栄三郎、手を乾雲の柄に油障子を引きあけると……いたずらに躍る白羽落花の舞い。
 深夜の江戸を一|刷《は》けに押し包んで、雪はいつやむべしと見えなかった。
 宿業《しゅくごう》と言おうか――それとも運気《うんき》?
 双剣一に収まって和平を楽しむの期《き》いまだ到《いた》らざる証《あかし》であろうが、前門に雲舞いくだって後門《こうもん》竜《りゅう》を脱す。
 はいる乾雲に出る坤竜。
 それはまことに不可測《ふかそく》なめぐりあわせであったが、栄三郎はついに乾雲の柄をたたいてにっこりとした。
 思ってもみよ!
 きょうが日まで刃妖左膳の隻腕にあって、幾多の人の血あぶらに飽き剣鬼の手垢《てあか》に赤銅のひかりを増した利刀乾雲丸が、今宵からは若年の剣士諏訪栄三郎のかいなに破邪《はじゃ》のつるぎと変じて、倍旧の迅火殺陣《じんかさつじん》の場に乾雲独自のはたらきを示そうとしているのだ。
 そして丹下左膳の手にはあの坤竜丸が!
 乾雲坤竜相会して永久の鎮もりに眠るのはいつの時であろう?
 それまではこの夜の雪をさながらにまんじ巴《ともえ》、去就ともに端倪《たんげい》すべからざる渦乱であった。
「それはそうと、ねえ栄三郎さん、お話がございますよ」
 おさよ婆さんの声に、栄三郎はわれに返って座敷へもどった。

 夜※[#「虫+璃のつくり」、第3水準1−91−62]《やち》のごとくに栄三郎の隙をうかがって入りこみ、小刀坤竜丸をさらって逃げ去った櫛まきお藤は、この深夜の雪を蹴って、そもいずこへ消え去ったのであろうか?
 かのお藤……。
 本所の化物屋敷に出入して、万緑叢中《ばんりょくそうちゅう》紅一点、悪旗本や御家人くずれと車座になって勝負を争っているうちに、人もあろうに離室《はなれ》の食客、隻眼隻腕の剣怪丹下左膳に恋をおぼえ、その取り持ち方を殿様鈴川源十郎に頼んだまではいいが、源十郎に裏切られるにおよんで、深くかれを恨んでいるやさき、当の左膳に意中の女があると聞いて一転|妬情《とじょう》の化身と変じた末が、あの雨の夜、左膳が片思いの相手をつれだして源十郎のこがれるお艶と、栄三郎を仲に醜い角突き合いを演じさせ、ひそかに鬱憤《うっぷん》をはらそうとしたものの、弥生お艶の女同士がやさしい涙にとけあって、お藤のもくさんはガラリとはずれたばかりか。――
 江戸お構えの身は思わぬときに捕吏の大群をうけて、お藤は第六天篠塚稲荷のきざはしで……ドロンとかき消えたかどうか? それはそれとして。
 まもなく。
 魔猫《まびょう》の神通力でももっているものとみえて、いかにしてあの捕網の目をくぐって来たのだろう? 白無垢《しろむく》鉄火の大姐御櫛まきお藤、いつのまにやら粋な隠れ家に納まって、長火鉢のむこうにノホホンとばかり煙管《きせる》をたたいていたが、飛びこんで来た与吉のことばで、左膳に対するその迷妄は再燃した。
 思うこころに変わりはないが、それは今度は別のかたちで。
 かわいさあまって憎さが百倍――どうせ叶わぬ色恋なら、万事に逆に立ちまわって、あの人のすべてを片っぱしから叩き壊《こわ》してしまえ……こういう意気ごみで丹下左膳を、これも憎い鈴川源十郎の名で訴人したのだったが、あとからすぐに後悔して、あやういところへ駈けつけて左膳を救い出してきたのも、お藤としては最初から変わらぬ一徹恋慕のこころであった。
 恋はいろいろに動く。
 ことにお藤のような女においては、いっさいの有《ゆう》かいっさいの無《む》、抱きしめる手でそのまま殺すことも彼女にとっては同じだったが、さすがに殺しは得ずして助けて来た左膳、日々近く手もとにおいてみると、もとより嫌いでないどころか、こうして危い江戸をも見捨て得ずに今日こんな苦労を重ねているのも、もとはといえばみんなだれゆえ左膳ゆえのことだから、うば[#「うば」に傍点]桜のお藤、手練手管《てれんてくだ》のかぎりをつくして、ひたすら左膳の意を迎え、心をとらえようと腕によりをかけだしたのだった。
 しかも、左膳の慕う弥生が行方知れずになっているいま。
 かれの胸中から弥生のまぼろしを駆逐して左膳をわが物とするはこの機であると、そこでお藤、宵から降り出した雪を幸い栄三郎方の裏口に張り込んで、左膳のために脇差坤竜を盗み出したのだが!
