隊、冷《ひや》ッとする水に袴《はかま》のもも立ちとった脚の半ばまで埋めて、たがいに手を藉《か》し肩を預けながら、底石を踏んでちょうど川中へ来かかった時だった。
さきに立っていた山東平七郎がみつけたのだ。
平七郎、河のまん中にピタッと急止し、大手をひろげて背後につづく同志を制しながら、一同またかッ? とばかりに刀をかまえてゆく手をのぞくと……何もない。
ただ、黒い河水の表面に、南瓜《かぼちゃ》とも薬玉《くすだま》とも見える円い物がひとつ動くとも漂うともなく浮かんでいるだけ――。
「なんじゃい? あれは」
「笊《ざる》の川ながれじゃ。大事ない」
「芥のかたまりぞ! わっはッは、山東殿の風声こりゃ笑わせるテ」
それでも連中、念のためにしばらく立ちどまってみつめていたが、なるほど、富士川みず鳥の羽音、平家ではないがとんだ臆病風と哄笑一番、ふたたび水中に歩を拾って進もうとする!
いきなりつづみの与の公が、ブルブルガタガタとふるえ出した。
……も道理こそ……!
声が聞こえる。
「ア、これこれ与吉、待っておったぞ! よい湯加減じゃ。背中をながせ、せなかを流せ」
というように。
しかもそれが暴風雨《あらし》のひびきのいたずらとも、水音のなす耳のせいとも思えるのだが、こんどはハッキリと一声、たしかに河のそこからどなるように立ちのぼってきたから、与吉はもちろん、月輪組の一統、あッ! とおめくなり急淵を蹴って河中に散った。
「来ぬかッ! しからば当方より出向くぞッ!」
と同時!
今のいままで笊《ざる》の川ながれ塵埃《ごみ》の集結《かたまり》と見えていた丸い物が、スックと水を抜いて立ちあがったのを眺めると、裸ん坊の泰軒先生!
九つの生命でもあるものか。いつのまにやら先まわりして、先生、さっきからこの夜ふけの鞍川につかって待ちぶせながら、のんきに行水と洒落《しゃれ》のめしていたのだ。
全くの不意うち!
おまけにたびたびの出会いに泰軒の秀剣を見せつけられ、すっかりおじけだっているから苦もない。蜘蛛の子のようにのがれ散る影を追って、泰軒、水煙とともに川に二人を斬りすてた。
門脇修理ほか一人。
そして与吉を先に、軍之助が風雨に狩られ余数をあつめて、水戸街道を江戸の方へ走りつつあるとき、泰軒は、岸の小陰から衣類とともに例の血筆帳《けっぴつちょう》を取り出して、血にそむ筆で二人と大書していた。
今その、泰軒愛蔵の殺生道中|血筆帳《けっぴつちょう》をひもとけば。
おもてに血痕くろぐろと南無阿弥陀仏の六字。それから木戸の峠の三、助川宿の四人、鞍川の二と本文がはじまって、かくして江戸へ着くまでに。
笠間の入口でまたひとり。
若芝の野で三人。
江戸の五里手まえ、松戸の往還で再び一人。
しめ十四名を血載した帳面を懐中《ふところ》に、巷勇《こうゆう》蒲生泰軒がひさしぶりに帰府した夕べ、十七人に減じられた月輪組とつづみの与吉は、まだうしろを振り返りながら、灯のつきそめた都の雑踏《ざっとう》にまぎれこんでいた。
子恋《こごい》の森
武江|遊観志略《ゆうかんしりゃく》を見ると、その三月|事宜《じぎ》の項《こう》に――。
柳さくらをこきまぜて、都は花のやよい空、錦繍《きんしゅう》を布《し》き、らんまん馥郁《ふくいく》として莽蒼《ぼうそう》四野も香国《こうこく》芳塘《ほうとう》ならずというところなし。燕子《えんし》風にひるがえり蜂蝶《ほうちょう》花に粘《ねん》す。わらじを着けて花枝をたずさえ、舟揖《しゅうしゅう》をうかべて蛤蜊《こうり》をひろう。このとき也、風雅君子、東走西奔、遊観にいとまあらずとす。これは旧暦だが、とにかく三月の声を聞けば、もう人のこころを浮き立たせずにはおかない春のおとずれである。
三日は桃の節句。雛祭り。白酒。
