さ》んで郷藩中村へ逐電《ちくでん》しようと考えていた左膳の見こみに反して、坤竜栄三郎は思ったより強豪、そこへ泰軒という快侠の出現、いままた五人組の登場と、こう予期しないじゃまに続出されてみれば源十郎が左膳と別の戦法を用いだすにつれて、広い江戸中に孤立無援の丹下左膳、がらになくいささか心細くなって暗々然と隻腕に乾雲を撫《ぶ》さざるを得なかった。
 鈴川源十郎がかくも頼むにたらぬ!
 と気がついてみると、そもこの左膳の万難千苦の根因はと言えば相馬大膳亮様の慾炎《よくえん》――厳命にあることだから、ここはどうしても故里《くに》おもてから屈強の剣士数十名の来援を乞《こ》うて、一つには五人組にそなえ、同時に多勢不意に襲撃し、栄三郎、泰軒を踏み潰し、一気に坤竜を入手せねばならない!
 こう事況が逼迫《ひっぱく》したうえは、早いが勝ち。
 一日遅れれば一にち損!
 瞬刻を争って相馬中村から剣客の一団を呼び寄せよう! へえ殿様、それが何よりの上分別《じょうふんべつ》、このさい一番の思いつきでございます……とあって、左膳は、成功後の賞美《ほうび》を約して密々のうちに、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉を奥州中村へ潜行させることになった。
 だから……。
 乾雲丸が強奪されて、いま左膳の手にないというものも、いわば一時の苦肉の計、なんとかして応援が着府するまで、このうその手紙によって栄三郎と和の状態をつづけたいというまでにすぎない。
 与吉が同藩の剣勢を引きつれてくれば?
 あとはもう占めたもの!
 が、その期間、泰軒、栄三郎がこの書面を真《ま》に受けてじっと[#「じっと」は底本では「じって」]していてくれればよいが……と、なかば危ぶみ半ば祈りながら、左膳が件《くだん》の書状を与吉に渡すと――。
 すべては己《おの》が方寸から出たことで委細承知したつづみ[#「つづみ」に傍点]の兄哥《あにい》。
「殿様、はばかりながら御安心なせえまし。きっとあっし[#「あっし」に傍点]が引き受けてこの書を栄三郎へ届け、すぐその足で奥州をさして発足《ほっそく》いたしますから」
「そうか。それでは中村へ参っての口上は……」と左膳は、噛《か》んで含めるように使いのおもむきを繰り返したうえ、「な、こういう次第だからとよく申して、同勢をすぐり、貴様には気の毒だが、その夜にでも彼地《あちら》をたって江戸へ急行してもらいたい。礼は後日のぞみ放題《ほうだい》にとらせる」
「おっと! 水くせえや殿様。私とあなた様の仲じゃアありませんか、礼なんて――へっへへへ」
 と、ここに話し成って、まもなく与吉は自宅《うち》へ帰ってしたくにかかると同時に!
 夜中、やみに紛れて左膳は、こっそりと……真《しん》にこっそりと、夜泣きの刀の大、乾雲丸を、鈴川庭内の片隅に土を掘って埋めたのだが――。
 たれ識《し》らぬと思いきや!
