りがたいお言葉!
 なんというお情けぶかい!
 お顔を拝んだら眼がつぶれるかも知れぬが、これ以上|御辞退《ごじたい》申すはかえって非礼と、お艶は、はいとお応《こた》えするのも口のうちに、そこは女、手早く裾の土を払い髪をなおして、おそるおそるあがりこむと、お部屋のすみにべたりと手を突いた。
 お顔を拝むどころか、カッと眼がくらんで、うしろの障子をしめる手もワナワナとふるえる。そのまま泰軒のかげに小さくなった。
 と、越前守忠相、はいって来たお艶へは眼もくれずに、すでに悠然《ゆうぜん》と泰軒へ向きなおって、他意なくほほえんでいる。
「わっはっはッ!」
 何を思ってか、泰軒は突如煙のような笑い声をあげた。すると、しばらくして忠相も同じように天井を振り仰いで笑った。
「あッはっはっは!」
 しぶい、枯れたお奉行様のわらい声……お艶がいよいよ身をすくめていると、忠相はみずから立って床《とこ》の間《ま》から碁盤《ごばん》をおろして来た。
「泰軒、ひさしぶりじゃ。一局教えてつかわそう」
「何を小癪《こしゃく》な! 殿様の碁の相手だけはまっぴらだが、貴公なら友だちずくに組《くみ》しやすい。来い!」
「友達ずく――と申すが、私交は私交、公はおおやけ……混同いたすな」
 なぜか泰軒はグッとつまったかたち。
 その前へ盤を据えた越前守、たちまち黒白ふたつの石をぴたりと盤面へ置いて、
「サ、蒲生! この黒い石と白い石――相慕い、互いに呼びあう運命のきずなじゃ。どうだな……?」
 驚愕のいろを浮かべた泰軒、ううむ! とうなって忠相を見あげた。
 パチリ!……と盤面にのった二つの石。
 ひとつは白、他は黒。
 これが相慕い、たがいに求めあう運命のきずなじゃ――という、思いがけなくも委細を知るらしい越前守忠相のことばに、泰軒は、ううむとうなって忠相を見た眼を盤へおとして、ガッシと腕を組んだ。
 うしろのお艶も、何がなしに、はっと胸をつかれて呼吸をのむ。
 が、忠相は平々然……。
 しばらくじっと盤上の二石を見つめていたが、やがて、ウラウラ障子に燃える陽光におもてを向けて、夢語《むご》のごとくにつづけるのだった。
 あかるい光が小ぢんまりした茶室いっぱいにみなぎって、消え残る香のけむりが床柱にからんでいる。
 この二、三日急に春めいて来たきちがい陽気、こうしていてもさして火の恋しくない、梅一輪ずつのあたたかさである。
 凝《こ》りかたまったようなしずけさの底に、盤をへだてた泰軒と忠相――。
「黒白、ふしぎな縁じゃ……としか言いようがない。が、こう二石離れれば?」
 と忠相、もの憂《う》そうに手を出してふたつの石を盤の隅へ隅へ遠ざけてみせると。
 黙ったまま碁笥《ごけ》をとった泰軒は、やにわにそれを荒々しく振り立てた。無数の石の触れ合う音が騒然と部屋に流れる。
「ふうむ」と忠相は瞑目《めいもく》して、「いわば擾乱《じょうらん》、災禍《さいか》――じゃな。して、こうなればどうだ?」
 いいながら忠相は二つの石をピッタリと密着して並べる。
 泰軒はにっこりして静かに碁笥を下に置いた。そして、両手を膝にきちんと正面から忠相を見る。
「まず、こうかな」
「うむ! 鎮定礼和《ちんていらいわ》の相か。そうか。おもしろい」
「が、だ……」と言いかけた泰軒、にわかに上半身を突きだして忠相を見あげながら、「おぬし、どうして知っとる?」
 と! 大岡越前守忠相、快然と肩をゆすって哄笑《こうしょう》した。
「碁《ご》だ! 碁だ! 泰軒、碁のはなし、碁の話」
「ああ、そうだ。碁だったな。碁のこと碁のこと――こりゃと俺がよけいなことをきいたよ。しかしそれにしても……」
「蒲生!」と低い声だが、忠相の調子は冷徹氷のようなひびきに変わっていた。「わしはな、なんでもしっておる。長屋の夫婦喧嘩から老中機密の策動にいたるまで、この奉行の地獄耳に入らんということはない。な、そこで碁といこう。さ、一局参れ」
「うむ」
 と、沈痛にうなずきはしたものの、泰軒は盤面を凝視したまま、いつまでも動かずにいた。