四日。
江戸の西隅、青山|摩利支天《まりしてん》大太神楽《だいだいかぐら》興行……とあって、これが大へんな人出だった。
青山長者ヶ丸の摩利支天《まりしてん》境内。
いつの世に何人が勧請《かんじょう》奉安したものか、本尊は智行法師作の霊像、そのいやちこな御験《みしるし》にあずからんとして毎年この日は詣人群集、押すな押すなのにぎわいである。
堂の四隣に樹木多く、呼んで子恋《こごい》の森という。
あたかもよし、花見月のおまつり日和。
武家屋敷に囲まれたたんぼの奥に、ふだんはぽつんと島のように切り離されて見える子恋の森だが、きょうは遠く下町から杖を引く人もあって、見世物、もの売り、人声、それらの音響と人いきれが渾然《こんぜん》として陽炎《かげろう》のように立ちのぼりそう……。
森のなか。
荒れはてた御堂をとりまいて、立錐《りっすい》の余地もなく人ごみがゆれ動いている。
村相撲がある。紙で作った衣裳《いしょう》冠《かんむり》の行司木村なにがし、頓狂声の呼出しが蒼空《あおぞら》へ向かって黄色い咽喉を張りあげると、大凸山と天竜川の取り組み。それへ教学院の荒法師や近所の仲間が飛び入りをして、割れるような拍手とわらいが渦をまく。
片隅には、二十七、八のきれいな女が、巫女《みこ》のようないでたちで何やらしきりに人を集めているので、その口上を聞けば、
「これなるは、安房《あわ》の国は鋸《のこぎり》山に年ひさしく棲みなして作物を害し人畜をおびやかしたる大蛇《おろち》。またこれなる蟇《がま》は、江戸より東南、海路行程数十里、伊豆の出島十国峠の産にして……長虫は帯右衛門と名づけ、がまは岩太夫と申しまする。東西東西! まアずは帯右衛門に岩太夫、咬み合いの場より始まアリさようウッ!」
と、見ると、いかにもこれが安房帯右衛門殿であろう、一匹の痩せこけた青大将が、白い女の頸に襟巻のようにグルリと一まき巻きついて、あまった鎌首を見物のほうへもたげ、眠そうな眼をドンヨリさせている。
女の足もとには、あまり大きからざる蟇《がま》の岩太夫、これは縄でしばられていて、つまらなそうにゴソゴソ這い出そうとするたびに、ぐいと引き戻される。
やがて女が、頸の蛇をとって地面へおろすと、帯右衛門も岩太夫もそこは稼業だけあって心得たもので、暫時《しばし》にらみあいの態よろしくののち、いきなり帯右衛門が岩太夫に巻きついて締めつけて見せる。この時岩太夫すこしも騒がず口をあけてガアガアと音を発したが、たぶん、
「オオ兄イ、どうせ八百長だ、やんわり頼むぜ」
ぐらいのところであろう。いっこうおもしろくないので、立合いの衆は肝腎《かんじん》の蛇と蟇の喧嘩よりも、太夫元の美しい女をじろじろ見つめているのだが、この女、いずれ後から怪《け》しからぬ薬でも取り出して売りつけようの魂胆と見える。
むこうでは南蛮《なんばん》姿絵の覗《のぞ》き眼鏡が子供を寄せ、こっちでは鐘の音のあわれに勧善懲悪地獄極楽のカラクリ人形。
おででこ芝居合抜き。
わあッと人浪が崩れ立ったと見れば、へべれけに酔っぱらった何家かの折助《おりすけ》が四、五人づれ、女をみかけしだいにふざけ散らして来るのだった。
その群集におされて、逃げるともなく小走りに、堂わきのあき地へ駆けこんだ若侍[#「若侍」は底本では「若待」]ひとり。
月代《さかやき》も青々と、りゅうとした着つけに落とし差しの大小……。
が、その顔!
女にしても見まほしいというが、これはまさしく女性の眼鼻立ち! 服装かたちこそ変わっているが、まぎれもないあの、いまの麹町三番町土屋多門の養女となっている、行方不明のはずの弥生《やよい》ではないか。
それがりんたる若ざむらいの拵《こしら》えで、この青山長者ヶ丸の祭礼へ!
