ち帰りを願いました金子《きんす》に間違いが――ありはしなかったかと番頭どもが申しておりまして、それで手前がおあとを追って、失礼ながらお金を拝見させていただくようにと、へい、こういうことで出て参りましたが、いかがでございましょう。ちょっとお見せくださいますわけには?……」
言葉を切って、与吉はじっと栄三郎の顔色をうかがった。
正覚寺の山門をおおいつくして、このあたりで有名な振袖|銀杏《いちょう》の古木がおいしげっている。黄いろな葉をまばらにつけた梢が、高い秋空を低くさえぎって、そのあいだから降る日光の縞に、栄三郎の全身には紫の斑《ふ》が踊っていた。
無言のまま与吉を見すえていた栄三郎、何を思ったかくるり[#「くるり」に傍点]と踵《きびす》を返して、いそぎ足に寺の境内《けいだい》へはいりかけた。
「あの、旦那さま!」
与吉の声が追いかける。
「ついて来るがいい」
と一言、栄三郎は本堂をさしてゆく。
すこし離れて、置き捨ての荷車のかげからようすを眺めていた源十郎は、栄三郎に従って与吉も寺内へはいって行くのを見すますと、跫音を忍ばせて銀杏の幹に寄りそった。
急に参詣てのはへんだが――! はて? どこへ行くのだろう?……と、源十郎がのぞいているうちに、本堂まえの横手、陰陽《いんよう》の石をまつってあるほこらのそばで、ぴたりと足をとめた栄三郎が、与吉を返りみてこういい出すのが聞こえた。
「あすこは往来だ。立ち入った話はできぬ。が、ここなら人眼もない。なんだ?――さっきのことを今一度申してみなさい」
「いろいろとお手間をとらせて恐れ入ります。じつはお渡し申した小判に手前どもの思い違いがございまして」
「どうもいうことがはっきりしないな。数えちがいならとにかく、金子《きんす》に思い違いというのはあるまい」
「へ? いえ、ところがその……」
「待て、お前は両口屋のなんだ」
「若い者でございます」
「若い者といえば走り使いの役であろう。それに大切な金の用向きがわかるか――これ、番頭が並べて出し、拙者があらためて受け取って、証文に判をついてきた金にまちがいのあるわけはない」
「へえ。それがその、番頭さんの思い違い……」
「まだ申すか。なんという番頭だ?」
「う……」
と思わず舌につかえる与吉を、栄三郎はしりめにかけて、
「それ見ろ。第一、両口屋の者なら拙者を存じおるはず。拙者の名をいえ!」
「はい。それはもう、よく承知いたしております。ヘヘヘヘ、若殿様で――」
「だまれッ! 侍の懐中物に因縁《いんねん》をつけるとは、貴様、よほど命のいらぬ奴とみえるな」
「と、とんでもない! 手前はただ……」
「よし! しからば両口屋へ参ろう、同道いたせ」
と! 踏み出した栄三郎のうしろから、こと面倒とみてか、男が美《い》いだけの腰抜け侍とてんから呑んでいるつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉、するりとぬいだ甲斐絹《かいき》うらの半纒《はんてん》を投網《とあみ》のようにかぶらせて、物をもいわずに組みついたのだった。
来たな!
と思うと、栄三郎は、このごまの蠅《はえ》みたいな男の無鉄砲におどろくとともに、ぐっと小癪《こしゃく》にさわった。同時に、おどろきと怒りを通りこした一種のおかしみが、頭から与吉の半纒をかぶった栄三郎の胸にまるで自分が茶番《ちゃばん》でもしているようにこみ[#「こみ」に傍点]上げてきた。
ぷッ! こいつ、おもしろいやつ! というこころ。
で、瞬間、なんの抵抗《あらそい》も示さずに、充分抱きつかせておいて、……調子に乗りきったつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が、
「ざまあ見やがれ、畜生! 御託《ごたく》をならべるのはいいが、このとおり形なしじゃあねえか」
と!
見得ばかりではなく、江戸の遊び人のつねとして、喧嘩の際にすばやくすべり落ちるように絹裏《きぬうら》を張りこんでいる半纒に、栄三郎の顔を包んで一気にねじ倒そうとするところを――!
するりと掻いくぐった栄三郎。ダッ! と片脚あげて与吉の脾腹《ひばら》を蹴ったと見るや、胡麻《ごま》がら唐桟《とうざん》のそのはんてん[#「はんてん」に傍点]が、これは! とよろめく与吉の面上に舞い下って、
「てツ! しゃらくせえ……!」
立ちなおろうとしたが、もがけばいっそう絡《から》みつくばかり。あわてた与吉が、自分の半纒をかぶって獅子《しし》舞いをはじめると……。
「えいッ!」
霜の気合い。
栄三郎の手に武蔵太郎が鞘走って、白い光が、横になびいたと思うと、もう刀は鞘へ返っている。
血――と見えたのは、そこらにカッと陽を受けている雁来紅《はげいとう》だった。
門前、振袖銀杏のかげからのぞいていた源十郎は、この居合抜きのあざやかさに肝《きも》を消して、もとより与吉は真っ二つになったことと思った。
が、二つになったのは、与吉ではなくてはんてん[#「はんてん」に傍点]だった。まるで鋏で断ち切ったように、左右に分かれて地に落ちている。
ぽかんと気が抜けて立った与吉は、
「貴様ごときを斬ったところで刀がよごれるばかり、これにこりて以後人を見てものを言え」
という栄三郎の声に、はっとしてわれに返ったのはいいが、どうして半纒が取られたのか知らないから、怖いものなしだ。
「何をッ! 生意気な」
うめくより早く、蹴あげた下駄を空で引っつかんで打ってかかった。にっこりした栄三郎、ひょい[#「ひょい」に傍点]とはずして、思わず泳ぐ与吉の腰をとん[#「とん」に傍点]と突く。はずみを食った与吉は、参詣の石だたみをなめて長くなったが……。
かれもさる者。
いつのまに栄三郎の懐中をかすめたものか、手にしっかと五十両入りの財布を握って、起き上がると同時に門外をさして駈け出した。
もう容赦はならぬ。追い撃ちに一刀!