 ここにひとり、この左膳の乾雲|埋没《まいぼつ》をひそかに目睹《もくと》していたものがあった。
 あれから数日。
 さてこそ、あのものものしい旅装をととのえたつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉。はたして今ごろは奥州口をひたすら北へ北へと指して、いそいでいることであろうか。
 とにかく今日まで、離庵《はなれ》の丹下左膳のうえに、なんとなく心もとない起居《おきふし》が続いていたのだった。

 左膳のために求援《きゅうえん》の秘使にたったつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉。
 さっそく、旅仕度をして、なんとかして栄三郎を突きとめたいと、浅草歳の市をぶらついていると、折りよく栄三郎の姿を見かけて手紙を押しこんだまでは上出来だったが――。
 掏摸《すり》とまちがわれて追っかけられ、ようよう櫛まきお藤の家へ飛びこんでほっと安心――するまもなくその旅装から左膳との謀計《ぼうけい》を疑われて、お藤の嬌媚《きょうび》で骨抜きの捕虜にされてしまった形。
 色っぽい眸ひとつにぐにゃり[#「ぐにゃり」に傍点]と降参した与の公は、こうして左膳の期待を裏切り、いまだにお藤の二階にブラブラしていることかも知れない。
 左膳の身になれば、これほどの手違いはまたとあるまい。だが、それと、そうして、左膳の文によって栄三郎がいかに考え、まさに左膳の言い分を真実ととりはしなかったろうが、今後の処置をどう決したか? ということはしばらく天機《てんき》のうちに存するとして。
 また、栄三郎が左膳の手紙を取り落として、それが、人もあろうに、越前守忠相に拾われて今その手にあることもここに問わず……。
 ただ、お藤である。
 彼女は、与吉の口から、乾雲丸が左膳のもとにないと聞くや、ただちにそのからくりを見破って、与の公までが左膳に肩を入れるのがくやしくてならなかった。
 恋しい左膳さま――それはいまも変りがないが、容れられてこそ恋は恋。
 あのように嫌いぬかれて、なおもこころ私《ひそ》かに男を思うなどということは、お藤の性《さが》でも、またそんなしおらしい年齢でもなく、頭からできない芸当であった。
 ばかりでなく。
 じぶんを見向きもしないで、かの弥生にのみ走っている左膳の心を思うと、責め折檻《せっかん》された覚えもあり、なんとかして一|矢《し》左膳に報いる機会を待っていたお藤だった。
 手に入らぬものなら壊《こわ》してしまえ!
 どうせ他人なら遠慮はいらぬ! あくまでも左膳を呪《のろ》って、いっそあの人の何もかもをめちゃくちゃにしてやれ!
 こう決心した妬婦《とふ》お藤、与吉をちょろまか[#「ちょろまか」に傍点]して足をとめておくが早いか自らはスルリと抜けて、辻斬りの下手人浪人丹下左膳の所在を訴状にしてポン! と浅草橋詰の自身番へほうりこんだ。文字は女手だが訴人のところへ鈴川源十郎と大書して。
 これに緒《いとぐち》を発したあのお手入れ……御用騒ぎがあったが!
 本所の化物屋敷へ捕吏のむれが殺到するとすぐ、むらむらと胸中にわいて来た何やらさびしい気もちを、お藤はさすがにどうすることもできなかった。
 丹下様へお縄を!
 それも、あたしがちょっと細工をしたばっかりに!
 と思うと、たまらなくなったお藤、いてもたってもいられないのは人情自然の発露で、やにわに、愛蔵の短銃をふところに本所めざして駈け出した。
 何しに?
 おのが陥《おとしい》れた穽《あな》から左膳を引きあげるために!
 魔女の辛辣《しんらつ》と江戸っ児の殉情を兼ね備えている櫛まきの姐御には相違ないが、どっちもお藤本然の相《すがた》とすれば、売ったあとから捕り手のかかとを踏んでスタコラ救助に出かけるなどは、ずいぶん御念の入ったあわてようだったと言わなければならない。
 しかし、矛盾《むじゅん》――ではなかった。
 なぜ……? と言えば。
 これは、町すじを走りながらお藤のあたまに浮かんだのだが、いま左膳を、自分の手で救い出せば、何よりも左膳に、この上もない大恩を被《き》せることになって、あとでよく心づくしを見せたり話したりしたなら、いかな丹下さまでも、今度はふっつり弥生のまぼろしを追い払って、こっちの実《じつ》にほだされるかも知れない。いや、そうなるにきまっている。
 しかも、訴状のおもては本所の殿様のお名になっているのだから、これでりっぱに左膳と源十郎の仲をも割《さ》いて早晩一度は、左膳の剣に源十郎の血を塗ることもできようというもの――橋わたしの約束にそむいて、わがことしか考えない、憎《にく》い源十郎の殿様!
 恩だ!
 恩だ!
 恩を売るのだ! あのお方だって木でも石でもないはず、ことにお武家は恩儀にだけは感ずるという――。
 いよいよ痛切に左膳に対する己《おの》が恋慕をたかめたお藤は、恩! 恩! おん、おん! と拍子をとるように心いっぱい、胸のはりさけるほど無言の絶叫をつづけながら足を宙《ちゅう》に左膳の危難に駈けつけて短銃一|挺《ちょう》の放れわざ。あわやというところで丹下左膳を助け出し、そして!
 どこへ……つれて行くかは、彼女にはちゃんと当てがあったのだ。
 あそこ――お藤のほか誰も人の知らない彼地《あそこ》へ!