亡父の姓を取って小野塚|伊織《いおり》と名乗っている男装の弥生、ぼんやりとそこに揚がっている絵看板をふり仰ぐと、劉《りゅう》という唐人|刀操師《とうそうし》の見世物小屋で、大人五文、小人三文――。
「さあサ、いらっしゃアイ!」
木戸番が塩から声を振りしぼった。
板囲いに吊るした筵《むしろ》をはぐって、小野塚伊織の弥生が、その刀操術の見世物小屋へ通ると、屋内は大入りの盛況で、むっとこもった人息が弥生の鬢《びん》をかすめる。
五文の木戸銭は高価《たか》くはないが、芸人は劉ひとり、それも、刀操術などと大きく、武張《ぶば》ったところで、能とする演技は、例の小刀投げのいってんばりだ。
かたなの手品だけに見物人は男が主《おも》、女子供は数えるほどしかいない中に、恐《こわ》らしい浪人頭がチラホラ見える。
すっかり武士になりすましている弥生は、臆《おく》せず人をかきわけて前方《まえ》へ出た。
口上人が、エエ、これに控えまする唐人は劉《りゅう》と申し、天竺《てんじく》は鳥烏山《ちょううざん》の生れにして――なんかとでたらめに並べて引っこむと、すぐに代わりあって、二、三尺高い急ごしらえの舞台へ現れたのが小刀投げの太夫支那人の劉であろうが、弥生をはじめ、一眼見た観客一同は好奇とも恐怖ともつかない声をあげて小屋ぜんたいがウウムとうなった。
唐人劉。
みんなはじめは猿かと思った。
いや、猿にしては大きすぎるが、とにかく、これが世にいう一寸法師か、七、八歳の小児の体躯《からだ》に分別くさい大きな頭がのって、それが、より驚いたことには、重箱を背負ったような見事な亀背であるうえに、頭から胴、四肢《てあし》まで全身|漆黒《しっこく》の長い毛で覆われているのだ。
平たい顔に、冷たい細い眼、ひしゃげた鼻、厚いくちびる――人間離れのした相貌《そうぼう》をグッと前へ突き出して、腰を二つに折り、長い両手のさきを地にひきずったところ……さながら絵に画く猩々《しょうじょう》そのままで、出て来た時から見物人のどぎもを奪ったのは当然、弥生はあやうく男装を忘れ、驚異の声を放ち眼をおおおうとしたくらいだった。
まれに見る怪物!
おびえた子供が、片すみで! ワッと火のつくように泣き出すと、劉はそっちを見てニコニコしている。
割りに気はいいらしいので、皆もいささか安心して、すこし浮き足だったのが、またソロソロ舞台のほうへつめかけ出すと、
「唐のお女中の悪血が凝《こ》って、月たらずで生まれましたのがこの太夫、御覧のとおりのお化けながら、当年とって三十と九歳! 劉《りゅう》さん!……あいヨウ――」
香具師《やし》がそばから披露《ひろう》をするのはいいが、自分で呼んでじぶんでこたえるのだから世話はない。
そこで、お化けの劉さん、チョンと析《き》の頭《かしら》を合図に、たちあがって芸当に移った。
舞台の片側に戸板が立てかけてあり、それにピッタリ背をつけて十二、三の女の児が直立する、と、数十本のピカピカ光る小剣を手にした劉、その少女から三間ほど離れた個所に足場をえらんで、小刀の柄を先に、峰《みね》を手のひらに挟んで構えるが早いか! 奇声とともに投げ放った本朝でいう手裏剣の稀法《きほう》!
晧糸《こうし》水平《すいへい》に飛んで、発矢《はっし》! と小娘の頭に刺さった……と見る! 剣鋩《けんぼう》、かすかに人体をそれて、突き立ったので、仰天した観覧人たちがホッと安堵《あんど》の胸をなでおろす間もあらばこそ、二本三本とやつぎばやに劉の手を飛び出した剣。流れ矢のように空に白線をえがきながら、トントントントントン! と続けざまに、娘の首、わきの下、両うで、躯幹《からだ》、脚部と上から下へ順々に板に刺したって、それがすべて肉体とはすはす、一分の隙に娘を避けて板に突き立つものだから、こんどは一同、ふうッと感服の吐息をもらして、拍手することさえ忘れている。
一刀を放つごとに、やッ! やッ! と叫ぶ劉、長い腕をぶんまわしのごとく揮《ふる》って、黒毛をなびかせ短身を躍らせているようすが、栗のいががはじき返っているよう――。
まるでたたき大工が釘を打つように、またたくまに光剣をもって少女の輪郭を包んでしまった。
茫然としている見物人のまえで、娘がソッと板から離れると、大手をひろげた少女の立ち姿が、つるぎの外線でくっきりと板のおも
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