てに画かれている。
 商売商売とはいえ、しんから感嘆に値する入神の技芸!
 娘と劉がちょっと手をつないで軽く挨拶をしたとき、固唾《かたず》をのんでいた観客も、はじめて気がついたように大きな喝采《かっさい》を送った。
 が、弥生はすでに、何か思うところあるらしく、かたい決意に顔を引きしめて、そそくさと人を分けつつ小屋を出かけていた。

 堂の裏手から森の奥へ一条の小径《こみち》がのびている。
 それからまもなく。
 その小みちをすこしはずれた草むら、昼なお暗い杉木立ちの下に、ふたつの人影が一つに固まり合って何事かささやいていた。
「さればじゃ、あまりに其方《そち》の手裏剣が見事ゆえに、強《た》ってここまで足労をわずらわした次第だが、頼みというのはほかでもない――」
 こう言いかけているのは、男の声こそつくっているが、確かに弥生の小野塚伊織に相違ない。
 それに答えていま一人が、
「なんのお前様、唐人の化《ば》けの皮を一目で引ん剥《む》いだ、御眼力、お若えが恐れ入谷《いりや》の鬼子母神《きしぼじん》……へっへっへっなんでごわす? ま、そのお話てえのをザッと伺おうじゃアげえせんか、あっしもこれで甲州無宿|山椒《さんしょう》の豆太郎――山椒は小粒でもピリッとからいや。ねえ、事の仔細を聞いたうえでサ、案外乗り気に一肩入れるかも知れませんぜ」
 つぶやくような低声《こごえ》だが、歯切れのいい江戸弁をふるっている男……かれは、今し方、あの刀操術の見世物小屋で奇怪な剣技に観客を酔わしていた劉太夫《りゅうだゆう》という唐人であった。
 とすれば。
 唐人劉の正体は日本人も日本人、じぶんで名乗るとおりに甲州無宿山椒の豆太郎。
 さてこそこの豆太郎、亀背の一寸法師にはちがいないが、あのりっぱな黒毛の衣を脱ぎ捨てて顔のつくりを洗い落としたところ、ただ珍妙な男というだけで、さして身の毛のよだつほどの人柄でもない。
 が、底が割れれば割れたで、それだけ小さくのっぺりとしているのが変に無気味でもあり、また、一朝手裏剣をとっては稀代《きだい》の名手である点、なるほど「山椒《さんしょう》は小粒でもピリッとからい」に背《そむ》かないとうなずかせるものがある。
 甲府生れの豆太郎は、怖ろしい片輪のうえに性来《せいらい》手裏剣に妙を得て、香具師《やし》に買われて唐人劉と称し、諸国をうちまわっているうち、きょうの祭りを当てこみにこの長者ヶ丸に小屋を張って銭をあつめているところへ、見物中の若侍が木戸へかかり、ちょっとはなしがあるとここへ呼び出されたのだった。
 何を思いついてこんな変わった太夫と膝を組んで語る気になったものか、とにかく弥生は、演技を終えて汗を拭きながら出て来た劉の豆太郎を見て、さては己がにらんだとおりであったかと微笑を禁じ得なかった。
 毛縫いを脱して今眼のまえにしゃがんでいる豆太郎は、舞台の劉さんとは全く別人のようで、はじめから弥生が看てとったごとく日本人の無頼漢だったからだ。
 三尺あまりの身体に状箱を縛りつけたような身躯《からだ》[#「身躯」は底本では「身驅」]、小さな手足にくらべて莫迦《ばか》にあくどい大きな顔……。
 しかし! かれ豆太郎に一梃の小刀を与えよ!
 空|翅《か》ける鳥もたちまち地におち岩間を走る疾魚も須臾《しゅゆ》にして水面に腹を覆すであろう。
 その豆太郎が、ふんべつ臭く小さな腕を組み、凝然と耳をすましていると。
 あるいは依頼《いらい》懇願《こんがん》するがごとく、あるいは諄々《じゅんじゅん》として説くように、しきりに何かを明かしている弥生。
 とんだ贋物《いかもの》の豆太郎と、小野塚伊織こと男装の弥生と。
 その間、どんな話題がいかに展開していったことか――。
 否《いや》、それよりもこの弥生が、突然小野塚伊織なる若侍の扮装《いでたち》で今日この子恋の森へ現れるにいたるまでに、そもどのような経路が伏在しているのか?