 ふたたび無言の行《ぎょう》――。
 いつものこととはいえ、泰軒はいまさらのように畏友《いゆう》大岡忠相の博知周到《はくちしゅうとう》に驚異と敬服の感をあらたにしておのずから頭のさがるのを禁じ得ないのだった。
 古今東西を通じて判官の職にありし者、挙《あ》げて数うべからずといえども、八代吉宗の信を一身にあつめて、今この江戸南町奉行の重位を占めている忠相にまさる人物才幹はまたとなかったであろう……人を観るには人を要す。これ蒲生泰軒は切実にこう感じて、こころの底からなる恭敬の念にうたれたのだ。その畏怖の情に包まれて、さすがの放胆泰軒居士も、ついぞなく、いま身うごきがとれずにいる不動金縛《ふどうかなしば》り。
 思わず固くなった巷の豪蒲生泰軒。
 にこやかに温容《おんよう》をほころばせている大岡越前守忠相。
「いかがいたした蒲生。貴公、戦わずして旗をまく気か……さあ、来《こ》い。碁談の間にいい智恵の一つ二つ浮かぼうも知れぬというものじゃ。ははははは」
 と碁石を鳴らしていどみかけた忠相。何を思ったか今度は急に小さな声でひとりごとのようにいい出した。
「東照宮どの、ときの奉行に示して曰く、総じて奉行たる者あまりに高持すれば、国中のもの自ら親しみ寄りつかずして善悪知れざるものなり。沙汰《さた》という文字は、沙《すな》に石まじり見えざるを、水にて洗えば、石の大小も皆知れて、土は流れ候《そうろう》。見え来らざれば洗うべきようもなし。これによりて奉行あまりに賢人ぶりいたせば、沙汰もならず物の穿鑿《せんさく》すべきようもなし――と。とかくこの奉行のつとめは厄介《やっかい》なものじゃよ、ははははは、蒲生、察してくれ」
 蒲生泰軒、この世に生をうけはじめて、人のまえに頭をさげたのだった。

 碁盤《ごばん》をまえに、大岡忠相はまた誰にともなく言葉をつづける。独語のあいだにそれとなく意のあるところを伝えようとするかれのこころであった。
「またのとき、東照宮家康公、侍臣にかたって曰く――いまどきの人、諸人の頭《かしら》をもする者ども、軍法だてをして床几《しょうぎ》に腰を掛け、采配《さいはい》を持って人数を使う手をも汚さず、口の先ばかりにて軍《いくさ》に勝たるるものと心得るは大なる了簡《りょうけん》違いなり、一手の大将たる者が、味方の諸人のぼんのくぼを見て、敵などに勝たるるものにてはなし……これは軍事のおしえじゃが、和時《わじ》における奉行の職務は、すなわち、邪悪を敵とする法のたたかいである。ゆえに、いま善軍の総大将たる奉行が、いたずらに床几に腰をかけ、さいはいを振って人を使いながら自らは手をもよごさず、口さきばかりで構えておってはどうなるものでもない。諸人の後頭部《ぼんのくぼ》を見て閑法をかたるひまに、数歩陣頭に進んで敵の悪を見さだめるのじゃ――いってみれば、身を巷に投ずる。民の心をわが心として親しくその声を聞き、いや、この忠相じしんがすでに民のひとりなのじゃ……王道の済美《さいび》はここに存すると、まあ忠相はつねから信じておるよ、はっははは、おっと! これも碁の戦法! な、蒲生、だからわしはとうの昔からすべてを知っておる、何からなにまでスッカリ調べが届いているのみか、もうそれぞれに手配ができておるのじゃから、安心して――」
「安心して、ひとつ碁といくか」
「さよう。安心して碁と来い」
 ふたりはすばやく顔を見合って、同時に爆発するように笑いの声をあげたが、泰軒はすぐさま真顔になって、
「しかし、こうのんびりと碁を打っておるあいだに、おぬしの張った網のなかの大魚は、だいじょうぶだろうな?」
「まず逸《いっ》する心配はない」
「さようか……しかし」と泰軒は盤のうえの黒白ふたつの石をさして、「こう――この石がともに当方の手に帰せんうちに、いま先方を引っくくられては、こっちが困るぞ」
「さ、そこが私事と公法。わしの苦衷《くちゅう》もその間にあるよ。この二石……」
 手を伸ばした忠相、ふたつの石を左右にひき離しながら、
「これが目下の状態。しからば当分このままにして傍観するか」
