戸をあとに、郷藩《きょうはん》相馬中村をさして発足しようと意気ごんでいたのだけれど。
 丹下左膳、わざわざ鈴川邸の物置まで行って、乾雲丸の掘り返されたのを発見する要はなかった。
 というのは……。
 舞い狂う吹雪に面をそむけた左膳が、一眼をなかば見開いて左腕に坤竜を握ったまま身体を斜めに法恩寺橋の袂にさしかかった時だった。
 片側は御用屋敷の新阪町。
 他は清水町《しみずちょう》の町家ならび――ひとしく大戸をおろして、雪とともに深沈《しんちん》と眠る真夜中。
 向うから雪風に追われて、小走りに来る一つの影があった。
 乾雲坤竜ふたたび糸を引いてか、乾を帯した栄三郎と、坤を持した丹下左膳、それは再び奇《く》しき出会いであったと言わなければならぬ。
 雪に埋《う》もれる法恩寺橋の橋上、ぱったりぶつかりそうになった雲竜の両士、
「やッ! 諏訪……栄三郎ではないかッ」
 と、剣妖《けんよう》左膳、雪をすかして栄三郎を望めば、その声に覚えがあるか栄三郎、ピタリと歩をとめて近づく左膳を待ちながら、
「オオ! そういう貴様は丹下左膳だなッ!」
 向き合った左膳の独眼、みるみる思いがけない喜びにきらめいて頬の刀痕を雪片が打っては消える。
「ウム! 文句は言わせねえ。すまねえがこの坤竜をまきあげたからにゃ、てめえごとき青侍《あおざむらい》に要はねえのだ。ざまあ見やがれ」
 と、それでも早くも刀の柄に手がかかるのを、栄三郎はしずかに押しとどめて、
「待たれい、丹下! なるほど坤竜丸を何者かに盗み去られしは拙者の不覚。なれど、そういう貴公もあまり有頂天《うちょうてん》にはなれぬぞ。さ、この大刀におぼえがあるかどうだッ?」
 言いもおわらず突き出した栄三郎の手に、思いがけなくも乾雲丸が握られてあるのを見ると、左膳の長身、タッタッと二あし三足、よろけざま橋の欄干に手をつかえて、
「こいつウ! いかにしてその刀を入手いたした?」
 と剣怪、苦しそうにあえいだ時、降り積もった雪がサラリと欄干から川へ落ちて、同時に本所のほうから高声に笑い合いながら近づいて来る一団の人影。
 土生《はぶ》仙之助をはじめ、化物屋敷の常連《じょうれん》が、博奕《ばくち》がくずれて帰路についたところだ。
「ウヌ! 貴様――ど、どうして乾雲が貴様の手に……」
 立ちなおるが早いか、左膳はこう突っかかるように栄三郎をにらむ。栄三郎はにっこりした。
「おさよという老婆を――御存じかな?」
「ナ、何? おさよがッ!……ううむ、さては埋めるところを見られたかな」
「さよう。まずそこらでござるが、不純な心をもって盗んでまいったものを、拙者はそのままに受け取ることはできぬ。で、ひとまず貴公にお返し申すによって、快く納められい」
 左膳の頬に皮肉な笑いが宿って彼は独眼をすえて栄三郎を見つめながら、しばらくキッと口を結んでいたが、やがて純粋無垢《じゅんすいむく》な若侍の真意が、暁の空のごとく彼の脳裡にもわかりかけたものか、たちまち快然と哄笑をゆすりあげて、
「うむ! おもしろい! なるほど、女めらの盗んで来たものなぞありがたく受け取っちゃあ恥になるばかりだ。ゲッ! この腕にかけて奪ってこそ、乾雲も乾雲なりゃあ、坤竜も坤竜だ。なあおい若えの、よくいった。そっちがその気なら、俺《おれ》もてめえに返すものがあるんだ」
 いいつつ左膳が、隠し持っていた坤竜を栄三郎の前に突き出すと、やッ! と驚いた栄三郎に、こんどは左膳、会心らしい微笑をなげて、
「ある女子のしわざだ。悪く思うなよ」
 と、一時坤竜を手にして大喜び、さっそく乾雲丸といっしょにするつもりでこの雪の夜中を飛び出して来たくせに、その乾雲がいつのまにやら栄三郎のもとにあり、しかもそれを相手が返すという以上、彼も武士、ここは一つ釈然《しゃくぜん》と笑って、乾坤二刀を交換せざるを得ない立場だった。
「俺とてめえはどこまでもかたき同士だが、ウフッ! 貴様は嬉《うれ》しいところがあるよ……だがな、乾雲が俺の手にはいるや否や、今この場で、てめえをぶったぎるからそう思え。かわいそうだが仕方がねえのだ」
 と左膳、左腕に坤竜をつかんで栄三郎へ突きつけると、無言で受け取った栄三郎、同時に左膳に乾雲丸を返しておいて――!
