、はげしい音をたてる。
「お艶ッ!」
「だってそうじゃありませんか。この世の中に何ひとつお金でできないことがありますか。あたし、あなたといっしょになる時、まさかこんなに困ろうとは思わなかった……このごろのようにこんなみじめな装《なり》じゃあ――」とお艶は、自分の着ている継《つ》ぎはぎだらけの黄八丈の袖をトンと引っ張って、「恥ずかしくってお豆腐一つ買いに出られやしない。あたし、呉服屋のまえを通るときなんか、眼をおさえて駈けるんですよ」
「……すまない」
「すむもすまないもないじゃあありませんか、年が年中ピイピイガラガラ、家んなかは火の車だ。お正月が来たからって、お餅一つ搗《つ》けるじゃなし、持ってきた物さえ片っぱしからお蔵《くら》へ運んで、ヘン、たまるのは質札ばかりだ――ごらんなさいッ! もうその質ぐさもないじゃありませんか」
「まあ、そうガミガミ言うな。となり近所の手前もある」
「アレだ! 何かってえとヤレ手前、やれ恥辱《ちじょく》――ふん! お武士《さむらい》さんは違ったもんですよウ、だ!」
「これ、お艶!」
「はい」
「貴様、このごろいったいどうしたのだ?」
「どうもしやしませんよ」
「そうかな。見るところ、ガラリとようすが変わったようだが――」
「いいえ。どうもしやしませんけれど、あたしつくづく[#「つくづく」に傍点]考えていることがあります」
「ふうむ。なんだそれは? 言ってみなさい」
「…………」
「拙者が嫌《いや》になったらいやになったと、何ごともはっきり[#「はっきり」に傍点]申したらよいではないか」
ことばもなくうなだれたお艶の横顔が、どうやら涙ぐんでいるふうなのに、栄三郎もふと甘いこころに返って、
「さ、いうがよい。な、改まって聞こう」
とのぞきこんだとき、ホホホホ! と蓮葉《はすっぱ》な嬌笑とともに、栄三郎を振り払ったお艶、こともなげに軽くいい放った。
「あなた、およしなさい。お刀の探索なんか……いまどき流行《はや》りませんよ」
夜泣きの刀、乾雲丸の取り戻し方を思いとどまってくれ……というお艶のことばは、さながら弊履《へいり》を棄《す》てよとすすめるに等《ひと》しい口ぶりだ。
この、うって変わった一言には、さすがの栄三郎も思わずカッ! となった。が、かれも大事を控《ひか》えて分別《ふんべつ》ある士、そうやすやすと憤激《ふんげき》の情《じょう》をおもてにあらわしはしなかった。しかし、わざとしずかにきりだした低声は、彼の自制を裏ぎって微《かす》かにふるえていた。
「なぜ?――何故また今になって、さようなことを申すのだ? わたしが一命を賭《と》して乾雲を求めておることはそちも以前からよく知っているはず。言わば承知のうえで、拙者と……このようなことになったのではないか……」
「ええ――それはわかっております」
襟《えり》もとに顎《あご》をうずめて、お艶は上眼づかいに栄三郎を見た。
沈黙におちると、鉄瓶《てつびん》の湯がチインと松風の音をたてて、江戸の真ん中にいながら、奥まった露地のはずれだけに、まるで人里はなれた山家ずまいの思いがするのだった。
お向うの庇《ひさし》ごしに、申しわけのような曇りめの陽が射しこんで、赤茶けた破れだたみをぼんやり照らしている。
朝寒の満潮のような遣瀬《やるせ》ない心地が、ヒタヒタと栄三郎の胸にあふれる。
お艶がつづける。
「それはわかっております。けれどあたし、自分達の暮しを第二第三にして、そうやってお刀のことに夢中になっていらっしゃるあなたを見ると……」
「嫌気がさす――というのか」
栄三郎の声は、口がかわいてうわずっていた。
「…………」
「おいッ!」
「まあ! なんて声をなさります!」
お艶はたしなめるように言って、すぐに鼻のさきでせせら[#「せせら」に傍点]笑ったが、
「ええ。そうでございます! さようでございますよ」
と、いいきった彼女の声は、叫びに近かった。
そして、つと身体を斜めにいっそうだらしなく崩折れると、口ばやに甲《かん》高に、堰《せき》を落とすようにしゃべりだした。