 本所鈴川の屋敷で、剣怪左膳をとりまいて十手と光刃《こうじん》がよどんでいる最中……。
 櫛まきお藤が忽然《こつねん》と姿を見せてふところ鉄砲ひとつで左膳を庇《かば》ってともに落ちのびていった、そのすこし前のことだった。
 うす靄《もや》のような暮気があたりを包んで、押上《おしあげ》、柳島《やなぎしま》の空に夕映《ゆうばえ》の余光がたゆたっていたのも束《つか》のま、まず平河山法恩寺をはじめとして近くに真成《しんせい》、大法《たいほう》、霊山《れいざん》、本法《ほんぽう》、永隆《えいりゅう》、本仏《ほんぶつ》など寺が多い、それらの鐘楼《しょうろう》で撞木《しゅもく》をふる音が、かわたれの一刻を長く尾をひいて天と地のあいだに消えてゆく。
 暮れ六つ。
 鈴川方化物屋敷の裏手、髪を振りみだした狂女のようにそそり立つ椎《しい》の老樹の下にこわれかかった折り戸と並んで、ささやかな物置小屋が一つ、古薪木や柴に埋もれて忘れられたように建っている。
 かつて、櫛まきお藤が与吉の口から弥生に対する丹下左膳の恋ごころを聞かされて一変、緑面《りょくめん》の女夜叉《にょやしゃ》と化したあの場所だが。
 今は。
 這いよる宵やみのなかに剣打のひびき阿※[#「口+云」、第3水準1−14−87]《あうん》の声が奥庭から流れてくるばかり――座敷まえの芝生には、お捕方を相手に左膳が隻腕一刀の乱劇を演じていることであろうが、うらに面したここらは人影もなく、ただ空低く風が渡るかして、椎の梢が、思い出したようにうなりながら、寒天にちりばめた星くずをなでているだけだった。
 もの淋しい夕景色。
 と! この時。
 物《もの》の怪《け》にでも憑《つ》かれたように、フラフラとこの庭隅に立ち現われた一つの黒法師《くろぼうし》がある。
 しばらく物置の戸に耳をつけて表のかた、周囲に耳を傾けていたが、やがて、いま、屋敷は御用の騒動にのまれて誰も近づいてくる者もないと見るや、しずかに小屋のなかへはいって――すぐに出て来た。
 言うまでもなく、源十郎と対談しているところへ、左膳と捕吏の剣闘《けんとう》が始まったので、こっそり部屋を脱けて出たおさよ婆さんであった。
 手に、物置から取りだした鍬《くわ》を握っている。
 夕方鍬などを持ち出して、こんなところで何をするのか……と見ていると!
 おさよは瞬時《しゅんじ》もためらわずに、やにわに鍬を振りあげて、小屋のかげ、椎の根元を掘りはじめたが――。
 ふしぎ! 近ごろ誰かが鍬を入れたあとらしく、表面が固まりかけているだけで、一打ち、二打ちとうちこむにしたがい、やわらかい土がわけもなく金物の先に盛られて、おさよの足もとに掬《すく》い出される。
 薄やみに鍬の刃が白く光って、土に食い入るにぶい音が四辺の寂寞《せきばく》を破るたびに、穴はだんだんと大きくなっていって。
 はッ! はッ! と肩で呼吸《いき》づく老婆おさよ、人眼を偸《ぬす》んでこの小屋のかげに何を掘り出そうとしているのだろう……?
 それは――。
 過般《かはん》、ある夜。
 老人のつねとして寝そびれたおさよが、ふと不浄《ふじょう》に起きて、見るともなしに、小窓から戸外《そと》の闇黒をのぞくと、はなれに眠っているはずの丹下左膳、今ちょうどそこを掘りさげて、襤褸《ぼろ》と油紙に幾重にも包んだ細長い物を埋めようとしているところだった。
 深夜にまぎれて、食客左膳の怪しいふるまい……これは、乾雲丸を一時こうして隠匿《いんとく》して、かの五人組の火事装束に奪い去られたと称し、栄三郎をはじめ屋敷内の者をさえ偽ろうという極密《ごくみつ》の計であったが、始終《しじゅう》を見とどけたおさよは、さっきのことを源十郎に話したとおり、今の混雑を利用して刀を掘り出し、お艶に別れる手切れの一部として、さっそく栄三郎へ渡そうと思っているのだ。
 老女おさよの手によって、うちおろされる鍬の数!……。
 土が
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