食《く》らい酔ってるで」
「かまわず踏みつけて通れや!」
などとグルリ取り巻いてどなりかわしていた剣鬼のやからをぴたッと制する。
 急落した沈黙。
 容易ならぬ漂気!――と見て、早くも二、三、せわしく刀の柄ぶくろを脱《の》けにかかる。
 が!
 この暴風雨のまえの静寂《しじま》にあって、泰軒居士は身動きだにしない。
 グウグウ……と一同の耳底に通うかすかないびきの声、豪快放胆《ごうかいほうたん》な泰軒先生、いつしかほんとにねむっているのだった。
 むさ苦しいぼろから頑丈な四肢を投げ出して、半ば口を開けている無心な寝顔に、七刻《ななつ》さがりの陽射しがカッと躍っている。
 大賢大愚《たいけんたいぐ》、まことに小児《ちびこ》のごとき蒲生泰軒であった。
 それを包んで、中村の剣群も眼を見あわすばかり、軍之助はじめほか一同、黙って足もとの泰軒をみつめている。
 いつ覚《さ》むべくもない奇仙泰軒……。
 かれは。
 二本松の町に一夜を明かして、その夜なかに与吉が脱出したことを知るやいな、いく先はどうせわかっている相馬中村――ただちにその足で先まわりして、道なき道を走って飯野を過ぎ、それから川俣、山中の間道《かんどう》づたい、安藤|対馬守《つしまのかみ》どの五万石岩城平から、相馬の一行とは同じ往還を逆に、きょう広野村よりこの木戸の山越えにさしかかったところで。
 眠くなれば、どこででも寝る泰軒は、日のひかりを背いっぱいに受けて登ってくるうちに睡魔にとりつかれ、今ちょうど山坂の真ん中にひっくりかえって、ひとねむりグッスリとやらかしている最中だった。
 そこへ!
 思い設けないこの出会い……月輪の剣列《けんれつ》、いたずらに柄頭《つかがしら》をおさえてじっと見据えていると!
 はじまるナ! と看《み》てとった与の公、逸《いち》早くコソコソうしろへ隠れてしまったけれど、泰軒はいい気もちに高いびき、すっかり寝こんでいる――のかと思うと、さにあらず!
 どうしてどうして、彼はさっきから薄眼をあけて、まわりに立ち並ぶ足の数から人数を読みとろうとしているのだが、外観《そとみ》はどこまでも熟睡《じゅくすい》の態《てい》で、狸寝入りの泰軒先生、やにわに寝語《ねごと》にまぎらしてつぶやき出したのを聞けば、
「おお、コレコレ与吉、松島みやげにたくさん泥人形を仕入れて参ったな。だが、惜しむらくはどれもこれも不細工、ウフフフフ都では通用せん代物じゃて……」
 と言いおわるを待たず、それッ! 軍之助が声をかけたのが合図。
 パァッ! と円形が拡がると同時に飛びこんで来た秋穂左馬之介、かた足あげて、泰軒がまくらにしている一升徳利を蹴った――のが早かったか、一瞬にしてその脚をひっつかみ担《かつ》ぐと見せて急遽《きゅうきょ》身を起こした泰軒が遅かったのか?
 とまれ、それはほんの刹那の出来事だった。
 間髪を入れない隙に、あッ! と人々が気がついたときは、左馬之介の身体は岩石落とし……削りとったような大断面を鞠《まり》のごとくに転下して、たちまち山狭の霧にのまれ去った。
 あとには、一|抹《まつ》の土埃が細く揺れ昇って、左馬之介のおちた崖の端に、名もない雑草の花が一本、とむらい顔に谷をのぞいている。
 けれど! 驚異はそれのみではなかった。
 とっさのおどろきから立ちなおって、すぐに泰軒へ目を返した月輪組は、いつのまに奪ったものか、そこに見覚えのある左馬の愛刀を抜きさげて、半眼をうっそりと突っ立っている乞食先生のすがたを見いださなければならなかった。
 自源流奥ゆるし水月のかまえ……。
 しかも、あの秒刻にして左馬を斬ったのだろうか、泰軒の皎刃《こうじん》から一条ポタリ! ポタリ! と赤いものがしたたって、道路の土に溜まっているのではないか。
 凄然たる微笑を洩らす泰軒。
 きらり、きらりと月輪の士の抜き連れるごとに、鋩子《ぼうし》に、はばき元に、山の陽が白く映《は》えた。

「なんじは、これなる町人を江戸おもてよりつけ参った者に相違あるまいッ!」
 と、月輪軍之助、泰軒の直前に棒立ちのまま叱咤《しった》した。
「…………」
 泰軒は無言。ほお髭が風にそよぐ。
「おのれッ! 応答《へんじ》をいたさぬかッ」
 言いかけて、軍之助は声を低めた。
「いままた、同志秋穂左馬之介の仇敵《かたき》……かくごせい!」
 そして!
