とかして諏訪栄三郎が左膳の手から乾雲丸を奪い返したのちに、一気に彼ら醜類《しゅうるい》のうえに、大|鉄槌《てっつい》をくだそうとは思っているが、それかといって、奉行の地位にある者がみだりにわたくし事に手をかすこともできず、このところさすがの忠相も公私《こうし》板ばさみのかたちでいささか当惑していたのだったが――。
ちょうどその時、
きょう風のように乗りこんで来た心友蒲生泰軒、そのかげに隠れるようについている女をチラと見るが早いか、いつぞやそれが田原町二丁目の家主喜左衛門から尋ね方を願い出ている当り矢のお艶という女であることを、人相書によって忠相はただちに見てとっていた。
そのお艶は、坤竜の士諏訪栄三郎と同棲していたので、所在《ありか》がわかったときも、そっとしておけ! と、わざと喜左衛門へしらせなかったくらいだったのが、いまどうして泰軒といっしょにここへ来たのであろう?――忠相はこうちょっと不審に思っていた。
おおよそかくのごとく。
その強記《きょうき》はいかなる市井《しせい》の瑣事《さじ》にも通じ、その方寸には、浮世の大海に刻々寄せては返す男浪《おなみ》女浪《めなみ》ひだの一つ一つをすら常にたたみこんでいる大岡忠相であった。
南町奉行大岡越前守忠相様。
明微洞察《めいびどうさつ》神のごとく、世態人情の酸《す》いも甘《あま》いも味わいつくして、善悪ともにそのまま見通しのきくうえに、神変不可思議《しんぺんふかしぎ》な探索眼《たんさくがん》には、いちめん悪魔的とまで言いたい一種のもの凄さをそなえているのだった。
と!
ふと蒲生泰軒のあたまに閃《ひら》めいたのは、いつか本所の化物屋敷に自分と栄三郎が斬りこみをかけた時突如として現れた、あの始終を知るらしい五梃|駕籠《かご》のことであった。
風のような火事|装束《しょうぞく》の五人の武士!
その正体は今もってわからないが、あのなかの頭《かしら》だった老人! と思い当たると、なぜか彼は、忠相がすべてを察知しているわけが読めたような気がして、その時まで碁盤をにらんでいた顔をあげると泰軒、ニッと忠相に笑いかけた。
しかし、忠相はその微笑にこたえなかった。
「なあ、蒲生!」
と、じっと盤を見つめていたが、
「どうする気だ、その碁を」
「もとよりあくまでもやる! 運命の二石をひとつにするまでは」
「貴公らしいて」
しずかにつぶやいた忠相、盤上の黒の一石を手にして、つうとそばのほうへそらしながら、
「さあ、泰軒、かようにひとつが助勢を求めて走っておるぞ。どうじゃ、どうじゃ、どうするつもりじゃ? これに対する処置は」
「ナニ! 助勢を? 誰がどこへ……?」と思わず泰軒、碁《ご》をそっちのけに乗りだすと、忠相は手の石で盤をパチパチたたきながら、
「泰軒! 碁だ、碁だ――が、サア、まず求援の使いの向かう方角は……」
「うむ。その方角は……」
「さればさ――さしずめ、北のかたかな」
こう言い放っておいて、忠相はジロリと泰軒を見やった。
一石駆けぬけて援軍を求めに走りつつある――しかも、その方角が北のかた!
