分け――金高の半というところでごかんべんねがいたい」
 源十郎はふところから五十両入りの栄三郎の財布をとり出した。
 すると男は、源十郎の手をゆるめながら、
「だまれッ!」と肩をそびやかして、
「おれはまだ盗人のあたまをはねたことはないぞ! 財布ごとそっくりよこせ!」
「で、この金をどうなさる?」
「知れたこと。所有主へ返すのだ」
 源十郎はせせら笑った。
「それは近ごろ奇特なおこころざし――といいたいが、いったい貴公は何者でござるかな?」
「おれか? おれは天下を家とする隠者だ」
「なに、隠者? して、御尊名は?」
「名なぞあるものか。しいて言えば、名のない男というのが名かな」
「なるほど。いや、これはおもしろい。しからばこの金子《きんす》、このまま貴殿へお渡し申そう」
 あきらめたとみえて、源十郎もあっさりしている。財布は男の手へ移った。
「ふん! あんまりおもしろいこともあるまいが……政事《まつりごと》を私《わたくし》[#ルビの「わたくし」は底本では「わたく」]し、民をしぼる大盗徳川の犬だけあって、放火盗賊あらためお役が、賊をはたらく、このほうがよっぽどおもしろいぞ」
 この毒舌に源十郎はかっとなって、
「乞食の身で、言わせておけば限りがない――汝は金を返してやるといったが、さてはあの若侍の住所氏名を知っているのか」
「知らん。が、いずれ今ここへ帰ってくるだろう」と、名のない男の言葉が終わらないうちに、裏みちでつづみの与吉を見失った諏訪栄三郎が、ぼんやりとそこの横町から往来へ出て来た。
 思案投げ首といった態《てい》。
 それを見ると男は、源十郎がはっ[#「はっ」に傍点]とするまに大きな声で呼びかけて、ちらりと源十郎を見やったのち、近づいてくる栄三郎へ、
「これ! 金はここにある。この八丁堀のお役人が、あの男をとっちめて取り戻してくだすったのだ。礼はこの人へ言うがいい」
 と見事に源十郎を立てておいて財布を栄三郎に渡すが早いか、まごついている二人を残して、それなり風のように立ち去って行った……頭髪へ銀杏の葉をのせて、片手に徳利をさげたまんまで。
 世にも奇体《きたい》な名のない男!
 ことに、不敵にも公儀へ対して異心を抱くらしい口ぶり――はてどこの何やつであろう?
 ――と、あとを見送る源十郎へ何も知らない栄三郎はしきりに礼をのべて、やがてこれも雷門のほうへいそいでゆく。
 みょうな顔で挨拶を返した鈴川源十郎、眼は、遠ざかる栄三郎の腰に吸われていた。
 はなしに聞いた陣太刀づくりの脇差に、九刻《ここのつ》さがりの陽ざしが躍っている。
 孤独を訴える坤竜丸の気魂《きこん》であろうか。栄三郎のうしろ姿には一|抹《まつ》のさびしさが蚊ばしらのように立ち迷って見えた。
「よし! 五十両がふい[#「ふい」に傍点]になった以上は、あくまでもあの男をつけ狙って、丹下のやつをたきつけ、おもしろい芝居を見てやろう。乾雲と、坤竜、刀が刀を呼ぶと言ったな。それにしてもあの若造は、たしかに鳥越の――」
 源十郎が小首をひねったとき、先をゆく栄三郎がまた振り返って頭をさげた。
 ふふふ、馬鹿め! とほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑《え》んだ源十郎、ていねいにじぎをしていると、ぽんと肩をたたく者があって、
「ほほほ、いやですよ殿様。狐|憑《つ》きじゃああるまいし、なんですねえ、ひとりでおじぎ[#「おじぎ」に傍点]なんかして……」
 という櫛まきお藤の声。気がつくと、いつのまにか与吉もそばに立っているのだった。
 すんでのことで栄三郎に追いつかれて、武蔵太郎を浴びそうになった与吉は、ほど近いお藤の家へ駈けこんで危ういところを助かった。で、もうよかろうと姐御を引っぱり出して来てみると、かんじんの金は、名のない男というみょうな茶々《ちゃちゃ》がはいって元も子もないという――。
 お藤は黒襟をつき上げて、身をくの字に腹をよった。が、そのきゃんな笑いもすぐに消えて真顔に返った。
 丹下左膳のために手をかしてもらいたいという源十郎のことば。
 何かは知らぬ。しかし、左膳と聞いて、恋する身は弱い。お藤はもう水火をも辞せない眼いろをしている。
 しかも、いつない源十郎の意気ごみが二人の胸へもひびいて、与吉は中継《なかつ》ぎとしてここにのこり、お藤と源十郎が栄三郎のあとを追うことになった。
 屋敷をつきとめしだい、どっちかがひっかえして与吉にしらせる。与吉はそれをもたらして本所法恩寺橋の鈴川の屋敷へ走り、左膳を迎えて今夜にでも斬りこもうという相談。
 勇み立ったお藤が、源十郎とともに、だんだん小さくなる栄三郎をめざして小走りにかかると、すうっと片雲に陽がかげって、うそ寒い紺色がはるか並木の通りに落ちた。
 このとき、うしろの蔵宿《くらやど》両口屋から出てきた老人の侍が、おなじく小手《こて》をかざして栄三郎を望見していた。

「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――姐《ねえ》さん、ここへお茶代をおきますよ。どっこいしょッ! と」
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
 吉原を顧客《とくい》にしている煙草売りが、桐の積み箱をしょって腰をあげると、お艶《つや》はあとを追うようにそとへ出た。
 人待ち顔に仁王門のほうへ眼を凝《こ》らして、
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
 と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と葦簾《よしず》のかげへはいった。
 階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
 浅草三社前。
 ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
 紺の香もあたらしいかすり[#「かすり」に傍点]の前かけに赤い襷《たすき》――お艶が水茶屋姿の自分をいとしいと思ってからまだ日も浅いけれど、諏訪栄三郎というもののあるきょうこのごろでは、それを唯一つの頼りに、こうして一|服《ぷく》一文の往きずりの客にも世辞のひとつも言う気になっているのだった。