 その氷針のような言葉が終わったかと思うと、さアッ! と一層、月輪の円形が開いて、あるいは谷を背に、他は丘にちらばり、残余《のこり》の者は刃列をそろえてすばやく山道の左右に退路を断った。
 とともに! 一刀流正格の中青眼につけた岡崎兵衛、めんどうなりと見たものか、たちまち静陣《せいじん》を離れて真っ向から、
「えいッ」
 はらわたをつんざく気合いを走らせて拝み撃ち!――あわれ泰軒先生、不動のごとく血の炎に塗《まみ》れさった……と思いのほか刹那《せつな》! 燐光一線縦にほとばしって、ガッ! と兵衛の伸剣《しんけん》を咬《か》み返したのは自源流でいう鯉の滝昇り、激墜《げきつい》の水を瞬転一払するがごとき泰軒の剛刀であった。
 とたん!
 払われた兵衛は、自力に押されて思わずのめり足、タッタッタッ! 掻き抱く気味にぶつかってくる。そこを、踏みこたえた泰軒、剣を棄てて四つに組む――と見せて、即《そく》に腰をひねったからたまらない。あおりをくった岡崎兵衛、諸《もろ》に手を突いて地面をなめた。
 が、寸時を移さず泰軒には、こんどは門脇修理を正面に、左右に各一人、三角の剣尖を作っていどみかかっている。
 危機!
 ……とは言い条《じょう》、自源流とよりはむしろ蒲生流といったほうが当たっているくらい、流祖自源坊の剣風をわが物としきっている侠勇《きょうゆう》蒲生先生、とっさに付け入ると香《にお》わせて、誘い掛け声――。
「うむ!」
 と!
 これに釣りこまれたか、それとも羽毛の隙でも剣眼に映じたものか、右なる刀手、殺気に咽喉《のど》をつまらせて沈黙のうちに引くより早く、一線延びきってくる片手突き!
 太刀風三寸にして疾知《しっち》した泰軒うしろざまに飛びすさるが早いか、ちょうど眼前に虚を噛《か》まされておよいでいる突き手を、ジャリ……イッ! と唐竹割りにぶっ裂いた。
 濡れ手拭――あれを両手に持って激しく空に振ると、パサリ! という一種生きているような異様な音を発する、人体を刀断する場合に、それによく似たひびきをたてると言われているが全くそのとおりで、いま水からあげたばかりの布《ぬの》を石にたたきつけたように、花と見える血沫《ちしぶき》が四辺《あたり》に散って、パックリと口を開いた白い斬りあとから、土にまみれる臓腑《ぞうふ》が玩具箱《おもちゃばこ》をひっくりかえしたよう……。
 チラ! とそのさまに眼をやった泰軒、
「すまぬ。――南無阿弥陀仏」
 さすがは名うての変りもの、じぶんが殺《や》ったそばからお念仏を唱えてニッコリ、ただちに長剣に血ぶるいをくれて真向い立っている門脇修理に肉薄してゆくと。
 白昼の刃影、一時にどよめき渡って、月輪の勢、ジリリ、ジリリとしまると見るや、一気に煥発《かんぱつ》して乱戟《らんげき》ここに泰軒の姿を呑みさった。
 夜ならば火花閃々。
 ひるだからきなくさい鉄の香がいたずらに流れて、あうんの声、飛び違える土けむり、玉散る汗、地に滑る血しお……それらが混じて一大殺剣の気が、一刻あまりも山腹にもつれあがっていた。
 はじめのうちつづみの与吉は、小高い斜面の切り株に腰をかけて、たかみの見物と洒落《しゃれ》ていたがだんだんのんきにかまえていられなくなって、そこらにある石でも枯れ枝でも手あたりしだいに泰軒を望んで投げつけてみたけれど、単に混戦の度を増して味方に迷惑なばかり。
 やがて。
 こうなってみると、せまくて足場のわるいのが、何よりも多勢《たぜい》の側にとって不利なので、存分に動きのとれる峠下の広野へ泰軒をひきだし、また自分たちも一歩でも江戸に近よろうと、軍之助の指揮のもとに、一同、突如刀を納めてバラバラバラッ! と雪崩《なだれ》をうって江戸の方角へ駈けおりてゆく。
 なむさん! 遅れては大変! と与の公もころがるようにつづいたが、
 追おうともしない泰軒。
