どもに申し聞かせたとおり、わしはそこもとを他人とは思わぬ。なくなった母にそっくりなのみか、恥を言わねばわからぬが、拙者も母の生存中は心配ばかりかけたもの――いや、存命中にもう少し孝行をしておけばよかったと、これは愚痴《ぐち》じゃが、いま考えても、あとの祭りだ。そこでなあ、おさよどの、亡母《はは》によく似ている年とったそこもとをよく労《いたわ》って進ぜたなら、草葉のかげで母もさぞかし喜ぶであろうとこう思うによって、これからはそこもとを実の母同様に扱うから、そちも、何か拙者に眼にあまることがあったら違慮《えんりょ》なく叱言《こごと》をいってもらいたい」
 口|巧者《こうしゃ》な源十郎、一気にこれだけしゃべって、チラリとおさよの顔を盗み見ると、おさよは今までにも、すっかり食わされているから、この源十郎の深謀を知る由もなく、もうすっかりその母親、五百石の女隠居になった気で、この時もせいぜい淑《しと》やかに軽く頭をさげただけだ。
「いいえもう殿様、それはわたくしからこそ……」と、有頂天《うちょうてん》に近い挨拶である。
 第一段のはかりごと。
 わがこと半ばなれり矣、と源十郎は、真正面に肩をはって、今日はちと改まった話がござる――という顔つき。
「おさよどの、そこでじゃ……」
 源十郎、がらになくかたくなっている。
「はい」
「そこでじゃ、そこもとの身の上ばなしも、委細《いさい》承《うけたまわ》ったが、養子というものは、いわばまあ、富くじみたよう――当たらぬことには、これほどつまらぬ話はない。近い例が、その御身じゃ。年をとって、こうして下女奉公をするのも、いってみればお艶どのの男が甲斐性《かいしょう》のない証拠。な、おさよどのそうではござらぬかな」
「はい」
「ところで、ものは相談じゃが、どうだな、おさよどの、娘御を生涯おれの側女《そばめ》にくれる気はないかな」と、のぞきこむように、下から見あげて、源十郎、あわててつけ加えた。「いや、側女と申したとてそれは表面、内実は五百石の奥方、そこもとはとりもなおさず、そのお腹さま――いかがのものであろうな?」
「はい、まことにそうなれば……」
「ふむ、そうなれば?」
「そうなりますれば、わたしばかりか娘にとってこの上ない出世――ではござりますが、しかし……」
「しかし――なんじゃ?」
「はい。しかし、諏訪《すわ》栄三郎と申しますものが」
「うむ。存じておる。だが、諏訪氏は諏訪氏として」
「でも、栄三郎様もお艶ゆえに実家を勘当《かんどう》されている身でございますから、この際、離縁《りえん》をとりますには、いくらかねえ……でないと、お話が届きますまいと存じますよ」
 源十郎はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と反身《そりみ》になって、
「手切《てぎ》れ金か、いやもっとも。話は早いがいい。どのくらいで諏訪氏その離縁状を出すだろうの?」
「さようでございます。まとまったお金は五十両一度におもらい申したことがありますが、お兄上様とおもしろくなくなったのはそれからでございますから、今五十両渡しましたら、栄三郎様もお艶と手を切って……」
 あのいつかの五十金、駒形の寺内でつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉を使って一時手に入れたのを、そばからすぐに泰軒に取り戻された金子《きんす》のことを思いうかべて、源十郎は含み笑いを殺しながら、
「よし、わかった。そんならその金は拙者が引き受けて才覚《さいかく》いたす。それはよいが、掛け合いには誰が参る?」
「それはあの、だれかれと申さずに私が参りましょう」
「そうか、では、何分よろしく頼む」
 と、源十郎が、ぴょこり[#「ぴょこり」に傍点]と辞儀《じぎ》をしたその耳もとへ、おさよはすばやく口を持っていって、
「それからあの、栄三郎が命がけでほしがっているものが――」
「うむ、うむ! か、刀であろうが? なれど、おさよどの、あれは、あれは左膳が……」
「ですけれど殿様」
 にじり寄ったおさよが、何事か源十郎にささやいたが、その咽喉仏《のどぼとけ》が上下に動き終わった時、鈴川源十郎、思わずアッと驚愕《きょうがく》した――とたんに!
 ぬっと障子に人影がさして怪物丹下左膳のしゃがれ[#「しゃがれ」に傍点]声。
「おいッ! 源十ッ! 八丁堀が参った。また一つ、剣の舞いだぜ」
 と! うわあッ! というおめきが屋敷の四囲に!
