わるを待たず、
「ええイ! なんのかのと暇をとる。聞きたくば縄を打たれてからきけッ――それッ、一同かかれッ!」
 と、あとは、御用! 神妙にいたせ! と怒声がひとつにゆらいで渦を巻いたが、そのどよめき[#「どよめき」に傍点]の切れ目から恨みにかすれる左膳の咽喉が哀願《あいがん》の声を振り絞っているのがかすかに聞こえた。
「おいッ! 情けだあッ! お、教えてくれ!――いッ! だ、だれがおれを裏切ったのか……そ、それを知らねえで不浄《ふじょう》縄にかかれるかッ? よ! 一言! よう! 名を言え、訴人の名を言えよ名をウ――!」
 が、役人どもは、すでに懸命の十手さばきにかたく口を結んで、こたえる気色《けしき》もいとま[#「いとま」に傍点]もない。雨と降り、風と吹きまくる御用十手の暴風雨のなかから、この時ふと左膳の眼についたのは、縁に立つて茫然自失の態《てい》で、この自分の難を眺めている鈴川源十郎のすがたであった。
 見るより左膳、たちまち脳裏《のうり》にひらめいたものあるごとく、
「や! 源十! こらッ源公! て、てめえだなッおれを訴えたのはッ!」
 おめきざま、乾雲丸ではないが、左膳の剣に一段の冴えが加わって、かれは即座に左右にまつわる捕り手の二、三をばらり[#「ばらり」に傍点]――ズン! 薙伏《なぎふ》せたかと思うと、怨恨《えんこん》と復讐《ふくしゅう》にきらめく一眼を源十郎の上に走らせ、長駆《ちょうく》、地を踏みきって、むらがる十手の中を縁へ向かって疾駆《しっく》し来《きた》った。
 とたんに。
 ズウウウン! と一発、底うなりのする砲声が冬木立ちの枝をゆるがせて、屋敷のそとからとどろき渡った。

 本所化物屋敷の荒れ庭に、血沫《ちしぶき》をあげて逆巻《さかま》く十手の浪と左手の剣風……。
 奇刀乾雲丸は、不可解の一団に持ち去られたと称して手もとにないものの、剣狂左膳の技能は、あえて乾雲を俟《ま》たなくても自在に奔駆《ほんく》した。
 そうして。
 ひそかに自分を訴えでたのは、てっきりこの家のあるじ鈴川源十郎に相違ないと、ひとりぎめに確信した左膳が、今や、算を乱し影をまじえて、むらがる捕吏《ほり》を突破し、長駆一躍して、縁の源十郎へ殺到した刹那に!
 突《とつ》! 薄暮紺色の大気をついて一発|炸然《さくぜん》と鳴りひびいたふところ鉄砲の音であった。
 やッ! 飛び道具の助勢!……と不意をうたれた驚愕の声が、捕吏の口を洩れて、一同、期せずして銃声の方を見やると――。
 南蛮渡来《なんばんとらい》の短筒《たんづつ》を擬した白い右手をまっすぐに伸ばして、その袖口を左手でおさえた女の立ち姿が、そろりそろりと庭の立ち木のあいだを近づいて来ていた。
 思いがけなくも櫛まきお藤である!