 ニッとほくそ笑んで、懐中《ふところ》から巻き紙を切って、綴《と》じた手製の帳面を取り出したかと思うと、ちびた筆の穂先を噛んでそこらを見まわした。
 まぐろのようにころがっている屍骸《しがい》がふたつ。
 それに、最初|峡《たに》へ斬りおとした秋穂左馬之介を加えて、きょう仕留めた獲物はつごう三名。
 泰軒先生、死人の血を筆へ塗って、三と帳づらへ書き入れた。
 中村を進発のとき、軍之助を筆頭に各務房之丞、山東平七郎、轟玄八ほか二十七人、〆めて三十一名だった相馬月輪組は、木戸の峠の剣闘に秋穂左馬之介等三人を失って二十八人、それでも与吉を案内に水戸街道の宿々に泊りを重ねて、きょうの夕刻、こうしてたどり着いたのが助川の旅籠《はたご》鰯屋《いわしや》の門口だ。
 木戸以来、泰軒の消息はばったりと途絶えて、いくら振り返っても影も形も見えないから、月輪の一同、安堵《あんど》と失望をごっちゃにした妙なこころもちだった。
 あの時は地の利がわるかったために思うように働けなかったが、充分な広ささえあればあんな乞食の一人やふたり、またたく間に刻《きざ》んでくれたものを!――こう思うと誰もかれもいまにも彼奴《あいつ》があらわれればいいと望んでいるものの、待っている時に限って、姿を見せないのがほととぎすと蒲生泰軒で、とうとうここまで、北州の雄月輪一刀流と、秩父に伝わる自源流と、ふたたび刃を合わす機会もなくすぎて来たのだが……。
 助川、江戸まで、四十一里半。本陣鰯屋の広土間。
 ドヤドヤとくりこんで来た月輪組の連中は、ただちに階上の二間をぶっ通して借りきって旅の汗を洗いにただちに風呂場へ駆けおりる者、何はさておき酒だ酒だとわめくもの、わるふざけて女中を追いまわす者――到着と同時にもう家がこわれるように大にぎわい。
 何しろ若年の荒武者が二十八士も剣気を帯びての道中だから、その喧噪《けんそう》、その無茶まことにおはなしにならない。
 あまりの騒動に宿役人が出張して来て、身がら、いく先などを型《かた》ばかりにしらべていったが、これは師範代各務房之丞が引き受けて、金比羅詣《こんぴらまい》りの途中でござると開きなおり、見事にお茶らかして追い返してしまう。
 あとには。
 気を許した一同が、五、六十本の大小を床の間に束《たば》で立て掛け、その前に大胡坐《おおあぐら》の月輪軍之助を上座に、ズラリと円くいながれて、はや酒杯が飛ぶ、となりの肴を荒らす、腕相撲、すね押しがはじまる……詩吟から落ちてお手のものの相馬甚句、さてはお愛嬌《あいきょう》に喧嘩口論まで飛び出して、イヤハヤ、たいへんな乱痴気ぶりだ。
 旅中はおのずから無礼講、それに、何をいうにも若い者のこととて大眼に見てかあきらめてか、それともあきれたとでもいうのか、剣師軍之助はこの崩座《ほうざ》を眺めて制しようともせず、やりおるわいと微笑みながらチビリチビリと酒をふくんでいると。
 いつしか話題が泰軒へ向いて、
「力はあるが、大した剣腕《うで》ではないで、こんど出て来たら、拙者が真ッぷたつにしてくれるテ。なあ、汝《うぬ》らア騒がずと見物しとれ」
「何をぬかしくさる! おれは、きゃつの業《わざ》の早いのが恐るべきだちゅうんだ、岡崎がかわされて手をついた時の不様《ぶざま》ってあっか」
「さようでございます。どうもあのとおり乱暴な乞食なんで、見ておりましても手前なんかは胸がドキドキいたしますが、でもまあ、皆さまというお強いお方がそろっていらっしゃいますので、このところ与の公も大安心でございます、へい」
「そうとも! そうとも! 何があっても町人はすっこんでおろ!」
「なんともはや、その言葉一つが頼みなんで――ま、ま、一ぱい! 酒は燗《かん》、さかなはきどり、酌は髱《たぼ》
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