 いったい左膳とお藤は今どこに隠れているのか?
 浅草のお藤の隠れ家?
 否! お藤はあれからずっと家へ立ち寄らずに、留守宅にはつづみ[#「つづみ」に傍点]の与の公が今日か明日かとお藤の帰りを待ちわびているはずだ。
 してみると剣鬼と女妖、この広い江戸のどこにひそんでいるのだろう?
 遠くか。ないしは案外近いかも知れない。
 とにかくそれは、いつ朝が来ていつ日が暮れるともない窖《あなぐら》のような闇黒の底だった。
 やみ? そうだ。黒暗々の奈落《ならく》。
 それは、兇状持ちのお藤が、始終お上《かみ》を向うにまわして陽の目を見ていこうとするために、そこへさえ飛びこめば、いつでも捕り手にスカを食わせることができるようにと、以前ひそかに細工をしておいた秘密の隠れ場所であった。いずこかはわからないが、江戸のなかには相違ない、そして誰ひとり知る者もない穴ぐらなのだから、十手に追われる左膳の身には時にとってこのうえもない便宜であった。
 闇黒が左膳を包んでいる。
 その暗いなかで、おのれを恋する女とのふしぎな生活がつづいて来ていた。
 闇黒――ぬば玉《たま》の無明《むみょう》のやみ。
 それはやがて剣に理を失った左膳と、恋に我を忘《ぼう》じ果てたお藤とのこころの姿でもあった。
 いまは女の保護のもとに生きる左膳、そとの大雪も知らずに、三坪にたりない暗い穴の中をしきりに往ったり来たりしている。
 お藤はまだ帰らない。

 はじめお藤の懐中《ふところ》鉄砲によって重囲の化物屋敷からのがれ出たとき。
 左膳は。
 暮れそめた町々をお藤にそのかくれ家へ案内されながら心中で考えていた。
 源十郎が頼みにならないうえに、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が相馬中村から助剣の勢を求めてくるまで、当分あまんじてこの女にかくまわれていようと。
 さすれば御用の者の眼をくらましてこの身は安全。また、乾雲丸を鈴川邸内の物置のかげ、椎《しい》の根方に埋めてあることは誰ひとり知る者もないはずだから、このほうも大丈夫。
 こういう気もちから易々諾々《いいだくだく》としてお藤のつれこむにまかせたのが……どこかは知れず、この縁の下のようなせまい穴蔵の底であった。
「ねえ左膳様。ここはあたしのほかだあれ[#「だあれ」に傍点]も知らないところ、いわばあたしの隠れ住居で、いざ[#「いざ」に傍点]という時にはお役人でもなんでもここまでおびき寄せて、ね、ホホホホ、お藤の忍術をごらんに入れるんでございますから、お心おきなくご逗留《とうりゅう》なさいましよ」
 こういうお藤の言葉に、左膳はがらになく、
「かたじけない」
 とひとこと、改めて身辺を見渡したが、眼に映ったのはあやめ[#「あやめ」に傍点]もわかたぬ闇黒ばかり――暗い地下の一室であった。
 低い天井、四囲の壁も床も荒けずりの板で張りつめてあって、かたわらに筵《むしろ》や夜着蒲団のたぐいといっしょに簡単な炊事道具がころがっているらしいことは手さぐりでもわかった。片隅に粗末な階段がついていて、そこはいまはいって来た秘密の入口――。
 お藤が訴え出てあの騒ぎになったとは夢にも知らぬ左膳、源十郎が訴人をしたものと真《ま》に受けて、今にも鈴川屋敷へ斬りこもうとたけりたつのをお藤がおさえて、
「まあ、もうすこしお待ちなさいまし。決して悪いようにはいたしませんから……」
 となだめているうちに。
 せまい闇黒に女のにおいがひろがっていって咽《む》せ返りそう……丹下左膳、いかにこの間に処したことか。
 さて今夜。
 暗いなかにすわっていると、雪の夜はことに静かである。
 お藤が入れていった置き炬燵《ごたつ》に暖をとって、長ながと蒲団にはらばった左膳、ひとりこうしていると、ゆくりなくもさまざまのことが思い出されるのだった。
 追いつ追われつする運命の二剣! それに絡《まつ》わるおのが秘命。
 わけても……弥生のおもざし。
「おれも焼きがまわったかな」
 と思わず左膳が、自嘲《じちょう》に似たつぶやきを洩らした刹那《せつな》!
