飛ぶ。石ころがはねる。そしてついに、地中の竜ではない、土中の乾雲がおさよの目前にあらわれたとき! 櫛まきお藤の撃った左膳を助ける銃声がひびいた。
離別以来|幾旬日《いくじゅんじつ》、坤竜を慕って孤愁《こしゅう》に哭《な》き、人血に飽いてきた夜泣きの刀の片割れ――人をして悲劇に趨《はし》らせ、邪望をそそってやまない乾雲丸が、ここにはじめて丹下左膳の手を離れたのだ。
……転ぶようにしゃがんで穴底から重い刀を抱きあげたおさよ。
暗中にぱっぱッ[#「ぱっぱッ」に傍点]と音がしたのは包みの土を払ったのだ。
宵闇《よいやみ》にふくまれ去ったお藤と左膳を追って、捕方の者もあわただしく庭を出て行ったあとで。
源十郎は長いこと、ひとりぽかんとして縁に立っていた。
今にも同心でも引き返して来て自分に対しても審《しら》べがあるだろう。ことによると、奉行所へ出頭方を命ぜられるかも知れないが、それには一応、小普請支配がしら青山|備前守《びぜんのかみ》様のほうへ話をつけて、手続きをふまねばならぬから、まず今夜は大丈夫。そのあいだに、ゆっくり弁口《べんこう》を練っておけば、ここを言い抜けるぐらいのことはなんでもあるまい――と源十郎、たか[#「たか」に傍点]をくくって、いまの役人の帰ってくるのを待ってみたが、追っ手は早くも法恩寺橋を渡って、横川の河岸に散っていったらしく、つめたい気をはらむ風が鬢《びん》をなでて、つい、いまし方まで剣渦戟潮《けんかげきちょう》にゆだねられていた、庭面《にわも》には、かつぎさられた御用の負傷者の血であろう、赤黒いものが、点々と草の根を染めていた。
とっぷりと暮れた夜のいろ。
源十郎はいつまでも動かなかった。
丹下左膳は、あくまでも自分がかれを売って訴人をしたようにとっているが、役人どもがいかにして左膳の居所を突きとめたかは、源十郎にとっても、左膳と同じく、全くひとつの謎であった。
「きゃつ、おれをうらんでおったようだが、馬鹿なやつだて」
ひとりごとが源十郎の口を洩れる。同時にかれは、寒さ以外のものを襟頸《えりくび》に感じて慄然《ぞっ》とした――物凄いとも言いようのない左膳の剣筋を、そして、狂蛇のようなその一眼を、源十郎は歴然《れきぜん》と思いうかべたのだ。が、彼は、たそがれの空を仰いでニッと笑った。
「左膳、何ほどのことやある! 第一、なんて言われても俺の知ったことではない」
と、あとのほうはどうやら弁解のようにモゾモゾ口のなかでつぶやいて源十郎、部屋へはいろうとしたが、考えてみると、もっとふしぎに耐えないのは、あれよというどたん場《ば》に際して、あの櫛まきお藤が飛び出したことである。
ふうむ! お藤か……。
味わうようにこの一語を噛みしめたとたんに、源十郎にはすべての経路が見えすいたような気がして、彼は柱にもたれてクルリと背をめぐらしながら、身をずらしてくすりとほほえんだ。と思うと、わっはっはッ! と大きな笑い声が、腹の底から揺りあげてきて、
「お藤か。あッははは、お藤の仕事か――」
と、はてしもなく興に乗じていたが。
やがて。
「おさよ……おさよどの……!」
声をかけて座敷のなかをのぞきこんだとき、そこに老婆のすがたのないのを発見すると、源十郎、ふッと笑いやんで、聞き耳をたてた。
木々を吹きわたる夕風の音ばかり――逢魔《おうま》が刻《とき》のしずけさは深夜よりも骨身にしみる。
チラチラチラと闇黒に白い物の舞っているのは、さては降雪《ゆき》になったとみえる。
源十郎は、急に思い出したことがあって、そそくさと庭におり立った。
さっきおさよが耳打ちをした乾雲丸の一条……丹下左膳が、あの刀を物置のかげに埋めているところを見たから、すぐにもこっそり掘り出し、源十郎からとして、お艶の代償に栄三郎へ渡してやりたい。こうおさよは言っていたが、もうおさよは、土をあばいて一物を持ち去ったかも知れない。そうすると、その尻もいずれ左膳から自分に来るであろう。夜泣きの大小にかけては命を投げ出している剣鬼左膳、何をしでかすかしれたものではない――。