 ここでいささか振り返ってその後の弥生をたずねるに。
 ……それは、彼女が櫛まきお藤につれられて瓦町の栄三郎方を訪れ、お艶とともに一夜を雨のような涙に明かし、そして戸外には、両女の涙に似た雨が音もなく煙っていたかの思い出の明け方だった。
 思い出のあけぼの?
 そうだ。あの日を最後に、女としての弥生は、成らぬ哀恋《あいれん》の悶《もだ》えと悟りに、死にかわりにそこに、凄艶《せいえん》な一美丈夫小野塚伊織があらたに生まれ出たのである。
 その生みの悩みは?
 思い出はなおもつづく――。
 恋は、強い者を弱くし、弱いものを強くする。
 あの小雨の夜から、弱いお艶が急に強いこころに変わって栄三郎への愛想づかしを見せだしたように、つよい弥生は、にわかによわい処女に立ち返って、悲恋の情に打ちのめされた彼女、傘《かさ》を断わって雨のなかを瓦町の露地を離れて一人トボトボ濡れそぼれてゆくと――。
 夜来の雨に水量ました神田川の流れ。
 どどどウッ! と、岸の石垣を洗って砕ける暁闇の水面。
 浅草橋の中ほどに歩みをとどめて何心なく欄干に凭《よ》って下をのぞいた弥生であった。
 明けやらぬ空。
 まだ眠りからさめぬ大江戸の朝は、うらかなしい氷雨《ひさめ》が骨に染みて寒かった。
 魔がさす。
 ……とでも言おうか、こういうとき、嘆きをもつ人のたましいにふと死の影が投げられるものだ。
 橋のうえの弥生に、眼に見えぬ黒い翼の死神《しにがみ》が寄り添った。
 かれは弥生の耳へ誘いの言葉をささやく。
 雨滴のひびき、河の水音を、弥生は、死の甘美をうたう声と聞いたのだった。
 死神はまた弥生に、眼下の水底を指さし示す。
 そこに弥生は、渦をまく濁流のかわりに百花繚乱たる常春《とこはる》の楽土を見たのだった。
 死を思う心の軽さ――それは同時に即決をしいてやまない。
 きっとあげた弥生の顔を、雨がたたいた。が、彼女はもう泣いていなかった。かすかに開かれた弥生の口から、亡父と栄三郎の名が吐息のごとく洩れ出た……と思うと、履物《はきもの》をぬぐ。チラとあたりを見まわす。手を合わす――。
「お父さま、弥生もおそばへ参ります!」
 と一言! 死神の暗翼《あんよく》に抱かれた弥生が、あわやらんかんから身を躍らそうとしたとき! 人生にあっては、百般の偶然事ことごとくこれ必然である。
 ことの起こるや、起こるべきいわれがあって起こる……この場合がちょうどそれだったと言ってよかろう。
 ときしもあれ、棒鼻をそろえて、突風のごとく橋上を疾駆し去った五梃の山駕籠があった。
 筋骨たくましい六尺近いかご舁《か》きが十人、ガッシと腰をおとして足並みゆたかに、踊りのように息杖《いきづえ》をふるって、あっというまにあさくさばしを渡り過ぎたのだが!
 あとを見ると弥生の姿がない!
 さてはついに飛びおりて神田川の藻屑《もくず》と消えたか!
 と言うに。
 危い弥生をみとめて、走りざまに陸尺《ろくしゃく》のひとりが片手に掻《か》きこみ、むりやりに駕籠の一つへでも押しこんだものであろう。
 弥生はすでに気を失っていたが、それは真に間髪を入れない早わざであった。
 その証拠には。
 こうしてその朝、あの本所鈴川方の斬りこみから引きあげて来た五梃駕籠が、エイハア! の[#「エイハア! の」は底本では「エイハア!の」]掛け声も鋭く角々を折れ曲がって、大戸をあけはじめた町家つづきを駈け抜けること一刻あまり、トンと鳴って底が地についてみると、ゾロゾロとはい出た五人の火事装束――そのなかに、首領《かしら》だった銀髪|赭顔《あからがお》の老武士の腕に、ぐったりとなった弥生のからだが優しく抱かれていたのだった。
 が、この、細雨の一夜を剣戦にあかして、しののめとともに風魔《ふうま》のごとく走り去って来た五人組は何者?
