に一|物《もつ》を蔵《ぞう》している。本所の鈴川方から誰かが中村へ援軍を呼びに旅立ったと聞いてその使者とは何者だろう? それによってこっちも大いに出かたがあると内心いきおいこんで追いついてみるとあにはからんや、対等の役者として太刀打ちもできないつづみの与の公だから、泰軒はいささか失望の感だった。こんな者をとっちめたところで、張り殺してみたところでつまらない。相手にするさえいさぎよしとしないので、それならばむしろいっしょに相馬中村まで与吉を見とどけて、かれが何十人かの剣団《けんだん》を案内して江戸へ戻る途中を擁《よう》し、ひさかた振りに根限り腕をふるって一大修羅場に死人《しびと》の山を築いてくれよう――こういう気だから表面はしごくのんきだ。
 これ、与吉、この徳利へ酒をつめて参れ。
 これ、与吉、ついでに金をたてかえておけ。
 これ、与吉、坂道でくたびれたから背後から押してくれ。コレ与吉、コレ与吉と、泰軒先生さかんに与の公を使いたてる。与の公もいま先生を怒らしちゃア厄介だと思うから何ごともヘイコラこれ命に従っているうちに。
 大田原――大田原|飛騨《ひだ》守城下。一万一千四百石。
 白河の関――阿部|播磨《はりま》守城下。十万石。
 二本松――丹羽左京太夫殿。十万七百石。
 このところ江戸より六十六里なり。
 ……で、これからあと四つの宿場で福島へ着くという、その二本松の町へはいったのが、江戸を発足してから八日目の夕ぐれだった。
 両側に並ぶ宿屋を物色しながらふと気がつくと、今までそばを歩いていた泰軒先生の姿が見えない!
 つづみの与吉、しめたッ! とばかりにいきなり眼の前の柳屋と行燈をあげたはたごへ飛びこんだ。
「いらっしゃいまし――お早いお着きでございます」
 二、三人の婢《おんな》が黄色い声を合わせる。

 二本松の町。
 諸国旅人宿《しょこくりょじんやど》、やなぎ屋のおもて二階。
 いま洗足《すすぎ》をとってあがって来たつづみの与吉、うす暗い一間へ通されてのっけからケチをつけてかかる。
 口の悪いのは江戸っ児の相場……それがこうして旅へ出ているのだから、何かにつけひとことわるくちをいわなければ腹の虫が納まらないという役得根性も手伝い、泰軒先生をたくみに振りおとした気でいる与の公は、もうすっかりいい気もちになって、
「チッ! こんなしみったれた部屋しかねえのか。馬鹿にしてやがら」
 と、ジロジロとそこらを見まわしてすわろうともしない。案内して来た女中も心得たもので、
「もっと宿料を奮発《ふんぱつ》なされば、あっちにいくらもいいお座敷があいておりますよ」
 これには与吉、ギャフンと参って、
「そりゃそうだろう。そうなくちゃアかなわねえところだ――人間万事金の世の中ってナ、アハハハ」
 どうも与の公ときたらうるさい野郎で、四六時中しゃべっていなければ気のすまないところへ、今は、泰軒という苦しい厄介がなくなったのだから、ひとしお上機嫌に口が多い。
 飯か湯かどっちを先にするときかれて、湯へはいりながら飯を食いてえ……などと勝手なことをしゃべり散らすので、女もあきれて降りていってしまう。
 あとで与吉が、宿の丹前に着かえて、力を入れてもたれかかるとひとたまりもなく折れそうな、名ばかりの二階縁の欄干にもたれて下の往来をのぞくと。
 うら淋しいながらに、ちょうど上《のぼ》り下《くだ》りの旅の人があわてて宿をとる刻限《こくげん》とて、客引きの声もかしましく、この奥州街道に沿う町にもさすがに夕ぐれはあわただしい。
 よごれた白壁。檐《のき》の低い瓦屋根のつづき。取りこむのを忘れた、色のさめた町家の暖簾《のれん》、灯のにじむ油障子。馬糞に石ころ……何をひさぐ店か、和田屋《わだや》と筆太に塗ったここらでの老舗《しにせ》らしい間口の広い家――そういったものが、迫りくる暮色のなかに雑然|蕪然《ぶぜん》と押し並んで、立枯れの雑木ばやしを見るような、まことに骨さむい景色……。
 投入れのひからびている間《あい》の宿。
