て、
「何イ! 馬だ? べら棒め、馬がどうしたッてんでえ!」
 威勢よくたんかをきって向きなおった拍子に、つづみの与吉、さっと顔から血の気がひいた。
 二軒むき合っている向う側の茶みせから、じっと眼を据えてこっちを見つめている異様な男!
 おぼえのある乞食すがたに貧乏徳利……。

 うまくお艶の身柄を忠相《ただすけ》へ押しつけおおせた泰軒、さっそく庭へおり立つところを忠相が呼びとめたのだった。
「これ、蒲生! 何やらここに落ちておるぞ」
 というので、ちょっと引っ返して部屋をのぞくと、いままで坐っていた場所に小判が数枚!
 泰軒の窮状《きゅうじょう》を察した忠相が、無心もないのに投げ出したもので、路用としてそれとなく与える意《こころ》。涙の出るほどのゆきとどきぶり……。
 ふたりは何も言わなかった。
 泰軒はただのっそりあがって来て金子《きんす》を納め、呵々《かか》大笑して再び出て行ったきり――礼もなければ辞儀もない。この両心友の胸間、じつにあっさりとして風のごとくに相通ずるものがあった。
 そして。
 お艶がなおもひれ伏しているうち大岡様のお屋敷を出た泰軒は、瓦町の栄三郎様へも立ちよらずに、その日のうちに江戸をあとに北上の旅にのぼったのである。
 乾雲のために求援の使いにたって、今や一路北州をさしていそいでいる者があると言ったが、はて誰だろう? まだ相馬へは着いてはいまいから、追い越して顔さえ見ればわかるに相違ない。そのうえ、相手のいかんによって策の施しようはいくらもあると、ゆく手に当たって人影が見えるたびに、泰軒はひたすらに足を早めて来たのだった。
 駅路《えきろ》のさざめきも鄙《ひな》びておもしろく、往《お》うさ来《く》るさの旅人すがた。
 が、住居を持たぬ泰軒先生は、江戸にいても四六時ちゅう旅をしているようなもの。したがってこうして都を離れるにも、何一つ身仕度などあろうはずもなく、きたきり雀の古布子《ふるぬのこ》に、それだけは片時も別れぬ一升徳利の道づれ――。
 奥の細みち。
 と言うと風流なようだが、泰軒は気がせく。
 人一倍の健脚に鞭《むち》をくれて、のしものしたり一日に十有数里。
 奥州街道。
 江戸から二里で千住《せんじゅ》。おなじく二里で草加《そうか》。それから越《こし》ヶ|谷《や》、粕壁《かすかべ》、幸手《さって》で、ゆうべは栗橋の泊り。
 早朝に栗橋をたって中田、古河の城下を過ぎ、本街道をまっしぐらに来かかったのがこの小金井である。
 町を素通りに、スタスタ通り抜けようとした、宿場はずれ。
 ふと一軒の茶店からしきりに江戸江戸と江戸を売りに来ているような声がするので、泰軒、何ごころなくみやると、見たことのある町人がさかんに気焔《きえん》をあげている。
 ハテナ! と小首をかしげたとたん、最初に思い出したのが正覚寺門前振袖|銀杏《いちょう》のしたで、諏訪栄三郎のふところから財布を抜いて走った男。これが本所鈴川源十郎の取巻きの一人で、名もわかっている……つづみの与吉! と、とっさにみてとったが、泰軒は知らん顔、そのまま向う側の茶店の入口近く陣取って、隠れるでもなければうかがうでもない、こっちから公然《おおっぴら》ににらみつけていると――。
 馬子をどなりつけて振り向いたとたん、思いがけない泰軒のいることに気のついた与の公、はッとすると同時に青菜に塩としおれ返ってしまった。
 今のいままで恐ろしく威勢のよかったやつが、ムニャムニャとにわかに折れてしまったから、びっくりしたのは茶店のおやじだ。
