ん》ふちつきの床、洞庫《どうこ》、釣棚《つりだな》等すべて本格。
 道具だたみの前の切炉《きりろ》をへだてて、あるじの忠相と蒲生泰軒が対座していた。
 あるかなしかの風にゆらいで、香《こう》のけむりが床《ゆか》しく漂《ただよ》う。
 越前守忠相、ふとり肉《じし》のゆたかな身体を紋服《もんぷく》の着流しに包んで、いま何か言いおわったところらしく黙ってうつむいて手にした水差しをなでている。
 茶筅《ちゃせん》、匙《さじ》、柄杓《ひしゃく》、羽箒《はねぼうき》などが手ぢかにならんで、忠相はひさかたぶりの珍客泰軒に茶の馳走をしているのだった。
 そういえば今は初雪の節、口切りとあってきょう初めて茶壺をあけたものとみえる。
 ぼつんと切り離したような静寂《しじま》、忠相は眼を笑わせて泰軒を見た。
「わしの茶は大坂の如心軒《じょしんけん》に負《お》うところが多い、大口如心軒……当今茶道にかけてはかれの右に出るものはあるまい、風流うらやむべき三昧《さんまい》にあって、かぶき、花月、一二三、廻り炭、廻り花、旦座、散茶、これを七事の式と申して古雅なものじゃが、如心軒が古きをたずねて門下に伝えておる――」
 こう言って忠相はふたたびほほえんだが、泰軒には茶のはなしなぞおもしろくもないのか、それとも何か気になることでもあるのか、つまらなそうに横を向いて、障子の明るい陽にまぶしげに眼をほそめている……無言。
 忠相は動《どう》じない。委細かまわずに語をつづけるのだった。
「茶には水が大事と申してな、京おもてでは加茂《かも》川、江戸では多摩《たま》川の水に限るようなことをいう向きがあるが、わしなぞはどこでもかまわん。まだそこまでいっておらんのかも知れんが、水を云為《うんい》するなど末だと思う。近いはなしがこれは屋敷の井戸水じゃが、要するに心じゃ。うむ、お茶の有難味はこの心気の静寂境にある。どうじゃなお主《ぬし》、いま一服進ぜようかの?」
「いや、茶もいいが、どうもあとの講釈がうるそうてかなわん。あやまる」
 泰軒がとうとう正直に降参して頭をかくと、越前守忠相、そうら見ろ! というように上を向いてアッハッハハと笑ったが、すぐにまじめな顔に返ってじろりと泰軒を見すえた。
 沈黙、
 泰軒は何か用があって来は来たものの、その用むきが言い出しかね、忠相はまた忠相で大体泰軒の用件がわかっていながら、自分からすすんではふれたくない――といったようなちょっとぎごちない間がつづいている。
 忠相がふきんを取って茶碗をみがく音だけが低く部屋に流れて、泰軒は困ったように腕ぐみをした。
 いつも深夜に庭から来る蒲生泰軒、きょうも垣を越えて忍んで来たのかと思うとそうではない。かれとしては未曾有《みぞう》のことには、さっきこうして真《ま》っぴるまひょいと裏門からはいって来たのだが、いかなる妖術《ようじゅつ》を心得ているものか、誰ひとり家人にも見とがめられずに、植えこみづたいに奥へ踏みこんで、突如この茶室のそとに立ったのだった。
 あいも変わらぬ天下|御免《ごめん》の乞食姿、六尺近い体躯に貧乏徳利《びんぼうどくり》をぶらさげて、大髻《おおたぶさ》を藁《わら》で束ねたいでたちのまま。
 おりからひとり茶室にこもって心しずかに湯の音を聞いていた越前守、ぬっと障子に映る人影に驚いて立っていくと、
「わっはっは、当屋敷の者はすべて眠り猫同然じゃな。このとおり大手をふってまかり通るにとめだていたすものもない。おかげで奉行のおぬしに難なく見参がかなうとは、近ごろもって恐縮のいたり――いや、憎まれ口はさておき、ひさしぶりだったなあ」
 という無遠慮《ぶえんりょ》な泰軒の声。
「おう! よく来た!」
 と笑顔で迎えながら泰軒のうしろを見た忠相、ちと迷惑《めいわく》な気がしてちらと眉をひそめたのだった。泰軒はひとりではなかった。
 そのかげに肩をすぼめてうなだれた若い女……それは今もこの茶室の縁口まえに小さく身を隠して平伏している。
 言わずもがな、瓦町の家を抜けて来たお艶であった。
 じぶん故《ゆえ》にかわいい栄様を古沼のような貧窮の底へ引きこんでいるさえあるに、そのうえ、あの丹下左膳という怖ろしいお侍から乾雲丸を取り戻して夜泣きの名刀をひとつにするためにも、わが身が手枷《てかせ》足枷《あしかせ》のじゃまとなって、どれだけ栄三郎さまのおはたらきをそいでいることか……。
 しかも!