 ちいん[#「ちいん」に傍点]と薬罐《やかん》にたぎる湯の音。
 ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い頤《おとがい》を深ぶかと襟へおとしてわれ知らず、物思いに沈む。
 隣の設楽《しがらき》の店で、どっとわいた笑いも耳にはいらないようす。鬢《びん》の毛が悩ましくほつれかかって、なになにえがくという浮世絵の風情《ふぜい》そのままに――。
 このお艶は。
 夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主|相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》につかえ、お賄頭《まかないがしら》をつとめていた実直の士に、和田宗右衛門《わだそうえもん》という人があった。
 水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお暇《いとま》となった宗右衛門。今さら二君にまみえて他家の新参になるものもあるまいと、それから江戸に立ちいで気易《きやす》な浪人の境涯。浅草三間町の鍛冶屋富五郎、かじ富という、これがいささかの知人でいろいろと親切に世話をしてくれるから、このものの口ききで田原町《たわらまち》三丁目喜左衛門の店に寺小屋を開いて、ほそぼそながらもその日のけむりを立てることになったが……。
 妻おさよとのあいだに、もう年ごろの娘があってお艶という。
 どうか一日も早く婿養子をとり、それに主取りをさせて和田の家を興《おこ》したいと、明けくれ老夫婦が語りあっているうちに、宗右衛門はどっと仮りそめの床についたのが因《もと》で、おさよお艶をはじめ家主喜左衛門やかじ[#「かじ」に傍点]富が、医者よ薬よとさわいだかいもなく、夢のようにこの世を去ったのであった。
 あら浪の浮き世に取りのこされた母娘《おやこ》ふたり。涙にひたることも長くはゆるされなかった。明日からの生計《くらし》の途《みち》が眼のまえにせまっている。老母おさよは、ちょうどその時下女を探していた本所法恩寺の旗本鈴川源十郎方へ、喜左衛門とかじ[#「かじ」に傍点]富が請人《うけにん》になって奉公に上がり、ひとりになったお艶のところへ喜左衛門が持ちこんできたのが、この三社前の水茶屋当り矢の出物であった。
 武士の娘が茶屋女に――とは思ったが、それも時世《ときよ》時節《じせつ》でしかたがないとあきらめたお艶は、田原町の喜左衛門からこうして毎日三社前に通っているのである。
 世話にくだけた風俗が、持って生まれた容姿《かおかたち》をひとしお引き立たせて、まだ店も出してまもないのに、当り矢のお艶といえばもう浅草で知らないものはない。
 世が世ならば……思うにつけはやればはやるほど気のふさぐお艶だった。
 ところへ、また――。
 人の親切ほどあてにならないものはない。
 あれほど親身に親子の面倒を見てくれたかじ[#「かじ」に傍点]富が、それも今から思えば何かためにしようの肚《はら》だったらしいがこのごろ、その時どきに用立てた金を通算して、大枚五十両というものを矢のように催促[#「催促」は底本では「催足」]してくるのである。
 あと月のある日、観音詣りの帰りに立ち寄ってから毎日かかさず来てくれる栄三郎へ、お艶はふとこの心にあまる辛苦をうちあけると、栄三郎は二つ返事で五十両の金策に飛び出したのだが――。
 まだ帰ってこない。
「申しわけございません。はじめからお金をねだるようで、はしたない茶屋女とおぼしめしましょうが」
 ほっ[#「ほっ」に傍点]と深い吐息がお艶の口から洩れた。

 大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
 判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
 秋らしく遠見のきく白い町すじ。
 三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか駒形《こまがた》から雷門《かみなりもん》をさしていそぐ栄三郎の姿が、豆のようにぽっちりと見える。与吉を伝送《でんそう》の中つぎに残して、あとをつけてゆく源十郎とお藤の影は、もとよりただの通行人としか重兵衛の眼にはうつらなかった。
「うちうちなら宜《え》えが、札差しを痛めつけられるようでは、栄三郎さまの行く末が思われる。ぶるるッ! これはどうあっても殿様へ申し上げねばならぬ……殿様へ申しあげねばならぬ」
 と正直|一途《いちず》に融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
 と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、花川戸《はなかわど》のほうへ下らずに、栄三郎はまっすぐに仁王門から観音《かんのん》の境内へはいりこむ。
 はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
 栄三郎にしてみれば。
 あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘|弥生《やよい》に思われて、嫌ってはすまぬと知りながら、ああしてみずから敗をとって弥生を泣かした。のみならず、それから事件が起こって老師は不慮の刃にたおれ、夜泣きの刀は二つに別れて坤竜《こんりゅう》はいま自分の腰にある。栄三郎とてもいたずらに弥生をしりぞけ、師の望みにそむくものではない。あの夜、泣く泣く麹町《こうじまち》の親戚《しんせき》土屋多門方へ引き取られて行った弥生に、かれはかたい使命を誓ったのだった。
 相手は乾雲丸の丹下左膳。
 がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
 恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では御《ぎょ》されない。
 一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ恋慕風《れんぼかぜ》を栄三郎はどうすることもできなか
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