 そして、いまその落ち着いたところはどこか?……この青山長者ヶ丸子恋の森を近くに望む、とある陽だまりの藪《やぶ》かげだった。
 乾坤をねらう火事装束は、今また弥生のいのちの恩人である。そのあいだにいかなる話しあいができあがったものか、同じ日より弥生は、過去のすべてとともに丈《たけ》なす黒かみをフッツと断ち切り、水ぎわだった若衆ぶりに名も小野塚伊織と改め、五人の武士と十人の荒くれ男が住むふしぎな家に、かれらの尊崇《そんすう》の的《まと》として起居をともにすることとなったのだった。
 運命《さだめ》知らぬ操《あやつ》りの糸――これも離在する雲竜二刀がかげにあってひくのであろうか。
 ほどなく浅草橋の上で弥生のはいて出た足の物が発見され、当然弥生は身を投げて死んだこととなり、養父|土屋多門《つちやたもん》も泪ながらにあきらめて、あたらしくふえた土屋家仏壇の位牌《いはい》には、弥生の俗名と家出の月日とが記されてある……。
 然り! 弥生は死んだのだ。が、その変身小野塚伊織は、人に知られず生きている。
 その、生きている弥生の伊織、いま子恋の森で何ごとか語り終わって、ちょっと相手の一寸法師を見やると、山椒《さんしょう》の豆太郎、どことなく淫《みだ》らな眼をニヤつかせて、さすがに争われずふっくらと白い弥生の胸元をのぞきこむようにしているので、はッとした弥生、思わず立ちあがった。
 灼《や》けつくような豆太郎の視線を受けて、われにもなくどきりとした弥生が、ゆらりと草間に立って忙しく襟を掻き合わせると、こんどは豆太郎、その白い手首から袖口の奥へとへんな眼を走らせながら、これもたったは立ったものの、ようよう頭が弥生の帯へ届くくらいで……。
「ヘヘヘヘ、何もお殿さま、取って食おうたア言いやしめえし、急にそんなに気味わるそうになさるものでもござんすまいぜ」
「うむ。なに、いや、ただ気がせくのだ」
 と弥生はできるだけ男のように大きくどっしりとかまえて、
「そこでどうだ? 仕事はまずいま申し聞かせたようなことだが、一つ拙者らと行動をともにして力をかしてくれる気はないか」
「さようですね」
 仔細らしく首をひねった甲州無宿山椒の豆太郎、いろいろと心中に思案しているのかも知れないが、異様な眼色が依然としてなでるように、すんなりとした弥生の胴から腰のあたりを這いまわって離れないから、弥生はいっそう警戒しつつ、
「むりかも知れんが、拙者はその侠気を見こんで頼み入るのだ――どうかその手裏剣の妙術をもって拙者ら一味のために思うさま働いてくれ……」
「へえ。剣のほうじゃア本職のおさむれえさんに、そうまで厚くおっしゃられるたア、この豆太郎めも果報者で――へえ、このとおりお礼を申します」
「いや、いや、礼なぞ……受けてもらえば当方からこそ言うべき筋だ。いかがであろう、即答が得られれば幸甚なのじゃが」
「なあに、自分の口からこんなことをいうなあ変なもんだが、親の因果《いんが》が子に報い……なアんてネ、どこイ行ってもうしろ指をさされるとおり、身体は、どなた様がごらんになってもこんな不具だが、お前さまのまえだけれどこれで人間よくしたもので、何かしら取り柄がありまさあ。ねえ、あっしア餓鬼の時から物を投げるのが得意でね、好きこそものの上手なれ、へっへっへ、口はばってえことをぬかすようだが、あっしのこの手裏剣|業《わざ》と来た日にゃア、日の下開山、だれと立ちあったところで遅れをとるようなことア、金輪際《こんりんざい》げえせん。そりゃアもう皆さんが――」
「存じておる。存じておればこそ、かくまで膝を屈して願い入るのじゃ」
「さあ、そこだが……」
「なあ豆太郎どの、それほどの剣技をもちながら、あのような獣皮をかぶって唐人|劉《りゅう》などと偽称し、いたずらに衆人の前に立って女子供の機嫌を取り結ぶがごときは、いわばこれ宝の持ちぐされ――その方みずから惜しいと思ったことはないかな!」
「おっと! 待った! おことば中ながら、あの縫着《ぬいつけ》はけものじゃアげえせん、黒馬の尻尾を膠《にかわ》で貼りつけた別誂えの小道具なんで」
「馬のしっぼ! ははははは、なおさら悪いではないか……ま、さようなことはさておき、ここはどうあっても
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