 もとはといえば、すべて栄さまが自分を思ってくだすって、弥生《やよい》様のおこころを裏切り、自敗をおとりなされたことから――と思うと、このお艶というものさえなければ、栄三郎さまの剣も自ままに伸びて力を増し、まもなく乾雲丸とやらをとり返して弥生様へお納め申すことであろうし、そしてそうなれば、もとより先様は亡き先生の一粒種、御身分お人柄その他なにから何までまことにお似合いの内裏雛《だいりびな》……こちらのような水茶屋女なぞどうなっても、お艶は栄さまを生命かけてお慕い申せばこそ、その栄三郎さまの栄達、しあわせにまさるお艶のよろこびはござりませぬ。
 ただ、この身が種をまきながら、こうして栄さまをひとりじめにしていては四方八方すまぬところだらけ――今日様《こんにちさま》に申しわけなく、そら恐ろしいとでもいいたいような。
 自分さえなければ万事《よろず》まるく納まりそう。
 得るも恋なら、退くも恋。
 いつぞやの夜、ともに泣いた弥生さまの涙を察するにつけても、あきもあかれもせぬ栄三郎様ではあるが、ここはひとつあいそづかしをして嫌われるのが第一……。
 それが何よりも栄さまのおため。
 つぎに、お刀と弥生様への義理。
 また、ひいては江戸のおなごの心意気、浮き世の情道でもあると、こうかたく胸底に誓ったお艶、うしろ姿に手を合わせながらさんざん不貞《ふて》くされを見せたあげく、ああしたいい争いの末、とうとう若いひたむきな栄三郎を怒らせたものの、それだけまたお艶の心中は煮え湯を飲まされるよりつらかったことでしょう。
 栄三郎様はこのお艶の心変りを真《ま》にとって、ああア、さても長らく悪い夢を見た――と嘆いていられるに相違ないが……と考えると、弱いこころを義理でかためて鬼にしたお艶であったが、ともすれば気がにぶって、できるものなら詫《わ》びを入れて元もとどおりにとくじけかかるのを自ら叱って、栄三郎が出ていったあと、来合わせた蒲生泰軒にすべてを打ち明け、今後の身の振り方を頼んだのだった。
 黙然《もくねん》、松の木のような腕を組んで聞いていた泰軒の眼から、大粒の涙がホロリと膝を濡らすと、かれはあわてて握りこぶしでこすって横を向いてすぐ大声に笑い出した。頬髯《ほおひげ》が浪をうって、泰軒はいつまでも泣くような哄笑をつづけていた。
 そして最後に、
「いや。それもおもしろかろう。さすがは栄三郎殿がうちこむほどの女だけあって、お艶どの、あんたは見あげた心がけじゃ。この上は栄三郎殿も力のすべてを刀へ向けて必ずや近く乾雲を奪還することであろうが、さ、そうなった日にはまたあらためて相談、決してこの泰軒が悪いようにはせぬ。きっとそちこちあんたの身の立つようにまとめて見せるから、いわばここしばらくの辛抱《しんぼう》……栄三郎殿にもあんたにも気の毒だが、では、一刻も早くここを出るとしようか」
 ということになって、お艶は泣きじゃくりながら身のまわりの小物を包みにして、しきりに鼻をかんでいる泰軒とともに、栄三郎の帰らぬうちにと、そろって瓦町の侘《わ》び住居を立ちいでたのだった。
 うしろ髪を引かれる思いのお艶と、磊落《らいらく》に笑いながら胸中にもらい泣きを禁じ得ない蒲生泰軒先生と――。
 爾来《じらい》数日。
 野良犬のごとく江戸のちまたに夜《よ》な夜《よ》なの夢をむすんだお艶を、諏訪栄三郎になりかわって、豪侠泰軒がちから強く守っていた。
 この女子は栄三郎殿からの預り物……こう思うと泰軒、たとえ一時にしろ、お艶の身の落ち着き方を見とどけなくてはすまされぬ。
 が、家のない身に女の預り物は、さすがの楽天風来坊にも背負いきれぬお荷物になってきた。
 そこで、考えあぐんだのち、はたと思いついたのが蒲生泰軒のこころの友、今をときめく江戸町奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》――。