 それが、これもお尋ね者のお藤ッ! と気がついて捕吏の面々はあらたにいろめき渡ったのだが、お藤は、ゆっくりと歩を運んで、幹を小楯《こだて》に、ずらりと並ぶ捕役《とりやく》の列に砲口を向けまわして、
「さ、丹下様ッ! お早くッ!――お藤でございます。お迎いに参りました。ここはあたしがおさえておりますから、あなたはなにとぞ裏ぐちから……お藤もすぐにつづきますッ!」
 と叫ぶ甲《かん》高い声を聞いて、左膳は、何はともあれ脱出するのが目下の急務だから、依然《いぜん》縁さきに佇立《ちょりつ》する源十郎をしりめにかけて、
「やいッ、鈴源! おれあ手前に咬《か》まれようたあ思わなかったぞ!」
 源十郎は冷然と、
「ばかを申せ! 拙者が貴公を訴人したなどとは、徹頭徹尾《てっとうてつび》貴様の誤解だ! 邪推《じゃすい》じゃ!」
「だまれッ! いずれ探ればわかること。早晩《そうばん》この返報《しかえし》はするからそう思え」
「そうとも! いずれ探れば分明《はっきり》することだ――それより丹下、いまは一刻も早くこの場を……!」
「何をお利益《ため》ごかし[#「ごかし」に傍点]に! おおきにお世話だッ!」
 左膳と源十郎、こうして短い会話《やりとり》をとりかわしながらも、
「お前さんたち、動くと撃《う》つよ!……この異人の玩具《おもちゃ》は気が早くてねえ、ほほほ」
 と突きつけるお藤の短筒に、捕吏の陣が、瞬間、気を抜かれてぽかんとしていると、左膳、一眼を皮肉に笑わせて、すばやくお藤のうしろにまわったが……。
 ポン! ポン! と裾を払い、衣紋《えもん》をなおしたかと思うと、べったり返り血に彩られたまま、やがて、さがりそめた夜のとばりに紛れて、ぶらりと裏門を出ていった。乾雲ではない別の大刀を、何事もなかったように落としざして。
 と、ただちに。
 お藤も、懐中《ふところ》鉄砲の先で、役人のまえに円をえがきながら、にっこと縁の源十郎に意味ふかい蒼白の笑みを投げておいて、あとずさりに木の間を縫って四、五|間《けん》遠のくや、いなや、パッ! と身を躍らして左膳のあとを追った。
 みるみる去りゆく剣魔と女怪の二つの影。
 それッ! と激しい下知がくだって、捕吏の一団が小突きあいつつふたりの足跡を踏んだ時は、すでに塀のそとには人かげらしいものもなく、道路をはさむ畑に薄夜の靄気《あいき》がこめて、はるかの伏屋《ふせや》に夕餉《ゆうげ》のけむりが白く長くたなびくばかり――法恩寺橋のたもとに、宿なし犬が一匹、淡い宵月の面を望んで吠え立てていた。
 ……櫛まきお藤、そも左膳を助けだしてどこへ伴おうというのであろうか。
 そしてまた、あとに残った源十郎は?
 否! それよりもかのおさよはどこに――?
 たとえ乾坤二刀、夜泣きの刀のいきさつはなくとも、昨秋あけぼのの里の試合に勝って、当然じぶんのものと信じている弥生のこころが、当の剣敵諏訪栄三郎に傾《かたむ》きつくしていると知っては、丹下左膳の心中はなはだ穏かならぬものがあったことは言うまでもない。
 故《ゆえ》に。
 栄三郎に対する左膳の気もちは、つるぎに絡《から》む恋のうらみが多分に含まれていたのだが……。
 それはさておき。
 主君|相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》殿の秘旨《ひし》を帯びる左膳としては、ここにどう考えてもふしぎでならない一事があった。ほかでもない。それは、かの、栄三郎と泰軒が鈴川の屋敷に斬りこみをかけて、細雨に更《ふ》ける一夜を乱戟に明かし、ようやく暁《あかつき》におよばんとしたとき、まぼろしのごとく現われて、自分等のみならず栄三郎とも刃を合わせたのち、ほどなく東雲《しののめ》の巷《ちまた》に紛れさった五梃駕籠……火事装束の武士たちの正体、ならびにそのこころざしであった。
 かれらもまた乾坤|二口《ふたふり》をひとつにせんがため! であることはあの時、交戦の隙《すき》に首領らしい老人が宣示《せんじ》したところによって明らかであるが、それが、怪しきことこのうえなしと言うべきは。
 そもそも……。
 左膳の密命に端を発して、はからずも、過般来《かはんらい》栄三郎と左膳の間に一大争奪戦が開始されていることは、局にあたる両者と、それをとりまく少数のもの以外、そして、世動運行をあやつる宿命の神のほかは、他に識《し》る者もないはずなのに!
 それだのに!
 火事装束の五人組は、最初からすべてを見守っていたもののように、雲竜一庭に会して二つ巴《どもえ》をえがいているその期をねらって、ああして忽然と現場に割りこんで来たのであった。
 剣の立つ逞《たくま》しい侍が五人一隊をなして、左膳からは乾雲丸を、栄三郎からは坤竜丸を取りあげんものと、虎視眈々《こしたんたん》と暗中に策動しつつあるに相違ないのだ。
 と仮りにきめたところで。
 さて、雲と竜との相ひく二剣を一所におさめ得たとしても、五人組はそれをいったいどうしようというのだろう?
 だが、こうなるとまた疑点《ぎてん》はあとへ戻って、この一団の目的を推測するためには、何よりもまず彼奴らの本体を知らねばならぬ。
 何者?
 あるいは何者の手先!