「うむ。早晩必ずこうして見せる」
 泰軒の手で、また二つの石がひとつになる。
「そうか。だが、今のところは――」
 と忠相は黒の石を手もとへひいて、そばへもうひとつ、同じく黒をパチリと置いた。
「これはこれに属しておるナ」
「そんなら、こっちはこうだ」
 いいつつ泰軒も、白に並べて白の石をひとつ、力強く打って忠相を見る。
「フウム!」と腕をこまねいた忠相、「が、泰軒、黒には黒で仲間が多いぞ」
 と、ガチャガチャとつかみ出した黒の石を、べた一面に並べて、もとの黒石をぐるりとかこんでしまった。
「おどろかん。ちっともおどろかん」
 にっこりした泰軒は、すぐに白の一石をとって白の側へ加えた。
「そっちがその気なら、ひとつこういくか。助太刀御免というところ……」
「ハハハハ!」忠相は笑いだした。「気のせいか、いまおぬしのおいた石はどうも薄よごれておるわい、天蓋無住《てんがいむじゅう》の変り者じゃな、それは、はっはははは」
「こりゃ恐れ入った! おぬしの眼にもそうきたなく見えるかナ――」
 と、泰軒、首をひっこめてあたまをかきながら、
「それもそうだが、はじめに黒の一石をわが有《ゆう》にしたそっちの石も、つまり見事な男ぶり……いやなに、石振りではないはずだぞ。虧《か》けとる、ハッハッハ右が欠《か》ける」
「お! そうだったな。眼糞《めくそ》鼻糞《はなくそ》を笑うのたぐいか――しからば、これはどうだ?」
 忠相はこういって、石入れの底のほうから欠けた黒の石を取り出して黒団の真ん中へ入れた。
「この不具の石、名もところも素姓も洗ってある。水にて洗えば土は流れて、石の大小善悪もすべて知れ申し候……じゃ、サ、泰軒、いかがいたす?」
 迫るがごとき語調とともに、碁によせて事を語る越前守忠相。
 奉行なりゃこそ、そうしてまた泰軒が私交の親友なればこそ、こうして公私をわけながら一つに縒《よ》って、何もかも知りつくした二つの胸に智略戦法の橋を渡す――虚々実々《きょきょじつじつ》の烏鷺談議《うろだんぎ》がくりひろげられてゆくのだった。
 泰軒のかげに隠れたお艶は、わからないながらにどうなることかと息をこらしている。

 昨暮、あさくさ歳の市の雑踏で。
 丹下左膳がつづみの与吉を使って諏訪栄三郎へ書き送ったいつわりの書状……それを栄三郎が途におとしたのを拾いあげた忠相は、第一に文字《もじ》が左手書きであることを一眼で看破したのだった。
 ひだり書きといえば左腕。ひとりでに頭に浮かぶのが、当時御府内に人血の香を漂わせている逆|袈裟《けさ》がけ辻斬り左腕の下手人だ。
 ことに手紙の内容は、何事かが暗中に密動しつつあることをかたっている!
 これに端緒《たんちょ》を得た忠相は、用人に命じ、みずからも手をくだして乾坤二刀争奪のいきさつから、それに縦横にまつわる恋のたてひきまで今はすっかり審《しら》べあがっているのだった。
 が、奥州浪人丹下左膳の罪科、本所法恩寺橋まえ五百石取り小普請《こぶしん》入りの旗本鈴川源十郎方の百鬼|昼行《ちゅうこう》ぶりはさることながら、いまこれらを挙げてしまっては、それを相手に勢いこんでいる泰軒、栄三郎が力抜けするであろうし、またこの二人をも刀のひっかかりからお白洲《しらす》に名を出さねばならぬかも知れぬ。
 それに、鈴川源十郎のうしろには小普請組支配頭|青山備前守《あおやまびぜんのかみ》というものがついていて、鼠賊《そぞく》をひっとらえるのとはこと違い、源十郎を法網にかけるためには一応前もってこのほうへ渡りをつけなければならないし、丹下左膳には、奥州中村の相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》なるれっきとした外様《とざま》さまの思召《おぼしめ》しがかかっていてみれば、いかに江戸町奉行越前守忠相といえども、そううかつに手を出すわけにはいかない。
 で、なん
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