と柄を前半におさえてあとを踏んだ栄三郎は、門を出ようとする銀杏の樹かげに、ちら[#「ちら」に傍点]と動いた人影に気がつかなかった。
ましてや、門を出がけに、与吉がその影へ向かって財布を投げて行ったことなどは、栄三郎は夢にも知らない。
往来で二、三度左右にためらった末、与吉は亀のように黒船町の角へすっ[#「すっ」に傍点]飛んで行く。まがれば高麗《こうらい》屋敷。町家が混んでいて露地抜け道はあやのよう――消えるにはもってこいだ。
おのれ! 剣のとどきしだい、脇の下からはねあげてやろうと、諏訪栄三郎、腰をおとして追いすがって行った。
それを見送って、振袖銀杏のかげからにっ[#「にっ」に傍点]と笑顔を見せたのは、鈴川源十郎である。
手に、ずしり[#「ずしり」に傍点]と重い財布を持っている。
斬られたと思った与吉が駈け出して来て、手ぎわよく財布を渡して行ったのだから、源十郎は、あとは野となれ山となれで、食客の丹下左膳が眼の色をかえてさがしている坤竜丸の脇差が、あの若侍の腰にあったことも、この五十両から見ればどうでもよかった。
見ていたものはない。してやったり! と薄あばたがほころびる。
ひさしぶりにふところをふくらませた源十郎、前後に眼をやってぶらりと歩き出そうとすると……。
風もないのにカサ! と鳴る落ち葉の音。
気にもとめずに銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」
ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてふり返ったが、人影はない。
雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
気の迷い!
と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
正覚寺の生け垣にそって旱魃《ひでり》つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむく[#「むくむく」に傍点]と盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体《えたい》の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥《しとね》にゆっくりと胡坐《あぐら》を組んで、きっ[#「きっ」に傍点]と源十郎を見返した。
熟柿《じゅくし》の香がぷんと鼻をつく。
乞食にしても汚なすぎる風体。
だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみ[#「のみ」に傍点]を思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉《しし》おきが鍛えのあとを見せている。
年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷《すあわせ》だが、豪快の風《ふう》あたりをはらって、とうてい凡庸《ぼんよう》の相ではない。
あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそり[#「のそり」に傍点]と溝を出て来た。
ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅《かっぷく》である。
偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
すっかり気をのまれた源十郎はそれでも充分おちつきを示して、この正体の知れない風来坊をひややかな眼で迎えている。
一尺ほど面前でぴたりととまると、男は両手を腰において、いきなり、馬がいななくように腹の底から笑いをゆすりあげた。
その声が、銀杏の梢にからんで、秋晴れの空たかく煙のように吸われてゆく。
いつまでたっても相手が笑っているから、源十郎もつりこまれて、なんだか無性《むしょう》におかしくなった。
で、にやりとした。
すると男はふっと笑いをやんで、
「お前は、八丁堀か」
と、ぶつけるように横柄《おうへい》な口調である。
小銀杏の髪、着ながした博多《はかた》の帯、それに雪駄《せった》という源十郎のこしらえから、町与力あたりとふんだのだ。与力の鈴源といわれるくらいで、源十郎はしじゅう役人に間違われるが、先方が勝手にそうとる以上は、かれもこのことは黙っているほうが得だと考えて、この時もただ、ぐっ[#「ぐっ」に傍点]とにらんで威猛高《いたけだか》になった。
「無礼者! 前に立つさえあるにいまの言葉はなんだ?」
男は眼じりに皺をよせて、
「おれのひとりごとを聞いて、お前のほうでもどってきたのではないか。天知る地知る人知る……両刀を帯して徳川の禄《ろく》を食《は》む者が、白昼追い落としを働くとは驚いたな」
「なにいッ!」
思わず柄へ走ろうとする源十郎の手を、やんわり指さきでおさえた男、
「この溝の中で、はじめから見物していたのだ。あの男の投げていった財布を出せ」いいながら指に力を入れる。
「う、うぬ、手を離せッ!」源十郎はいらだった。「この刀が眼に入らぬとは、貴様よほど酔うとるな――これ、離せというに、うぬ[#「うぬ」は底本では「うね」]、離さぬか……」
「酔ってはいる。が、しかしこの汚濁《おだく》の世では、せめて酔ってるあいだが花だて」
と奇怪な男、ううい! と酒くさい息を吹いて手の徳利を振った。
指をふりほどこうとあせった源十郎も、虚静《きょせい》を要とし物にふれ動かず――とある擁心流《ようしんりゅう》は拳の柔《やわら》と知るや、容易ならぬ相手とみたものか、小蛇のようにからんでくる指にじっ[#「じっ」に傍点]と手を預けたまま、がらりと態度をあらためて、
「いや。さい前からの仔細《しさい》をごらんになったとあらば、余儀ない。拙者も四の五のいわずに折れますから、まず山
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