「どうしただね? 腹でも痛み出したかね?」
 うるさくきくので、与吉はこれをいいことに、
「うん? ううん……なんでもねえ。いや、腹が痛えや。こんな団子を食わせるからだ」
「あんだって、この人は団子にばかりそうけちイつけるだんべ! 三皿もお代りしたくせに……」
 顔をしかめてうなりながら、与吉がチラ! チラ! とうしろをふり返ると、路をへだてた床几《しょうぎ》に泰軒先生それこそ泰然と腰をすえてまたたきもせずにこっちの方をみつめている。
 与吉は、ジリジリと背中が焼けつくようで、いてもたってもいられぬ心地。
 蛇ににらまれた蛙同然――人もあろうに一番の難物が、どうしてここへこうヒョッコリ現れたんだろう! こいつア厄介なことになったもんだ! と一時は与吉、顛倒《てんとう》せんほどに驚いたが、なあに、この先まだ道は長え。宇都宮へへえるまえにでもどこかできれいにまいてやろうと決心を固めて、
「爺さん! ホイ、茶代だ。ここへおくぜ」
 と勢いよく起ちあがると、それを待っていたように、むこう側の茶店でも泰軒が腰をあげたようす。
 首すじがゾクゾクして、与吉はともすれば立ちすくみそうになったのだった。
 猛犬に踵《かかと》をかがれながらさびしい道をあるいていく時の気もち……ちょうどあれだった。背骨がしいんとして、腰の蝶番《ちょうつがい》が今にもはずれそうに思われる。駈け出すわけにはいかず、そうかといって振り返ることもできずに、与吉は半ば死んだ気でフラフラと往還《みち》のみちびくがままにたどってゆく。
 すぐあとから泰軒先生が、一升徳利を片手にぶらさげ、鬚《ひげ》の中から生えたような顔に微笑を浮かべて悠々閑々《ゆうゆうかんかん》とついて来るのだった。
 珍妙|奇天烈《きてれつ》な二人行列。
 それが、陽うららかな宇都宮街道を、先が急げば後もいそぎ、緩急|停発《ていはつ》ともに不即不離《ふそくふり》のまま、どこまでもどこまでもと練っていくところ、人が見たらずいぶんおもしろい図かも知れないが、当《とう》の与吉の身になると文字どおり汗だくの有様で、兄哥《あにい》すっかり逆上《あが》ってしまっている。
 どうも薄気味の悪いことこのうえない。
 もうすこし離れてつけてくるのなら、こっちも駒形の与の公、なんとかして撒《ま》く才覚も生まれようというものだが、こうピッタリかかとを踏まんばかりにくっついていられては、どうにもこうにも考えることさえできないのだ。
 それも。
 おい! とか、コラ! とか声でもかけてくれるならまだいい。そうしたら当方にも応対のしようがあって、おや! これはこれは乞食の旦那様、お珍しい! はて、どちらへ?――ぐらいのことが、スラスラと出ない与吉でもないし、じっさいその問答の二、三も心中に用意があるのだが、こんなに押し黙ってついて来られると、先方が普段からの苦手なだけに、与の公、手も足も出ないで、亡者《もうじゃ》のような心地。
 その亡者のような与の公と、お閻魔《えんま》さまの蒲生泰軒とが、ぶらりぶらりと野中の一本道を雁行《がんこう》していくのだ。
 小金井をたって下石橋、二里半の道で宇都宮……大通りを人馬にもまれて素どおり。
 もうそぼそぼ暮れだが、与吉はこんなつれといっしょに[#「いっしょに」は底本では「いっしよに」]旅籠《はたご》をとる気にもなれない。で、町を突っきり、夜道をかけて今度はどんどん足を早め出した。
 いけない!