 御用ッ!
 御用ッ! 御用ッ!
 と声々がドッとわき起こるのを耳にした鈴川源十郎が、障子を蹴開いた面前に、独眼隻腕の丹下左膳、乾雲丸は火事装束の五人組に奪い去られたとあって、普通の大小《だいしょう》だが、左剣手だけに右腰にぐっと落とし差しのまま、かた手を使ってその上から器用に帯を結びなおしているところ。
 縁の上下に、源十郎と左膳、さぐるがごとき眼を見合ってしばし無言がつづいた。
 山雨《さんう》まさに到らんとして、風《かぜ》楼《ろう》に満つ。
 左膳は、
 何ごとか戸外にあわただしいようすを感じて、そっと離室を忍び出た拍子に、ちらと垣根のむこうに動く捕吏《とりて》の白|襷《だすき》を見つけたので、そのまま、塀からそとの往来に突き出ている欅《けやき》の大木に猿のごとくスルスルとよじのぼって下をうかがうと……。
 陽にきらめいて寄せて来る十手の浪。
 地をなでて近づく御用の風。
 さてはッ! 逆袈裟《ぎゃくけさ》がけ辻斬りの一件がばれたなッ! と思うより早く、剣鬼左膳のあたまを掠《かす》めたのは、そも何者が訴人《そにん》をしてかくも捕り手のむれをさしむけたのか?――という疑惑《ぎわく》とふしぎ感だったが、そんな穿鑿《せんさく》よりも刻下《いま》は身をもってこの縦横無尽に張り渡された捕縄《ほじょう》の網を切り破るのが第一、と気がつくと同時に長身の左膳、もう塀外へ降りても途《みち》はないから、左手に老幹《ろうかん》を抱いて庭にずり[#「ずり」に傍点]落ちざま、ただちに、源十郎がおさよと差し向いでいるこの座敷のそとへ飛んで来たのだった。
 刀痕《とうこん》の深い左膳の蒼顔《そうがん》、はや生き血の香をかぐもののごとく、ニッと白い歯を見せた。
「来たぞ源的!」
「上役人か。斬るのもいいが。あとが厄介《やっかい》だ」
「と言って、やむを得ん」
「うむ、やむを得ん」
 いう間も、多数の足音が四辺に迫って、剣妖《けんよう》左膳、パッと片肌ぬぐが早いか、側の女物の下着が色彩《いろ》あざやかに、左指にプッツリ! 魔刀乾雲ではないが鯉口押しひろげた。
 と!
 背後の樹間の人の姿が動いたと見るや、ピュウ……ッ!
 と空をきって飛来した手練の鉤縄《かぎなわ》、生《せい》あるもののように競《きそ》い立って、あわや左膳の頸へ! 触れたもほんの一瞬、銀流《ぎんりゅう》ななめに跳ねあがって小蛇とまつわる縄を中断したかと思うと、縄は低宙を突んざいていたずらに長く浪をうった。
 同時に。
 はずみをくらった投げ手が、なわ尻を取ったまま二足三あし、ひかれるようにのめり出てくる……ところを!