 おううッ! と一声、けもののようなうめき、
 どっちから発したものか、とっさに二人はさっと別れて橋の左右へ。
 あくまでもふしぎな夜泣きの刀のえにし。
 乾坤入れちがいになったかと思うと、同じ夜にすぐさまこうして雲はもとの左膳へ、竜は以前の栄三郎へ……
 そして今!
 しろがねの幕と降りしきる雪をとおして、栄三郎と左膳、火のごとき瞳を法恩寺ばしの橋上に凝視《ぎょうし》しあっている。
 とびすさると同時に左膳の手には、慣れきった乾雲の冷刃《れいじん》がギラリ光った。とともに栄三郎は腰を落として、すでに剛刀武蔵太郎安国の鞘を静かにしずかに払っていた。此度こそはッ! と、心中に亡師《ぼうし》小野塚鉄斎の霊を念じながら。
 と! この時。
 あわただしい跫音が左膳のうしろにむらがりたったかと思うと、降雪をついて現われたのは土生仙之助をかしらに左膳の味方!
「や! しばらくだったな丹下。ウム、ここで坤竜に出会ったのか。相手はひとり、助太刀もいるまいが傍観《ぼうかん》はできぬ。幸《さいわ》い手がそろっているから、逃さぬように遠まきにいたしてくれる。存分にやれッ!」
 が、この言葉の終わるかおわらぬに、先んずるが第一とみた栄三郎、捨て身の斬先《きっさき》も鋭く、
「えいッ!」
 気合いもろとも、礫《つぶて》のごとく身を躍らして、突如! 左膳をおそうと見せて一瞬に右転、たちまち周囲にひろがりかけていた助勢の一人を唐竹割り、武蔵太郎、柄もとふかく人血を喫《きっ》して、戞《か》ッ! と鳴った。
「しゃらくせえ!」
 おめいた左膳、乾雲を隻腕に大上段、ヒタヒタッと背後に迫って、皎剣《こうけん》、あわや迅落しようとするところをヒラリひっぱずした栄三郎は、そのとき眼前にたじろいだ土生仙之助へ血刀を擬して追いすがった。
 有象無象《うぞうむぞう》から先にやってしまえ! という腹。
 土生仙之助、抜き合わせる隙がなく、鞘ごとかざして、はっし! と受けたにはうけたが、ぽっかり見事に割れた黒鞘が左右に飛んで思わずダアッとしりぞく。とっさに、片足をあげたと見るまに、そばの二、三人を眼下の水へ蹴落とした栄三郎、鍔《つば》を返して左膳の乾雲を払うが早いか、こうじゃまが入った以上は、身をもって危機を脱するが第一と思ったのか、白刃をひらめかしてざんぶ[#「ざんぶ」に傍点]とばかり、堀へとびこんだ。
「ちえッ!」
 と左膳の舌打ちが一つ、飛白と見える闇黒をついて欄干ごしに聞こえた。
 雪を浮かべて黒ぐろと動く深夜の掘割《ほりわ》りに、大きな渦まきが押し流れていった。

  虚実《きょじつ》烏鷺《うろ》談議

 離合集散ただならぬ関の孫六の大小、夜泣きの刀……。
 主君相馬|大膳亮《だいぜんのすけ》のために剣狂丹下左膳が、正当の所有主《もちぬし》小野塚鉄斎をたおして、大の乾雲丸《けんうんまる》を持ち出して以来、神変夢想流門下の遣手《つかいて》諏訪栄三郎が小の坤竜丸《こんりゅうまる》を佩《はい》して江戸市中に左膳を物色し、いくたの剣渦乱闘をへたのち――乾雲はおさよが、坤竜はお藤が、ともにこっそり盗み出して、ここに二刀ところを一にするかと見えたのも一瞬、こんどは逆に栄三郎が乾雲を、左膳が坤竜を帯びて雪中法恩寺橋上の出会い――。
 任侠《にんきょう》自尊の念につよい栄三郎の発議によって、両人雲竜二剣を交換して雲は左膳へ、竜は栄三郎へと、おのおのその盗まれたところへ戻ったが。
 婦女子が盗人のごとく虚をうかがって持ちきたった物なぞ、なんとあっても納めておくことはできぬ。ここは一度、左膳に返しても、二度《ふたたび》つるぎと腕にかけて奪還するから……と、この栄三郎の意気に感じて、左膳もこころよく坤竜を返納したのは、二者ともさすがに侍なればこそといいたい美しい場面であった。
 が、すぐそのあとに展開された飛雪血風の大剣陣。
 しかし、それもほんの寸刻の間だった。
 折りもおり、土生《はぶ》仙之助の一行が左膳の助剣にあらわれたので、乱刃のままに長びいてはわが身あやうしと見た栄三郎、ひそかに、再び左膳と会う日近からんことを心中に祈りながら、橋下の暗流――雪の横川へとびこんで死地を脱した。
 あとには左膳、仙之助の連中が声々に呼びかわして、橋と両岸を右往左往するばかり……。
 それもやがて。
 暗黒《やみ》の水面に栄三郎を見失って長嘆息、いたずらに腕を扼《やく》しながら三々五々散じてゆく。
「ナア乾雲! てめえせえ俺の手にありゃア、早晩あの坤竜の若造にでっくわす時もあろうッてものよ、雲竜相ひくときやがらあ……チェッ! 頼むぜ、しっかり」
 と左膳、片手に赤銅《しゃくどう》の柄《つか》をたたいて瓢々然《ひょうひょうぜん》、さてどの方角へ足が向いたことやら――?
