筋の字を空に書く心もちだとある。
 こうなると、この手字の手のうちから出る剣だから手裏剣と称するわけで、いかさま剣道の妙諦《みょうたい》、ひどく禅機を帯びてむずかしくなるしだいだが、手裏剣すなわち神妙剣、あえて特に、長さ三、四寸の小剣を手のうちに返して投げ打つ術をのみ手裏剣と呼ぶのではない。手を放さずに使う太刀や槍も同じ道理で、いくら投剣の術ばかり修練したところで要は手字の空理に即してうちこむにある。しかしてその空理の徳は、人の頭に機を知らしめて逸《いち》早くきざすの一事につきる――と言われているだけあって、これによってもわかるとおりに、手裏剣を投げて人をたおし得るにいたるまでには、単なる小手さきの投術のみではいけない。もとよりその熟達はさることながら、技はいわば下々の下で、体得の域にのぼるためには、空理の理にあって手字の法を覚らねばならぬ。つまり行より心ができて剣意の秘奥《ひおう》にかなわなければ、手裏剣を投じて一家をなすことは不可能なのだ。
 しかるに、ただいまのかの投げ手は……?
 腥風《せいふう》一陣まき起こって、とっさに二つの命の灯を吹き消し去った手練でも知れるように、魔か魑魅《ちみ》か、きゃつよほど、腕と腹ふたつながらに完璧の巧者に相違ない。
 身みずから剣心をこころとする刃怪左膳だけに、かれは相手を測《はか》り知ることもまた早かった。
「世の中は広いものだなあ……ウウム! かかる名人がひそんでいたのか」
 と、今さらながら敵味方を越えて、左膳はしんから微笑みたい気にもなるのだったが! 二度、
[#ここから2字下げ]
御身ら二十名は順次にわが手裏剣の的《まと》也。
[#ここで字下げ終わり]
 という脅迫の文を読み返すと、なんとなく左膳、いずれ近い機会に、おのが左剣とこの手裏剣とちょうちょう火花を散らして相撃つべくさだめられているように思って来て、彼は、ほの暗い行燈のかげに一眼のきらめく顔を、敵意と憎悪に燃えたたして振りあげた。
 この左膳の気を窺知《きち》したものか、何にまれ容易に驚かず、たやすく発動したことのない月輪軍之助、普段のぼうっとした性に似げなく、覚悟に決然と口を結んで左膳を見返す。
 着府と同時に、ほとんど挨拶がわりに左膳から剣渦《けんか》の一伍一什《いちぶしじゅう》を聞かされて、栄三郎方および火事装束と刃を合わす期をたのしみに待っていた月輪門下の同志は、日ならずしてここに早くも怪しき小人のために二友を失い、かすかな不安のうちにも殺気あらたにみなぎるものあって、左膳、源十郎、軍之助の鼎座《ていざ》を中心に、それからただちに深夜の離室に密議の刻が移っていった。
 その結果。
 乾雲を囮《おとり》に坤竜をひきよせるいかなる秘策が生じたことか?……は第二として。
 ここでは、鈴川源十郎である。
 熟議の座にあって、終始黙々と腕をこまぬいていたかれ源十郎は、はたして外見どおりに自余の者とともに乾坤一致の計に脳髄を絞っていたであろうか――というに。
 大いに然らず!
 いまの先、お艶の儀はキッパリと相忘れ申した! などとりっぱな口をたたいたその舌の根も乾かぬうちに、もう彼の全部を支配しているのは、かつて心を離れたことのないわだかまり、あの、過日おさよに約束したまままだ渡してない五十両……お艶を栄三郎から奪うための手切れ金の才覚だった。
 で、しばらくは交際に、神妙に首をひねると見せかけていた源十郎が、今宵の手裏剣にちと心当りがござるから――とうまいことを言って、とめるのもきかずに化物屋敷の自宅を出てゆくと、あとには離室の一同、寒燈《かんとう》のもとになおも議を凝《こ》らしていたが、ただひとり暗い夜道を思案にくれてあてどもなく辿る源十郎の肩には、三|更《こう》の露のほかに苦しい金策の荷が、背も折れんばかりに重かったのだった。
 その夜の闇黒は、源十郎のこころだった。
 真っ黒に塗りつぶされたような入江町の往来を、ふところ手に雪駄《せった》履きの源十郎が、形だけは八丁堀めかして、屈託げに顎をうずめてブラリ、ブラリ――さて、こうして人中を逃れて考えをまとめるつもりで出は出てきたものの、この夜更けにどこへいこうの当てがあってのことでもなければ、また何人のところへ持ちこんだところで、もう源十郎にはオイソレと金のはなしに乗ってくれるものもないのだった。
 で、思案投げ首。
 五十両……五十両と心中にうめきながら、河岸《かし》にそって歩いてゆくと、時の鐘楼が夜ぞらに浮かんで、南割下水の津軽越中様お上屋敷の森がひとしお黒ぐろと押し黙って見える。
 どこからか梅の香が漂ってきている。
 早春の夜のそぞろ歩き。
 とは言うものの、五百石旗本の身で五十両の金子《きんす》につまっている源十郎としては、風流心どころかいっさい夢中、とやこうと思い悩みながら、やみくもに歩をひろっているのだった。
 花町の角を曲がって、竪川にかかる三つ目の橋。
 それを渡って徳右衛門町から五間堀へと、糸に引かれるようにフラフラと深川の地へはいっていった。
 抜けるように白いお艶の顔と、山吹いろの小判とがかわるがわる幻《まぼろし》のように眼前にちらつく。
 おさよ婆を死んだ母御にそっくりだなどと敬《うやま》っておくのも、源十郎としては、いわば将を射る先にまず馬を射る戦法――やっとのことでそのおさよを手に入れ、ここに五十両の金さえあれば、それを縁切りにおさよを通しておおぴらに栄三郎からお艶を申し受けることができるところまで漕《こ》ぎつけながら、こうしてその金員の調達にはたと差《さ》しつかえているとは、宝の山に入りつつ手を空しゅうするようなものと、源十郎、思えば思うほどわれながらふがいなく、身内の焼けるような焦燥《しょうそう》の念に駆られざるを得なかった。
 左膳の刀争いなぞ、もはや彼の思慮のいずくにもない。
 あるのはただ、金のみ、五十両! 五十……。
 五百石取り天下のお旗本に、たったそれだけの工面がつかぬというのはまことに不思議なようだが、つねから放蕩無頼《ほうとうぶらい》、知行はすべて前納でとっくにとってしまい、おまけに博奕《わるさ》が嵩《こう》じて八方借金だらけ――見るに手も足も出ない鈴川源十郎着流しに銀拵えの大小をグイとうしろに落として、小謡《こうた》を口に小名木川の橋を過ぎながら、ふと思いついたのが麻布《あざぶ》我善坊《がぜんぼう》の伯父|隈井九郎右衛門《くまいくろうえもん》のこと。
 四年まえに五十両借りたきりになっているが、なにしろ隈井の伯父はお広間番の頭、役得が多くしたがって工面がいい。泣きついていったらもう五十ぐらいなんとかしてくれるかも知れぬ。
 そうだ、一つ鉄面皮《てつめんぴ》に出かけてみようか。
 いや! よそう、よそう!
 そういえば去年の盆前にも一度二十両しぼり出しに行ったことがあったっけ。
 あの時、いや
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