「ええ! さようでございます! あなたのようなどちらにもいい子になろうとするお人は、あたしゃ大嫌い! 刀を手に入れたい、あたしともいっしょにいたい――それじゃアまるで両天秤《りょうてんびん》で、どっちか一つがおろそかになるのはきまりきってるじゃアありませんか」
「な、なんだと? どちらにもいい子とはなんだ? いつおれが貴様をおろそかにした?」
「おろそかにしてるじゃありませんか。あたしより刀のほうがお大事なんでございましょう? 刀さえとれれば、あたしなんか野たれ死にをしようとおかまいはございますまい」
「たわけめ! 勝手にしろ!」
吐き出すようにつぶやいて、栄三郎はやおら起ちあがった。お艶はそれをキッと下からにらみあげて、
「あなたッ!」
「なんだ、うるさい!」
「どうせうるそうございましょうよ!――いっしょになる時はなんだかんだとチヤホヤなさって、うるさいは恐れ入りましたね。ちっと旗色が悪くなると、いつでもどっかへお出ましだ。そんな卑怯な真似をなさらないで、お武士ならおさむらいらしくはっきり[#「はっきり」に傍点]と話をつけてくださいッ!――どこへお出かけでございます?……存じております! 戌亥《いぬい》の方。麹町でございましょう? えええ、あのお嬢さんはあなたにとってお主筋《しゅうすじ》に当たる方、それにお生れがお生れですから女芸万般《にょげいばんぱん》ねえ、何ひとつおできにならないということはなし、そりゃアあたしとは雪と墨、月とすっぽん[#「すっぽん」に傍点]ほども違いましょうともさ。せいぜいお大事になすっておあげなさいましよ」
栄三郎は聞かぬ態《てい》――ゆがんだ微笑をうかべて、まわしまわし帯を結びなおしている。
その、擦り切れた帯の端が、畳をなでてお艶の前にすべってくると、彼女は膝をあげてしっかとおさえた。
「サ! きっぱり話をつけてくださいッてば! 二つにひとつ、乾雲丸かあたしか、あなたはどちらを……」
「お艶!」栄三郎の眼は悲しかった。「――な、聞き分けのよい女だ。わたしはちょっとこれからホラ! これの才覚にとびまわってくる。鳥目《ちょうもく》だ。ははははは、そんなにおれを苦しめずに、おとなしく留守をしてくれ。な、わかったな」
「嫌でございますッ! 御冗談もいいかげんになさいまし。あたしもこれで当り矢のお艶と言われた女。あなたばかりが男じゃござんせんからね」
栄三郎の眼が細まって、異様な光を添えた。
「お艶ッ! き、貴様ッ……坐れ、そこへ!」
「すわってるじゃございませんか。あなたこそお坐りなすったらいかがです」
「よく一々口を返すやつだな。貴様、このごろどうかいたしおるな。何か心中に思うところあって、それでさように事につけ物に触《ふ》れ、拙者に楯《たて》を突くのであろう。どうだ?――いや、得てはした[#「はした」に傍点]ない言葉から醜《みにく》いあらそいを生ずる。いいかげんにしなさい」
「まあ、虫のいい! いいかげんにはできませんよ」
「お前はすっかり人間が変わったな」
「変わりたくもなろうじゃございませんか。こんな貧乏《びんぼう》暮しをしているんですもの」
「ふたことめには貧乏貧乏と申す……それほど貧乏がいやか」
「癇《かん》のせいか、あんまりゾッといたしませんねえ。そりゃそうと、どうおっしゃるのですか……乾雲丸か、このあたしか」
「黙れッ! おのれお艶、痩せても枯れても武士の妻ともあろう者が、正邪《せいじゃ》の別、恩愛《おんあい》義理《ぎり》をもわきまえず、言わせておけば際限もなく、よッくノメノメとさようなことがいえるな。貴様は魔に魅入《みい》られておるのだから、拙者も真面目には相手にせぬ。ひとり胸に手を置いて考えてみるがよい」
「またお談義《だんぎ》! 何かというと武士、刀の手前――どうも当り矢のお艶も、おかげさまでこんなかたッくるしい言葉をおぼえましたけれど、あたしはそんなえらそうなことを言って、自分達は食べるか食べないで、たかがお刀一本に眼色顔いろを変えて、明けても暮れても駈けずりまわっているお人よりも、町人でもお百姓でもようござんすから、あたしひとりを大事にしてくださる方に、しっくりかわいがってもらいたい……ただそれだけでございます」