 かくしてまたもや。
 悪因縁《あくいんねん》につながる雲竜《うんりゅう》双剣《そうけん》、刀乾雲丸は再び独眼片腕の剣鬼丹下左膳へ。そうして脇差坤竜丸は諏訪栄三郎の腰間《こし》へ――。
 それは、まわりまわってもとへ戻る数奇不可思議《すうきふかしぎ》な輪廻《りんね》の綾であった。
 しばらく頭《こうべ》をめぐらして本来の起相《きそう》を見れば。
 刀縁伝奇《とうえんでんき》の説に曰く。
 二つの刀が同じ場処に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜がところを異にすると、凶《きょう》の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈《はらんばんじょう》、恐しい渦を巻きおこさずにはおかない。
 そして、刀が哭《な》く。
 離ればなれの乾雲丸と坤竜丸とが、家の檐《のき》も三寸さがるという丑満《うしみつ》のころになると、啾啾《しゅうしゅう》とむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで相求め慕いあう二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出すという。
 この宿運の両刀。
 はなれたが最後、雲竜相応じて風を起こし雨を呼び、いかなる狂瀾怒濤《きょうらんどとう》、現世の地獄をもたらすかも知れないと言い伝えられている乾坤二刃が、いまにいたって依然として所を異にしているのだ。
 のみならず。
 駒形の遊び人つづみの与吉は、丹下左膳の密命を奉じて、奥州中村の城下へ強剣の一団を迎えに走っているに相違ない。これが数十名を擁《よう》して着府すると同時に、左膳は一気に栄三郎方をもみつぶして坤竜丸を入手しようとくわだてている。
 一方、それに対抗する諏訪栄三郎の陣容はいかん?
 かれが唯一の助太刀|快侠《かいきょう》蒲生泰軒《がもうたいけん》先生は、栄三郎に苦しい愛想づかしをして瓦町の家を出たお艶をつれて、あれからいったいどこへ行ったというのだろう?
 二刀ふたたび別れて、新たなる凶の札!
 死肉の山が現出するであろう!
 生き血の川も流れるだろう。
 剣の林は立ち、乱闘の野はひらく。
 そして! その屍山血河《しざんけっか》をへだてて、きわまりなき宿業は結ばれるふたつの冷刃が思い合ってすすり泣く!
 雪の江戸に金いろの朝が来た。
 それからまもなく。
 ある梅|日和《びより》の午《ひる》さがり――南町奉行越前守大岡|忠相《ただすけ》の役宅では。

 雲ひとつない蒼空から霧のように降りこめる陽のひかりに、庭木の影がしんとしずまって、霜どけのまま乾いた土がキチンと箒の目を見せている。
 眼をよろこばせる常磐樹《ときわぎ》のみどり。
 珊瑚《さんご》の象眼《ぞうがん》と見えるのは寒椿《かんつばき》の色であろう、二つ三つ四つと紅い色どりが数えられるところになんの鳥か、一羽キキと鳴いて枝をくぐった。
 幽邃《ゆうすい》な奥庭のほとり――大岡越前守お役宅の茶室である。
 数寄屋《すきや》がかりとでも言うのか、東山同仁斎にはじまった四畳半のこしらえ。
 茶立口、上|壇《だ
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