 やっぱりスタコラついて来る。
 黙りこくって、影のようにうしろに迫りながら押っかぶさるようにしてついてくるのだ。
 与吉もこれにはすっかり往生したが、振り返りでもしようものなら、そのとたんにぽかんと拳固《げんこ》がとんできそうな気がするし、一度などは与吉が道路にしゃがんでわらじを結びなおすと、泰軒は平然とそばに立って待っている始末で、駒形名うてのつづみの与吉、まるで大きな荷物をしょいこんだ形でほとほと閉口《へいこう》してしまった。
 無言のまま同行二人。
 真夜中の白沢。
 氏家《うじいえ》。
 喜連川《きつれがわ》――喜連川|左馬頭《さまのかみ》殿御城下。
 夜どおしがむしゃらに歩きつめて、へとへとに疲れきった与の公のうえに、さく山あたりで暁の色が動きかけた。
 脚は棒のようになる。眼はくらむ。狩り立てられた狼のようになった与吉、ひとこと泰軒が声をかけたら即座に降参してすべてをぶちまけ、すぐに江戸へ引っ返すなり、ことによったらこのままどこへでも突っ走ってしまおうと思っていると……。
 泰軒は平気の平左。
 ときどき貧乏徳利をぐいと傾けてひっかけながら、口のなかで、謡曲《うたい》の一節。
 明《あけ》の月が忘れられたように山の端《は》にかかって、きょうもどうやら好晴らしい。うす紫の朝|靄《もや》には、人家が近いとみえて鶏の声が流れ、杉木立ちの並ぶ遠野の果てに日の出の雲は赤い。
 はるかに連山の残雪。
 ふっと近くに馬のいななきがきこえてゆく手の草むらにガサガサと音がしたので、与吉がびっくりして立ちどまると、放し飼いの馬が二、三頭、ヌッと鼻面を並べて出した。
「なんでえ! 驚かしゃがらア! シッ! どけ、どけ! シイ――ッ!」
 と、馬とわかって、与の公急に強くなっていばりだしたものだから、よほどそれがおかしかったとみえ、
「はっはっはッは……」
 うしろに泰軒の笑い声。
 与の公、とうとう泣き顔をふり向けて悲鳴をあげた。
「旦那《だんな》! 先生! 人が悪いや、あっしをこんなに追いまくるなんて――ねえ、旅は道づれ世は情けって言いまさあ。ひとついかがで、御相談いたしやしょう」
 と与吉、大道商人が客をつかまえたように小腰をかがめて手をもんだ。
「相談……とは、なんじゃ」
 与吉を見おろして立ちはだかった泰軒のぼろ姿に、さわやかな朝の光が徐々《じょじょ》と這い上がっている。
 与吉は首をなでたり頭をかいたり、眼まぐるしく両手を動かしながら、
「テヘヘヘヘ、どうも先生、旦那、いや殿様――ッてのも変だが、そう意地にかかってついて来られちゃア私が歩きにくくてしようがございません。もういいかげんに、ここらでなんとか一つ話をつけていただいて、手前も考えなおしとうございます、へい」
「つける。……と申して、おれは貴様をつけた覚えはないぞ。第一貴様こそ始終おれの前に立って、歩きにくくてかなわん。いったいどこへ行くのだ」
「ヘヘヘヘ、御冗談で」
「ヘヘヘヘではない、いずこへ参るのかとそれをきいておるに」
「へえ。実はその、松島――へえ、松島見物でございます。松島やああ松島や松島や……」
「春に向かって松島見物とは結構な身分だな」
「ナニ、あまり結構でもございません」
「いや、結構だ。遠く俗塵《ぞくじん》を離れて天然の妙致《みょうち》に心気を洗う。その心がけがたのもしいぞ」
「恐れ入ります」
「なあに、恐れ入らんでもよい。おれもその松島へゆく途中だ。同道いたそう」
「え? では、あの、先生も松島へ?」
「さよう。一生に一度は見ておいてもよいところじゃからナ」
「ちッ! 仕方がございません。与吉もあきらめました。りっぱにお供しやしょう」
「これこれ、与吉と申したな。ただいまの挨拶はなんだ?」
「いえなに、こっちのことで――ごいっしょに行けばよろしいんでございましょう? ええ参りますとも! 松島だって、どこだって、こうなりゃ……」
「ア、これこれ与吉、黙って来るがよい」
 そこで。
 仏頂面の与吉と、笑いを噛みしめていかめしい顔を作った泰軒とが、妙なふうに肩を並べて歩き出したまではいいが、この二人の奇体な取合せに、朝早くさく山の町へ用たしに出る百姓などが驚いて道をよけている。
「先生! 先生はいつ江戸をおたちになったんで? たいそうおみ足が早うございますな」
「はははは、お前が松島に向かったと聞いてな、わしも急に思い立って出て来たのだ。足の早いのは貴様こそ、親は飛脚《ひきゃく》ででもあったかな?」
「かなわねえや先生にゃア」
 なんとかほどよくばつを合わせて歩きながら――。
 つづみの与の公、心中ひそかに思えらく。
 これはなんといっても相手が悪い。今ここで下手《へた》にあがこうものなら、かえってだにのように食いつきとおして、いっそうおもしろくないことになろうから、いいかげんにあしらっておいて、奥州本街道から横にはずれて相馬へ出ようとする福島の町ででも器用にずらかってやることにしようと。
 泰軒は泰軒でまた胸
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