 電落した左膳の長剣に、ガジッ! と声あり、そぎとられた頭骸骨《ずがいこつ》の一片が、転々と地をはった。脳漿《のうしょう》草に散って、まるで髻《たぶさ》をつけたお椀を抛《ほう》り出しでもしたよう――。
 サッ! としたたか返り血を浴びた左膳、
「ペッ! ベラ棒に臭えや」
 と、左手の甲で口辺をぬぐった時、
「神妙にいたせッ!」
 大喝、おなじく捕役のひとり、土を蹴って躍りかかると、刹那《せつな》に腰をおとした左膳は、
「こ、こいつもかッ!」
 一声呻いたのが気合い、転じてその深胴《ふかどう》へザクッ! と刃を入れた。
 ――と見るより、再転した左膳、おりから、横あいに明閃《めいせん》した十手の主《ぬし》へ、あっというまに諸《もろ》手づきの早業、刀身の半ばまで胸板に埋めておいて、片脚あげて抜き倒すとともに、三転――四転、また五転、剣体一個に化して怪刃のおもむくところ血けむりこれに従い、ここに剣妖丹下左膳、白日下の独擅場《どくせんじょう》に武技入神の域を展開しはじめた。
 が、寄せ手の数は多い。
 蟻群の甘きにつくがごとく、投網《とあみ》の口をしめるように、手に手に銀磨き自慢の十手をひらめかして、詰《つめ》るかと見れば浮き立ち、退《しりぞ》くと思わせてつけ入り……朱総《しゅぶさ》紫総《しぶさ》を季《とき》ならぬ花と咲かせて。
「うぬウッ!」
 と左膳は、動発自在の下段につけて、隻眼を八方にくばるばかり……重囲脱出《じゅういだっしゅつ》の道を求めているのだ。
 暮れをいそぐ冬の陽脚。
 そして、夕月。
 樹も家も人の顔も、ただ血のように赤い夕映えの一刻に、うすれゆく日光にまじって、月はまだひかりを添えていなかった。
 刃火のほのおと燃えて天に冲《ちゅう》するところ、なんの鳥か、一羽寒ざむと鳴いて屋根を離れた。
 縁側に立って、うっとりこの力戦を眺めている源十郎は、剣香《けんこう》に酔って抜くことも忘れたものか――いわんや、おさよ婆さんなぜか足音をぬすんで、とうの昔にその座敷をまぎれ出ていたことには、かれはすこしも気がつかなかった。

 上役人に刃向かって左膳を救い出すか……それとも、友を見棄てておのれの安穏《あんのん》を全うすべきか?
 この二途に迷いながら、ひとつにはただぼんやりと、いま庭前に繰りひろげられてゆく剣豪決死の血の絵巻物に見とれている源十郎。
 かれは片手に大刀をさげ、片手で縁の柱をなでて左膳の剣が捕吏《とりて》の新血に染まるごとに、
「ひとウつ! ふたアツ! それッ! 三つだ! 三つだアッ! ほい! 四つッ!」と源十郎、子供が、木から落ちる栗でも数えるように指を突き出しては喜んでいると!
 西から東へ、一|刷《は》け引いた帯のような夕焼けの雲の下に。
 その真っ赤な残光を庭一面に蹴散らし、踏み乱して、地に躍る細長い影とともに、剣妖丹下左膳、いまし奮迅《ふんじん》のはたらきを示している。
「汝等《うぬら》ア! 来いッ! かたまって来い! ちくしょう……ッ!」
 築山の中腹に血達磨《ちだるま》のごとき姿をさらして、左膳は、左剣を大上段に火を吹くような隻眼で左右を睥睨《へいげい》した。
 迫る暮色。
 暗くなっては敵を逸《いっ》する懼《おそ》れがあるので、一時も早く絡《から》め捕ってしまおうと、御用の勢は、各自手慣れの十手を円形につき突けて――さて、駈けあがろうとはあせるものの、高処《こうしょ》の左剣、いつどこに墜落《ついらく》しようも知れぬとあって、いずれも二の足、三の足を踏むばかり……この間に、石火の剣闘にみだれかけた左膳の呼吸も平常に復して、肩もしずかに、ぴったりと不動のかまえに入っている――。
 と見て、捕り手を率いる同心とおぼしき頭だったひとりが、半弧《はんこ》のうしろから大声に叱呼《しっこ》した。
「やいッ! 丹下左膳とやら。旧冬《きゅうとう》来お膝下を騒がせおった辻斬りの下手人がなんじであることは、もはやお上においては百も承知であるぞッ! これ、なんじも剣の妙手ならば、すみやかに機をさとり、その遁《のが》れられぬを観じて神妙にお縄をちょうだいしたらどうだッ! この期《ご》におよんで無益の腕立ては、なんじの罪科《ざいか》を重らすのみだぞッ!」
 あお白い左膳の顔が、声の来るほうへ微笑した。
「なんだ、辻斬りがどうしたと? いってえ誰が訴人をして、おれのいどころが知れたのか、それを言えッ、それをッ!」
 と低い冷たい声を口の隅から押し出した。
 捕役はなおも高びしゃ[#「びしゃ」に傍点]に、
「さような儀、なんじに申し聞かすすじではないッ!」と一喝したが、思い返したものか、
「だが――」と声を落として、「なんじの相識《しりあい》……意外に近い者から出おったのだ」
 左膳の一眼が残忍《ざんにん》な光を増した。
「な、何ッ? そうか。な、おれは、友に売られたのかッ……うむ! おもしれえ! して、その、おれを訴えでた友達てえのは、どこのどいつだ? これを聞かしてくれ!」
 が、役人は左膳の言葉の終
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