という忠相の言葉に、蒲生泰軒はキッとなって盤をにらんだ。
いかさま、ひとつの黒い石が、忠相の手によって黒団を離れ、碁盤の隅に孤独の旅をいそぎつつあるように見える。
これこそ、奥州中村相馬藩の城下へ、左膳のために剣客のむれを呼びに草まくらの数を重ねつつあるつづみの与吉のすがたではなかろうか。
「サ! どうする? どうする気じゃ?」
忠相はこううながすように言って泰軒を見た。
じっと石の配置に眼をすえたまま、泰軒は動かない。そのかげに身をすくませているお艶も、いつしかこの碁戦の底にひそむ真剣なかけひきに釣りこまれて、われを忘れて、横のほうからのぞきながら、見入り聞き入りしているのだった。
外見はあくまでも閑々《かんかん》たる風流|烏鷺《うろ》のたたかい……。
陽のおもてに雲がかかったのであろう、障子いっぱいに射していた日光がつうとかげると、清冽《せいれつ》な岩間水に似たうそ寒さが部屋をこめて、お艶は身震いに肩をすぼめた。
「泰軒、下手《へた》の考えなんとかと申すぞ。なあ、この石をいかがいたすつもりなのだ?」
かすかな揶揄《やゆ》をふくんだ越前守の声。
が、泰軒は答えない。大きな膝が貧乏ゆるぎをしているのは、まさに沈思黙考というところらしい。
すると忠相は、やにわにひとつかみの黒い石を取り出して、援軍をもとめに行きつつあると言った石のまわりに並べた。
「見るがよい。この通り首尾よく同勢を集めて、今やもとへ戻ろうとしておる。この対策はどうじゃな?」
「ふむ! 仔細《しさい》ないわ。こういたしてくれる」
言ったかと思うと泰軒、手もとの白石《しろ》のひとつをとって、パチリとその新たなる黒の集団の真ん中へ入れた。
忠相は首をひねって、
「ははあ。そう出向いていくか」
「さよう。かくして帰路の途中、せいぜい数を殺《そ》ぐのじゃな。まず、ひとつ二つと機会あるごとにしとめて――」
といいながら、泰軒は、いま白をおいた周囲から黒石の二、三を取ってのける。
「かようにいたして、帰るまでにはもとの木阿弥《もくあみ》にしてやろうと思う」
「ウム! それがよい!」
と忠相は膝を打って、
「急ぎ後を追って、せっかくの助軍を斬りくずすことじゃ……何しろ、この援兵を敵の本城へ入れてはならぬ。俗にも申す多数に無勢、勝ちいくさが負けになろうも知れぬからな。が、はたしてそううまく参ろうかの?」
「何がだ?」
「ただいまの、帰路を擁《よう》して徐々に援助の隊を屠《ほふ》るという戦法――」
「それはこの石の手|腕《うで》ひとつにある。この石! この石! この、おぬしのいわゆる薄よごれた石じゃ!」
こう豁然《かつぜん》と胸をたたいて泰軒が笑うと、忠相もおだやかな微笑をほころばせながら、
「たのもしい石じゃて」
とチラと泰軒の顔を見やったが、やがて、
「北……と申せば道は一本みち。ただちに発足すればわけなく追いつくであろう」
「北の旅は荒谷行《こうやこう》――血を流すにはもってこいじゃ」
「が、大事な石、ぬかりはあるまいが気をつけてくれ」
「心配無用!」
言い放った泰軒、助けの石と称する黒のかたまりをすっかりわが手に納めてしまうと、いきなり二つの白石を摘まみあげるが早いか、盤の隅の黒団へ突き入れて、同時にすべてをさらいおとした。
盤上に残った黒白ふたつの石、それが中央にピッタリ並んでいる。
「もうよい! わかった」
と忠相は、ゆったりとふところ手をして、
「わしのほうの仕事はそのうえ……あとは必ずわしが引き受けるから、それまでにおぬしが力を貸して、この二石をひとつにしてくれ」
ふっと碁談がやむと、白っぽい午さがりのしずけさのなかで、どこか庭のむこうで愛犬の黒がなくのが聞こえた。
いかにして忠相は、いながらにして乾雲を取りまく一味の助勢を掌《たなごころ》を指すように知っているのか、それがふしぎと言えばふしぎだったが、忠相の今の口ぶりでは、誰か本所化物屋敷の者が、北藩中村へ助剣を求めに走っていること、疑いをいれない。
では、すぐにこれから!――と泰軒が起ちあがると、忠相がそれを眼でとめた。
「蒲生! 忘れ物……」
と、すばやい視線がお艶へ向いている。泰軒はとぼけた。
「旅は身軽が第一――ハッハッハ、この荷物は当分おぬしに預けておくとしよう!」
そして、困りきって苦笑している越前守忠相と、もったいなさに消え入りたげに小さくなったお艶を残して、そのとたんに、庭に面した障子はもう泰軒をのんでいた。