 与吉が、柄にもなくこんな句を思い出していささか悵然《ちょうぜん》としながら、あの乞食先生はどうしたろう? さぞ今ごろは泡をくらってこの与吉を探しているに違えねえ、ざまア見ろ! と心中に快哉《かいさい》を叫んだ時、廊下に面した障子が開いて人がはいって来た。
「恐れ入りますが、お一方《ひとかた》お相宿を願います」という番頭の挨拶にギョッ! とした与吉が振り向いてみると、越後の毒消し売りがひとり荷を抱えて割り込んで来ている。
 これで与吉はすこし気を悪くしたが、それでも、婢《おんな》が晩めしを運んで来て給仕をする。
「姐《ねえ》さん、この辺に飯盛はいねえのかえ」
「御飯ならわたしが盛《も》ってあげますよ」
「ちょッ! この飯じゃアねえや。こうッと、草餅よ。はははは、くさもちは、どうでエ?」
「くさもちはありませんが、かき餅が名物でござんす」
「笑《わら》わかしゃがらア! 草もちのかわりにかき餅とくりゃあ世話アねえ。にっぽん語の通じねえところだから情けねえ――それなら姐《ねえ》や、なんだぜ、今夜忍んで行くぜオイ。え? いいだろう?」
「あれ! 知りませんよ」
「なに、知らねえことがあるものか。お前みてえなべっぴんは江戸にも珍しい」
「ホホホ、それほどでもござんすまい――そんな殺し文句をまいて歩くと、あの女《ひと》がただはおきませんよ」
「何を言やんでえ!」
 などと与吉一流の無駄口をたたきながら飯をすまして、一風呂ザアッと流してくるからと按摩を頼み、手拭をぶらさげて突っかけ草履、与吉が廊下へ出たところへ、どこの部屋からかあまり粋とはいえない三味線の音……。
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しぐれ降る浅茅《あさじ》ヶ|原《はら》の夕ぐれに二こえ三声|雁《かり》がねの、便り待つ身の憂きつらさ――。
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 と来たときに、お節介《せっかい》な与の公、耳をおさえて、
「よしゃアがれッ!」
 と、どなりながら、暗い裏梯子を駈けおりると、とっつきが風呂場になっていて、ガヤガヤと人声がこもっている。
 男女混浴……国貞《くにさだ》画《えが》くとまではいかないが、それでも裸形《らぎょう》の菩薩《ぼさつ》が思い思いの姿態をくねらせているのが、もうもうたる湯気をとおして見えるから、与吉はもう大よろこび。
「あらよウッ! みなさん、ごめんねえ!」
 と、精々いなせに飛びこんでゆくと! 聞き覚えのある謡曲の声とともに、よもぎのような惣髪《そうはつ》のあたまが一つ、せまい湯船の隅にうだっている。
 はッ! と思うと与の公、ちょいと身体を濡らしただけで、そのまま女たちのあいだをこっそり抜け出て来ようとしたが、すでに遅かった。
「はっはッはっは、待っておったぞ!」
 と割れっ返るような大声といっしょに、泰軒先生がヌッと湯の中に立ちあがったから、与吉は妙な恰好に流し場にしゃがんで、
「おや! 先生でございますか。どうなさいましたかと、じつは御心配申しあげておりましたよ。でもまあ、よく御無事で、エヘヘヘ……」
「ひさしく会わんような挨拶だナ」
「いえね、全く。さっきこの柳屋の前の往来でひょいと気がつくてえと、先生のお姿がかき消すようにドロンでげしょう? あっしゃア――」
「しすましたり矣《い》と此家《ここ》へ飛びこんだのであろうが、ドッコイ! そうは問屋がおろさん。貴様もここへはいるだろうと思って、おれは一足先にあがったのだ」
「どうも質《たち》のよくねえわるさをなさいますよ。びっくりするじゃございませんか」
「ビックリではない。がっかりであろう。とにかく、ざっと暖まったらあがって来て、背中を流してくれ」
「あい。ようがす」
 とは答えたものの入って来た時の元気はどこへやら、与吉はがらりとしょげ返って、白く濁った湯に首を浮かべて一渡りそこらを眺めまわしたけれど、眼にはいる雪の肌もいっこうにこころ楽しくない。
 奥と入口に魚油の灯がとろとろと燃えて、老若男女の五百|羅漢《らかん》。