「今日はちと肩の凝《こ》るところへ案内をして進ぜよう、だまってついて来なさい」
 こう言って泰軒は、貧乏徳利とお艶をつれて首尾の松の小舟をあとに、白昼うら門からこのお屋敷へはいりこんだのだ。
 どこだろうここは……と泰軒の影にかくれて、おずおず奥庭のお茶室まで来たお艶、でっぷりふとった品《ひん》のいいお殿様と、泰軒先生との友達づきあいの会話のあいだに、このお方こそほかならぬ南のお奉行様と知るや、ここで待つようにと泰軒に言われた縁下の地面に土下座して、いっそう身も世もなくちぢまる拍子に、白い額部《ひたい》が土を押した。
 室内にはまだ沈黙がつづいている――。
「黒!」
 越前守忠相は、あいている障子の間から縁ごしに声を投げた。
 躍るように陽の照る庭さきに、一匹の大きな黒犬が、心得顔に前肢《まえあし》をそろえて見ている。
 宇和島|伊達《だて》遠江守殿から贈られた隣藩土佐産の名犬、忠相の愛する黒というりこうものである。
「黒よ! いかがいたした」
 忠相はのんびりとした顔つきで、また、部屋のなかから犬に話しかけた。黒は尾を振る。
 春日|遅々《ちち》として、のどかな画面。
 ようよう茶ばなしがすんだと思うと、こんどは犬だ。
 相対してすわっている泰軒は、気がなさそうに、それでも黙って黒を見ているだけ……いつになくいささか不平らしい。
 この室内のふたりのところからは縁のむこうの土にすわっているお艶の姿は見えないけれど、お艶はクンクンという異様な音にかすかに顔をあげてみて、見たこともない大きな黒犬が身近く鼻を鳴らしているのに気がつくと、怖《こわ》さのあまり、思わず声をあげて飛びあがろうとするのを、ぐっとおさえて再び平伏した。
 が、よく馴れている犬。
 べつに害をしそうもないのに安心して、お艶がほっと息を洩らしたときだ。
 部屋のなかでは、忠相が威儀《いぎ》をただして、小高い膝頭をそろえたまま庭のほうへ向けたらしい。すわりなおす衣《きぬ》ずれの音がして、やがて、
「黒! ここへ来《こ》い!」
 りんとしたお奉行さまの声。
 犬は無心に耳を立てて、お答えするもののごとく口をあけた……わん! うわん! わん!
「おお、そうか――」
 とにっこりした越前守、チラとかたわらの泰軒へすばやい一|瞥《べつ》をくれながら、
「来い! あがってこい! 黒……」
 犬はただしきりに首をねじまげて、肩のあたりをなめているばかり――神のごとき名判官の言葉も畜生のかなしさには通じないとみえて、お愛想どころか、もうけろりとしている。
 それにもかかわらず忠相は大まじめだった。
 いくら愛犬とは言いながら、ほんとに黒を茶室へ呼びあげる気なのだろうか……忠相は、キチンと正座して縁先へ向かい、眉ひとつ動かさずに命ずるのだった。
「やよ、黒、あがれと申したら、あがれ!」
 そして、まるで人間にものいうように、
「さ、早うあがってここへはいれ。人に見られてはうるさい。チャンとあがったら後ろの障子をしめるのじゃ、はははははは」
 うむ! と、これで初めて気のついた泰軒も、乗りだすようにそばから声を合わせて、
「黒、あがれ!」
「黒よ、早く室内《なか》へはいれ!」
 と口々のことば……
 つまらなそうに地面をかぎながら黒が立ち去っていったあとまでも忠相と泰軒の声は交《かた》みにつづく。
 黒! あがれ! あがれ、遠慮をせずに――と。
 ハッと胸に来たお艶。
 これはテッキリ大岡様が犬に事よせて自分を呼び入れてくださるのではないかしら? もったいなくも八代様のお膝下をびっしりおさえていかれる天下のお奉行さま、一介の町の女のわたしずれに公然に同座を許すわけにはゆかないので、黒を使ってくだしおかれるあ
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