と考えると源十郎、いささか気になりだしたので、庭下駄を突っかけて、いそぎ足に裏へまわった。
雪が、頬を打って消える。
椎《しい》の木。そのかげに朽ち果てた薪小屋。
樹の根を見ると! まさしく穴が掘ってある。
暗い、細長い土穴に、白い蝶のような雪片が後からあとから飛びこんでいた。
「おさよめ、とうとう左膳に鼻をあかして、乾雲丸を持ち出したな。これは丹下に対し、すこウし困ったことになったぞ」
こう胸中にくり返しながら、源十郎はあたまの雪を払って座敷に戻った。
しかし彼は、乾雲丸のことよりも、きょうおさよに約束した栄三郎への手切れ金五十両の工面《くめん》に、はたといきづまっていたのだった。
五百石のお旗本が五十両にさしつかえるとは……考えられないようだが不義理だらけで首もまわらず、五十はおろかただの五両にも事欠く源十郎であった。
煩悩《ぼんのう》は人を外道《げどう》に駆《か》る。
ひとつ――殺《や》るかな……。
と、やみに刀をふるう手真似をしながら、かれが縁にあがりかけると、いつのまに来たのか、障子のなかに土生《はぶ》仙之助の鼻唄が聞こえていた。
江戸に、その冬はじめて雪の降った宵だった。
ふたつの涙《なみだ》
「ええ。どうせわたしはやくざ女ですともさ。そりゃアどこかの剣術の先生のお嬢さんのように、届きはいたしませんよ。ヘン! おあいにくさまですねえ」
お艶はちょっと口をへの字に曲げて憎《にく》さげに栄三郎を見やった。
不貞腐《ふてくさ》れの横すわり――
紅味を帯びたすべっこい踵《かかと》が二つ投げ出されたように畳にこぼれているのを、栄三郎は苦しそうに眺めて眼をそらした。
どんよりと曇った冬の日だ。
いまにも泣きだしそうな空模様の下に、おもて通りの小間物屋のほし物が濡れたまましおたれ気にはためいているのが、窓の桟《さん》のあいだから見える……もの皆が貧しくてうす汚《きたな》い瓦町の露地の奥。と、突然、となりの左官の家で山の神のがなり立てる声が起こった。
「なんだい、この餓鬼《がき》アッ! またこんなところに灰をまきゃアがって! ほんとに、ほんとに性懲《しょうこ》りのねえ野郎だよ。父《ちゃん》にそっくりだッ!」
つづいて、ピシャリ! と頭でもくらわすらしい音。わアッ! と張りあげる子供の泣き声――ピシャピシャピシャとおかみの平手は、自暴《やけ》に子供の頬へ飛んでゆくようすである。
なんという暗い、ジメジメした世の中であろう!……若い栄三郎のこころは、その悩ましい重みに耐えられない気がしてきて、無理にも作った和《なご》やかな笑顔を、かれはお艶へむけた。
「ぱっとしない天気だな。雨……いや、雪になろうも知れぬ。お前、頭痛はどうだ?」
お艶が、ふん! とそっぽを向くと、こめかみに貼った頭痛|膏《こう》が、これ見よがしに栄三郎の眼にはいる。
かれは再び、にがにがしく眉を寄せた。
ぽつん――と、不自然に切れた静寂のなかに、険悪な気がふたりを押し包んでいる。
まことに雨、雪、いや、暴風雨にもなろうも知れぬ不穏なたたずまい……。
間《ま》。
お艶はちょいと襟あしを抜いてその手の爪を噛みながら、なかばひとりごとのようにしんみりといいだした。
「いくらわたしがばかだからって茶屋女|風情《ふぜい》がこうしてあなたというおりっぱなお武家の、奥様で候《そうろう》の、奥方でござりますのと、まあ、言っていられるだけで見つけものだってことは、これでもお艶はよウく知っているつもりでございますよ。でもね、人間てものは、どうやらこうやらお飯《まんま》がいただけて、それできょう日《び》がすごしていけりゃあア、それでいいってもんじゃありませんからね。あたしだって小綺麗な着物の一枚や二枚、世間の女なみにたまには着てみたいと思うこともありますのさ」
また始まった!――というように、栄三郎は顔をしかめて、思わず白い眼に棘《とげ》を含ませて部屋じゅうを睨《ね》めまわした。