 仕舞《しま》い湯のせいか女が多い。立て膝して髱《たぼ》をなでつける婀娜女《あだもの》、隅っこの羽目板へへばりついている娘、小|桶《おけ》を占領して七つ道具を並べ立てた大年増、ちょっとの隙《すき》にはいだして洗い粉をなめている赤ん坊、それを見つけて叱る母親、いやもう大変なさわぎ。
 喧々囂々《けんけんごうごう》として湯気とともに立ちあがる甲高い声々……その間を世辞湯《せじゆ》のやりとり、足を拭く曲線美《きょくせんび》――与吉がいい気もちに顎《あご》を湯にひたしてヤニさがっていると、
「アアこれこれ与吉、ゆであがらんうちに出て来て流せ」
 はじまった! 仕方がないから三助よろしくの体《てい》で、大きな背中をごしごしこすり出すと、
「そんなことではくすぐるようで痒《かゆ》くてならん、もっと力を入れて! もっと! もっと!」
 与吉は真赤にりきんでフウフウ言っているが、泰軒はすこしも感じないと見えてしきりに強く強くとうながす。おかげで与吉はふらふらになってしまったのはいいが、いかにも乞食先生の下男のようで、なみいる女客の手まえ男をさげたことおびただしい。
 しかも、ようよう流しがすんだかと思うと、アアこれこれ与吉、湯を汲んで参れ、アアこれこれ与吉、脚をもんでくれ、アアこれこれ与吉……与吉がいくつあってもたりない始末。
 泰軒先生がさきにあがると、やっとのことで赦免《しゃめん》になった与吉、疲れをいやすどころか、かえってクタクタにくたびれきって部屋へ戻ったが!
 先生は階下の裏座敷。
 それに、相部屋の毒消し売りはぐっすり寝こんでいるようすだからまず怪しまれる心配はないと、急に思い立って湯の香のさめぬ身体を旅仕度にかため、ひどい奴で、往きがけの駄賃《だちん》に毒消し売りの煙草入れを腰に、ころんでもただは起きないつづみの兄イ、今夜のうちに二本松、八町目、若宮、根子町《ねこちょう》の四宿を突破して、朝には、福島からいよいよ相馬街道へ折れるつもり――用意万端ととのえて、そっと部屋を忍び出ようとしているところへ、
「今晩は、按摩の御用はこちらでございますか、おそくなって相すみません」
 宵の口に言いつけておいたあんまが来たので、その声に、ねている毒消し売りがムニャムニャ動き出す。
 あわてた与吉、とっさに端の障子を滑らして廊下に出るとにわか盲目とみえて、勘が悪く、まだなんとか言っているのをうしろに聞きながらもとより宿賃は踏み倒し、そのまま軒づたいに裏へ飛びおりてほっと安心!
 泰軒先生は委細御存じなく、白河夜船の最中らしい。
 こんどというこんどこそは、ものの見事にまいてやったぞ……。
 思わず会心の笑みとともに歩き出した与吉、振り返って見ると、宿の洩れ灯に屋号の柳の枝葉が映えて、湯上りの頬に夜風がこころよい。
 寂然たる天地のあいだを福島の城下まで五里十七丁。
 飯野山の峰はずれに月は低く、星の降るような夜だった。

  血筆帳《けっぴつちょう》

 堀の水は、松の影を宿して暗く静まり、塗《ぬ》りつぶしたような闇黒《やみ》のなかに、ほの白い石垣が亀甲《きっこう》につづいて大浪のごとく起伏する木立ちのむこうに、天守閣の屋根が夜空をついて望見される。
 刻をしらせる拍子木の音が、遠く余韻《よいん》をひいて城内に渡っていた。
 外様《とざま》六万石として北東の海辺に覇《は》を唱える相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の湯池鉄壁《とうちてっぺき》、中村城のそと構えである。
 寒星、風にまたたいて、深更霜凜烈《しんこうしもりんれつ》。
 町家、城中ともに眠りについて、まっくらな静けさが限りなく押しひろがっている……。
 と!
 なんに驚いてか、寝ていた水禽《みずどり》が低く飛び立ってバサと水面を打った時!――大手の並木みちを蹣跚《よば》うように駆け抜けてきて、そのままタタタ! と二足三あし上《あ》げ橋の板を鳴らしてお城のなかへ踏みこもうとした人影がひとつ。
 見とがめた番士数名。たちまちばらば
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