北国旅日記《ほっこくたびにっき》
「親方ア! 返り馬だあ。乗ってくらっせえよ」
という鼻から抜ける声とともに、間伸びした鈴の音が、立場茶屋の葦簾《よしず》を通して耳にはいると、江戸者らしい若い小意気な旅人が、ひとり飲みかけた茶碗を置いて振り返った。
縞の着物に手甲|脚袢《きゃはん》、道中合羽に一本ざし、お約束の笠を手近の縁台《えんだい》へ投げ出したところ、いかにも何国の誰という歴《れっき》として名のあるお貸元が、ひょんな出入りから国を売ってわらじをはいているように見えるものの、さて顔を眺めると……まぎれもないあさくさ駒形の兄哥《あにい》つづみの与吉。
こいつ、櫛まきお藤の隠れ家でのんべんだらりとお預けをくっているはずなのが、それがある朝、ヒョイと思い出したのが丹下の殿様から言いつかっている大事の御用――こりゃアいけねえ、おらあこんなところにいい気に引っかかっていられるわけのもんじゃアねえんだ! と思いついたのが足の踏み出し、お尻の軽いことこの上なしという野郎だから、お藤の姐御《あねご》が先月から家をあけているのと折柄の好天気を幸いに、そそくさとわらじの紐をはきしめて、こうして奥州中村への旅に出て来たのだった。
影と二人づれの、まことに気の合う旅まくら……。
なあに、丹下様はどんなに急いでいたってかまうこたアねえやな。こちとらアもらった路銀をせいぜいおもしろおかしく散《さん》じてヨ、それに帰路《かえり》はお侍連の東道役《とうどうやく》、大いばりで江戸入りができようてんだからこんなうめえ話はねえサ。おまけにおいらのこの中村行きは誰ひとり知る者もねえはずだから、栄三郎の側から追っ手の来る心配もなし――ままよ、江戸ッ児の気晴らし旅、まあ、ゆっくりとやるとしよう。
こういう心だから急げば早い足を格別伸ばそうともせずに、泊りを重ねてこの昼すぎちょうどさしかかったのが野州の小金井だ。
古河の町は、八万石土井|大炊頭《おおいのかみ》の藩で江戸から十六里。
その古河を今朝たって野木、間々田《ままだ》、小山、それから二里の長丁場《ながちょうば》でこの小金井。
道中細見記をたどれば、江戸から中村まで七十八里とあるから、つづみの与の公、まだ前途|遼遠《りょうえん》という次第だが、心がけが遊山気分で、いっこうに足を早めようともせず、こうして日の高いうちからどっかり腰をおろし茶店の老爺《ろうや》を相手に大いに江戸がっているところ。
白い街道にやけに陽が照りつけて、真冬に北へ向かうのだからどんなに寒かろうと内心おびえて来たにもかかわらず、今日なんかは江戸よりもよっぽどあたたかいくらい。
それでもさすがに底冷たい風が砂ほこりを吹きこんで、名物と銘《めい》うった団子がザラザラと舌にさわる。ちょいと趣の変わった木立ちや人家、黒ずんだ遠田《とおた》のおもて、路傍に群れさわぐ子供らの耳なれない言葉……。
江戸っ児はうち弁慶《べんけい》、旅に出てはからきし意気地がないという。
与吉もその点では御多聞に洩れず、なんだかしきりに心細い気がしてくるのを、自分で懸命に引きたてるつもりで、
「旅もいいが、こちとらみてえな生え抜きの江戸っ児は、一歩お膝下《ひざもと》を出はずれるてえと、食物と女の格がずんと落ちるのに往生するよ。女はお前、肌をみがく水が悪いとして眼エつぶるとしてもヨ、食物はなんでえ食物は!」
「へえ。そうかね」
「チッ! そうかねえじゃねえや。早え話がこの団子よ、こ、こんな物が食えるけえ。これで名物のなんのとチャンチャラおかしいや。なア、江戸じゃあこんな団子は猫も食わねえんだよ」
「あんれ! ここらの猫もハア団子アあんまり食わねえだよ」
「何をッ! 馬鹿にするねえ! えこう、江戸じゃあナ、まあ聞きねえってことよ。金竜山《きんりゅうざん》浅草寺《せんそうじ》名代の黄粉《きなこ》餅、伝法院大|榎《えのき》下の桔梗屋安兵衛《ききょうややすべえ》てんだが、いまじゃア所変えして大|繁昌《はんじょう》だ。馬道三丁目入口の角で、錦袋円《きんたいえん》と廿軒茶屋の間だなあ。おぼえときねえ」
なんかと頼まれもしない浅草もちの広告《ひろめ》に力こぶをいれて、一人|弁舌《べんぜつ》をふるっていると、
「親方ア、馬はどうだね、安くやんべえよ」と、またしても馬子の声。
与吉は大いに業《ごう》を煮やし
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