 タ、タ、タと天井うらの床に跫音がひびいて、梯子段上の機械仕《からくりじ》かけがんどう[#「がんどう」に傍点]返しの扉がサッと開いたかと思うと、全身白く塗《まみ》れた櫛まきお藤が、落ちるようにころがりこんで来た。
「どうしたのだ? 雪か」
 左膳は闇黒に瞳を凝《こ》らしたまま起きあがろうともしない。
「ええ。ひどい雪」
 笑いながらお藤は歩み寄って、丹前の下から取り出した坤竜丸を、事もなげにつとその面前に突きつけた。そして、
「ナ、なんだ、これは?」
 といぶかる左膳へ、
「坤竜丸ですよ。いま、あたしがちょいと栄三郎のところから盗み出して来ましたのさ。お藤の腕前はこんなもの――なんですね刀一本、大の男が四人も五人も飛び出して、大さわぎをすることはないじゃありませんか」
 と、お藤はケッケとふしぎな声で笑いつつ、坤竜丸を左膳に渡したが、受け取った左膳、
「ナニ、坤竜?」
 と叫びざま左手に握って、やみに慣れた一眼をキッと据えていたのもしばらく、真にこれが坤竜丸と得心がいくが早いか、何か言いかけたお藤をその場につきのけんばかりに、すぐ左膳、戸を蹴《け》ひらいて戸外に躍り出た。
 乾雲は庭すみに埋めてある!
 と、こう思うと左膳降りしきる雪に足を早め、坤竜丸を帯《たい》して本所をさして急いだが。
 同じ時刻に。
 本所へ通ずる別の道を、これは乾雲をひっつかんだ諏訪栄三郎が、おなじく鈴川屋敷を指してひた走りに駆《か》けていた。

 鈴川源十郎にお艶を懇望され、その手切れの第一として、丹下左膳の隠しておいた乾雲丸を掘り出して来た。
 言わばこれは源十郎の殿様から贈られたお艶の代償《だいしょう》!
 と、老婆おさよの口より聞くや否や、諏訪栄三郎の双頬《そうきょう》にさっ[#「さっ」に傍点][#「さっ」は底本では「さつ」]と血の気が走った。
「ううむ! 刀と女の取っかえっこだとは、きゃつ自身、いつか拙者に申し出たところ、さてはそこもとがかの源十郎と腹をあわせて、丹下の乾雲を盗み出したのであったか」
 こう歯を食いしばった栄三郎、あわててとめるおさよの手を払い、すっと立ってすばやく身づくろいに移っていた。
 竜は雲を呼び、雲は竜を待つとはいえ、腕で奪《と》り、つるぎにかけて争ってこそ互いに武士の面目もあろうというもの――。
 それをなんぞや! 一老婆が偸盗《ちゅうとう》のごとく持ち出したものを、なんとておめおめと受納できようか。
 しかもそれが妻を売る値《あたい》だという。もってのほかと言うべきところへ、あまつさえそのお艶もすでに家を出ているではないか。
 これをこのまま受け取ってはおられぬ。源十郎に逢って面罵し、乾雲丸は一時左膳の手へ返そうとも筋ならぬものを納めたとあっては、栄三郎、男がすたる……。
 こうとっさに決心した彼は、武蔵太郎と乾雲を腰間《こし》に佩《はい》してパッと雪の深夜へとび出したのだった。けたたましく呼ぶおさよの声をあとにして。
 天地を白く押しつつんで、音もなく降りしきる雪、雪、雪。
 どうあってもこの乾雲丸、さっそく左膳の手へ押しつけて、しかる後今宵こそは一騎がけ、必ず腰の武蔵太郎にもの言わせずにはおかぬ!
 トットと雪を蹴散らしながら、栄三郎が本所をさして走っていくと、ほかの道を丹下左膳が、お藤の盗んで来た坤竜丸をひっつかんで、これも同じく本所めがけて急いではいるが!
 左膳の心もちはおのずから別だった。
 目的のために手段をえらばない丹下左膳。
 たとえどんな道筋であろうと片割れ坤竜丸が手に入った以上は、一刻も早く椎の根に埋めた乾雲丸を掘り出し、夜泣きの刀を一対として、明け方にははや江
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