 ……と、いくら坐して首をひねったとて、左膳に見当のつきようはなかったが、いままでも栄三郎の太刀風なかなかに鋭く、かつ真剣の修羅場《しゅらば》を経《へ》てその上達もことのほか早く、おまけに蒲生泰軒《がもうたいけん》という鬼に金棒までついているので、左膳の乾雲、そうそうたやすくは栄三郎の坤竜を呼ぶことあたわずそのうえに、助力の約をむすんである鈴川源十郎なるものが、平素の性行から観て今後頼みにならないことおびただしい――そこへ、疾風のように出現したのがあの五人組の怪士連だ。
 そこで左膳も、しばしば刀を措《お》いて熟考せねばならぬこととなって、これはかの斬りこみ直後のある日だったが、隻腕につるぎを扼《やく》するほかあまり頭の内部を働かしたことのない左膳、すっかり困惑しきって、ちょうどその草廬《そうろ》に腰をおろして駄弁をろうしていたつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉へ、
「なあおい、与の公」
「へえ。さようで」
「ウフッ! 何がさようだ? まだ、なにも申さぬではないか」
「あッそうだった。けれど殿様、あのこってげしょう……例の、ほら、火消し仕度のお侍《さむれえ》さ。ねえ! 金的《きんてき》だ。当たりやしたろうこいつア――」
「うむ! いかさま的中《てきちゅう》いたした。貴様、読心の術を心得おると見えるな」
「へっへ。御冗談。そんなシチ難《むずか》しいこたあ知りませんがね。どうしたもんでごわしょう、この件は」
「サ、それだ。どうしたものであろうな」
 と相談しあっているうちに、打てばひびく、たたけば応ずる鼓《つづみ》の異名《いみょう》をとっているだけに、いささか小才のきく与吉、どう捏《こ》ねまわして何を思いついたものか、二こと三ことささやくと、左膳はたちまち与吉の進言をいれて、隻眼によろこびの色をうかべながら会心の小膝を打った。
 いずれ事成ったのちに相応の賞を与えようと誓《ちか》ったのであろうが、ふたりはなおも密談《みつだん》数刻ののち、とうとう議一つに決してただちに実行に着手したのだった。
 これは、あの大岡越前守忠相が浅草の歳の市にあらわれて、栄三郎へあてた左膳の書面を手に入れた数日前のこと……つまり、まだ年のあらたまらないうちであった。
 で、そのつづみ[#「つづみ」に傍点]の与の公一代の悪智恵《わるぢえ》というのは、こうである。
 さて、つづみの与吉の策略によって――左膳は即座に筆を執《と》って、あの、栄三郎に宛てた一札を認めたのだった。
 その文言は、彼の五人組に秘刀乾雲を奪い去られて、いま手もとにないこと。
 そして、こうして自分が乾雲丸を所持していない以上は、もはや栄三郎とも仇敵《かたき》同士に別れてねらいあう意味のないこと。
 のみならず、これからのちは、左膳が栄三郎に腕をかして、栄三郎の腰に残っている坤竜丸の引力により、再び乾雲を呼びよせて火事装束に鼻を明かしてやりたいが雲煙|霧消《むしょう》、従来のことはすっぱりと忘れて改めてこの左膳を味方にお加えくださる気はござらぬか。
 ――という欺誑《ぎきょう》と譎詐《きっさ》に満ちた休戦状でありまた誠《まこと》に虫のいい盟約の申し込みでもあった。
 さしずめこの手紙を栄三郎へ渡して、しばしなりとも坤竜の動きをおさえて置くあいだに。
 さ、その間にどうする?
 という段になって、左膳と与吉、いっそう語らいをすすめた末。
 今は、坤竜を佩《はい》する栄三郎と、その助太刀泰軒ばかりではなく、じつに得体の知れない火事装束の五人組というものを向うへまわさなければならないので、いかに至妙の剣手とはいえ、丹下左膳ひとりではおぼつかない。あまつさえ身を寄せる家のあるじ、鈴川源十郎は、老下女おさよにとりいってお艶、栄三郎を離間しようとのみ腐心し、決然剣を取って左膳に組し、栄三郎を亡き者にしようという当初の意気ごみをしだいに減じつつあるこんにち。
 なるほど、諏訪栄三郎は左膳にとっては剣の敵。
 源十郎にとっては恋のかたき……。
 ではあるが、はじめ何ほどのことやあろう、ただちに乾坤二刀をひとつに手挟《たば
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