「ううむ、見損《みそこな》ったかな――」
「ほほほ、そりゃアお互いさま」
「で、いかがいたせというのだ?」
「まず乾雲丸のことをフッツリお忘れなすって、それからその厳《いか》つい大小をさらり[#「さらり」に傍点]と捨てて、あたまも小粋に取りあげてさっぱり[#「さっぱり」に傍点]した縞物か何かでおもしろおかしく……」
「ぶるる、馬鹿ッ! 何を申す! 貴様、そ、それが本心かッ?」
「ほんしんでございますとも。あたしだってちったあ眼先が見えますよ。あなたは、あの弥生さまとごいっしょにおなりなさりたくても、お刀がなければ押しかけ婿にもいかれないので、あれ[#「あれ」に傍点]がお手にはいるまで、あたしってものをこうしてだし[#「だし」に傍点]に使っていて、刀を取るが早いか、あたしを棄ててその刀を引出物《ひきでもの》に弥生さまのところへ納まろうというんでございましょう? そんなこと、こちらは先刻《せんこく》御承知でございますよ。ほほほ」
「お艶!――キ、貴様、気がふれたナ! 夜泣きの刀の分離も、もとはと言えば拙者から起こったこと。されば丹下左膳より乾雲丸を奪還し、この坤竜とともどもに小野塚家の当主《とうしゅ》弥生殿の前にそろえて出すのは、弥生どの……というよりも、左膳の刃におたおれになった鉄斎先生への何よりの供養《くよう》――義理だ、つとめじゃ! 人間としての男としての……」
「あウあア!――おや、ごめんなさい。あくびなんかして」
「チッ! 拙者の心底は百も千も知っておるくせに、何かにつけ言いがかりをつけおって……女子と小人は養い難し。見さげはてた奴めがッ!」
「よしてくださいッ! もうあきあき!」
「なに? なんだと?」
「そんな御託宣《ごたくせん》はたくさんでございますよ。耳にたこ[#「たこ」に傍点]ができております」
「またかかることは、拙者の口から申したくはないが、拙者が亡師の意にそむき弥生どのに嘆きをかけて今また鳥越の兄者人《あにじゃひと》を怒らせて、かような陋巷《ろうこう》に身をおとしおるのも……」
「おッと! みんなあたしのためとおっしゃりたいんでございましょう? お気の毒さま。そのあたまがおありだから、あたしよりも刀がかわいいのに不思議はございませんとも――もう何も伺いたくはございません!」
「なんたる下卑《げび》た言いぐさ! うん、なんたる低劣な……」
「ほほほほ、なんですよ今ごろ、これが三社前の姐さん、当り矢のお艶の懸値《かけね》のないところ。地金《じがね》をごらんなすったら、愛想もこそ[#「こそ」に傍点]も尽きましたろうねえ」
「よくも……」
「なんですよ。そんな張《は》り子《こ》の虎みたいに――みっともないじゃアありませんか」
「よくも、よくも今まで猫をかぶっておったなッ!」
「お坊っちゃん、お気がつかれましたか。オホホホ。でもね、これでもお艶でなくちゃアっておっしゃってくださるお方もございますからね。世の中はよくしたもので、まんざらでもないとみえますよ」
「だッ……だまされたのだッ! ちえッ!」
「近いところじゃ、鈴川の殿様なんか、あたしでなくちゃア夜も日も明けませんのさ」
「な、何イ? す、鈴川源十郎かッ!」
「鈴川源十郎……とは、あの鈴川源十郎かッ?」
栄三郎が、こうどなるようにいってにらみつけると、お艶は、おちょぼ口に手を当ててあでやかに笑った。
「ええ、鈴川の殿様に二つはないでございませんか。本所の法恩寺まえのお旗本――」
いいかけたお艶の言葉は、中途で無残に吹っ飛んでしまった。おわるを待たず、栄三郎の腕がむんずと伸びて来て、お艶の襟髪をとったかと思うと、力にま
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