なんと変わり果てたお艶であろう。
あれほど手まめだったお艶が、ちかごろでは針いっぽん、ほうき一つ手にしたことがなく、栄三郎も彼女も着ている物といえばほころびだらけ、汚点《しみ》だらけ……そのうち、一間しかないこの座敷の隅ずみに、埃がうずたかく積もって、ぬぎ捨てた更《か》え着がはげちょろけの紅《もみ》裏を見せてひっくり返っているかと思うと、そばには昼夜帯《はらあわせ》がふてぶてしいとぐろを巻いているという態《てい》たらく。
まるで宿場女郎をぬいてきて嬶《かか》ア大明神にすえたよう――。
そればかりではない。態度口振りからいうことまで、ガラリと自堕落《じだらく》にかわったお艶であった。
こうではなかった。すこし以前までこうではなかった。と考えるにつけ、栄三郎は、何がかくまでお艶を変えたのか? その理由と動機《きっかけ》を思い惑《まど》うよりも、もうかれは、日常の瑣事《さじ》に何かと気に入らないことのみ多く、つい眼に角《かど》をたててしまうのだった。
そのために、いまも昔も変りのない、犬も食わない夫婦喧嘩に花が咲いて、今日もきょうとて……。
先刻、塗りのはげたお膳を中に、ふたりが朝飯にかかった時だった。
なんぼなんでも、他にしようもあろうに、はぶけるだけ手をはぶいた、名ばかりの味噌汁《みそしる》と沢庵《たくあん》のしっぽのお菜を栄三郎が、あんまりうまそうに口へ運ばなかったからと言って、例によって、お艶がまず、待っていたように火ぶたを切ったのだ。
「まあ! まずいッたらしいお顔! なんでそんなお顔をなさるの?」
「…………」
「あたしのこしらえた物が、そんなに汚いんですかッ!」
「ま、お前、何もそう――」
「いいえ! こう申しちゃ[#「いいえ! こう申しちゃ」は底本では「いいえ!こう申しちゃ」]なんですが、そりゃあお金さえあればねえ、あたしだってもうすこしなんとかできますけれど……フン! だ」
これから起こったことだった。
栄三郎は、横を向いてほかのことに紛《まぎ》らそうとした。
「泰軒どのもひさしくお見えにならぬが、どうしておらるるかな。この寒ぞらに船住いもなかなかであろう」
と、さむ空……という言葉に初めて気がついたように、急にブルルと身ぶるいをして、消えかかった火鉢の火に炭をつごうとした。
「あなた!」
お艶の声は、底にいまも噴《ふ》き出しそうな何ものかを含んで、懸命におさえていた。
「あなたッ!」
「なんだ?」
栄三郎の手に、炭をはさんだ火箸《ひばし》がそのまま宙にとまる。
「なんだ、そんな顔をして」
ジロリと白い一瞥《いちべつ》を栄三郎へ投げて、お艶はしばらく黙っていたが、
「そんな顔こんな顔って、これがあたしの顔なんですもの、今さらどう張りかえようたって無理じゃアありませんか」
「なに?」
「いいえね、万事あの根津のお嬢さんのようにはいきませんてことさ」
「お艶、お前、何を言うんだ?」
「馬子《まご》にも衣装《いしょう》髪かたちッてね――それゃアあたしだってピラシャラすれば、これでちったあ見なおすでしょうよ。けど、お金ですよ。それにゃア……お、か、ね! わかりましたか」
「ばかな! お前はこのごろどうかしている」
栄三郎は取りあおうともせずにしずかに炭のすわりをなおしだしたが、内心の激情はどうすることもできないらしく、火箸のさきがブルブルとふるえて、立てるそばから炭をくずした。
ふたりとも蒼い顔。紙のように白いくちびる――。
あくまでもこの喧嘩、売らずにはおかないといったように、お艶が突如いきおいこんで乗り出すと、膝頭が膝にぶつかって、番茶の茶碗が思いきりよく倒れた。
むッ! とした栄三郎、
「ナ、何をするんだ!」
「なんだいこんなもの!」
お艶はもう一度、膳の角をつかんで荒々しくゆすぶった。瀬戸物がかち[#「かち」に傍点]合って
前へ
次へ
全76ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング