かせてそこへ引き倒したからだ。
「お艶ッ!」
片膝を立てて、しっかとお艶をおさえつけた栄三郎の声は、かなしい怒りに曇り、眼は惨涙《さんるい》を宿して早くもうるんでいた。
「お艶、……貴様に、本所の鈴川が執心《しゅうしん》のことは、拙者も以前から承知しておったが、拙者の妻たる貴様が、かれごときに幾分なりとも心を許そうとは、お、おれは、今のいままで夢にも思わなかったぞッ!」
「――」
白い頬もくだけよとばかり、顔を畳にこすりつけられて、お艶は声も出ない。
「し、しかるに、黙って聞いておれば、かの鈴川が懸想《けそう》いたしおることを良人《おっと》の拙者のまえをもはばからず鼻高々と誇りがましきいまのことば……お艶ッ! 貴様、なんだな、先日本所の屋敷に幽閉《ゆうへい》されおった際に――」
嫉火《しっか》と情炎にもつれる栄三郎の舌、その切々たる声を耳にして、お艶は半ばうっとりとされるがままに畳に片面を当てて小突かれていたが……。
大粒な泪がひとつ、ほろりと眼がしらを離れて、長い睫毛《まつげ》を濡らしながら、見るみる頬を伝わって陽にやけたたたみの表へ吸われていった。一すじ白い光のあとを引いて。
と、その時。
貴様! なんだな、先日本所の屋敷に幽閉されおった際に――と語尾《ごび》をにごした栄三郎の言を聞くと!
しんからたけりたったらしいお艶、髪を乱し、胸をはだけて、やにわにはね起きようと試みたが、栄三郎の腕にぐっと力がはいると、ひとたまりもなくそのまま元の姿勢に戻されて、かわりに、なみだにかすれる声を振りしぼった。
「あたしが鈴川の殿様となんぞ……とでもおっしゃるんですか? あんまりなんぼなんでも、あんまりですッ! そ、そればかりは、いくらあなた様でも聞き捨てになりません! 離してください。な、何を証拠にそんな、そんな……いいえ、はっきりと伺いましょう。後生ですから手をはなして――」
と、今はもう女の身のたしなみもなく、心からのくやしさに狂いもだえるのを、栄三郎はなおものしかかるように膝下にひきつけて、
「エエイ黙れッ! このごろの貴様が赤裸々《せきらら》の貴様なら、源十郎はおろか、だれとねんごろになろうとも栄三郎はすこしも驚かぬぞッ! ナ、なんたる……ウヌッ! なんたる淫婦《いんぷ》――!」
「ま、待ってくださいッ!」
「姦婦《かんぷ》! 妖婦! 毒婦!」
熱涙ぼうだとしてとどめもあえぬ栄三郎は、一つずつ区切ってうめきながら、はふり落ちる泪とともに、哀恋の拳が霰《あられ》のようにお艶のうえにくだった。
愛する者を、愛するがゆえに打たずにはおかれぬくるしさ……。
よしや振りあげた刹那はいかにいきおいこんでいようとも、その手は、ふりおろす途中に力を失ってお艶の身に触れる時は、おのずから撫《な》でるがごとくであった。
弾《はじ》き返ったお艶は、栄三郎の手を逃れて柱の根へ飛びさがった。
「何も、あたしをチヤホヤしてくださる方は、鈴川の殿様ばかりとはかぎりません。鍛冶屋の富五郎さんだって、それから当り矢の店へ来てくだすった大店《おおだな》の若旦那やなんか……」
「すべたッ! まだ言うかッ!」
一声おめいた時、栄三郎の手はわれ知らず柄頭《つかがしら》にかかっていた。
と見て、お艶は蒼白く笑った。
「ほほほ、このあたしをお斬りになる気でございますか。まあ、おもしろい――けれどねえ、お艶にごひいき筋が多うござんすから、あとでどんな苦情が出るかも知れませんよ」
「…………!」
無言のうちに、しずかに鞘走らせた武蔵太郎を、栄三郎はっと振りかぶったと見るまに、泣くような気合いの声とともに、氷刃、殺風を生じて、突! 深くお艶の肩を打った。
ウウウム――!
と歯を食いしばったお艶、しなやかな胴を一瞬くねらせて、たたみを掻いてうつぶしたのだった。
が!
峰打ちだった。
と、お艶はすぐに、痛みに顔をしかめただけで起きあがろうとしたが、栄三郎はもう武蔵太郎をピタリと鞘に納めて、両手を腰に立ちはだかったまま凝然《じっ》とお艶を見おろしていた。
その眼……!
おお、その眼は、人間の愛欲憎念をここにひとつに集めたような、言辞に尽《つ》きた情を宿して、あやしい光に濡れそぼれていた、泣くような――と見れば、笑うような。
暫時《しばし》の沈黙のうちに、男と女の瞳が互いにその奥底の深意を読もうとあせって、はげしく絡みあい、音をたてんばかりにきしんだ。
口を開いたのは栄三郎だった。
「お艶! あれほど固く誓い、また今日というきょうまで信じきっておったお前が、かくも汚れた女子であろうとは拙者には思えぬ。いや、どうあっても思いたくないのだ。しかし――」
「…………?」
いいよどんだ栄三郎を見あげたお艶の顔に、ちらと身も世もあらぬ悲しい色が走ったが、栄三郎が気のつくさきに、それはすぐに不敵なほほえみに消されてお艶は、無言の揶揄《やゆ》であとをうながした。
「…………?」
「しかし、お前という人柄がきょうこのごろのように豹変《ひょうへん》した以上は、拙者としては嫌でもお前の変心を認めざるを得ない。さて、人のこころは水のごときもの、ひとたび流れ去っては百の嘆訴《たんそ》、千の説法ももとへ返すべくはないな、そうであろう? これ、泣いているのか、いまさら何を泣くのだ?」
「はい……いいえ」
「拙者もさとったよ、ははははは、いや、いったんこうはっきりお前の心がおれを離れたとわかってみれば、拙者も男、いたずらにたましいの抜けた残骸《ざんがい》を抱いて快しとはせぬ。そこで、ものは相談だが、きょうかぎりキッパリと別れようではないか」
いいながら、返答いかに? と思わず栄三郎、口ではとにかく、まだたっぷりと未練《みれん》があるものか、あきらかに弱い不安を面いっぱいにみなぎらせて中腰にのぞきこんだとき、
「す、すみません」
と口ごもったお艶の声に、まさか……と幾分の望みをかけていた栄三郎は、ややッ! と驚愕にのけ[#「のけ」に傍点]ぞると同時に、あきらめきれぬ新しい慕念がグッと胸さきにこみあげてきて、
「そうか」
破裂を包んだ低声。
見せじとつとめる涙が、われにもなくにじみ出てきて――。
ワッ! とお艶はそこへ哭《な》き伏した。
「お世話に……」
「なに?」
「お世話になりましたことは、お艶は死んでも忘れません」
「フン! 吐《ぬ》かしおる」
栄三郎はすでに平静にかえっていた。
大刀武蔵太郎安国のこじり[#「こじり」に傍点]に帯をさぐって、坤竜と脇差と番《つがい》にスッポリと落とし差したかれは、刀の重みを受けて刀にゆるむ帯を軽くゆすりあげたのち、ちょっと大小の据わりをなおして、ゆらりと土間におり立った。
片手に浪人笠。
履物を突っかける……と、ブラリそのまま格子戸をくぐり出ようとした。
「あなたッ! 栄三郎様ッ」
お艶の声が必死に追いかける。が、彼は振りむきもせずに、
「達者《たっしゃ》に――」
「え? もう一度お顔をッ!」
悲涙にむせんだお艶、前を乱した白い膝がしらに畳をきざんで、両手を空に上り框《がまち》までよろめき出ると、
「えいッ! 達者に暮らせ!」
一声……ピシャリ! 格子がしまって、男の姿がちらりと陽ざしをさえぎったと思うまもなく、あがり口に泣き崩れたお艶は、露地の溝板《どぶいた》を踏んでゆく栄三郎の跫音《あしおと》がだんだんと遠のくのを、夢のように聞かなければならなかった。
夢? ほんとにほんとに夢。ながい夢! 泣きはらした眼を部屋へ返したお艶は、栄三郎の羽織がぬぎすててあるのを見ると、はっとして立ちあがった。
まあ! お羽織なしにこの寒ぞらへ!
もしや風邪《かぜ》でも召されては!
と思うとお艶、装《なり》ふりかまっていられる場合ではない。ずっこけた帯のはしをちょいとはさむが早いか、泣き濡れた顔もそのままに羽織を小わきに家を走り出た。
羽織をかかえて露地ぐちまで走り出てみたけれど、どっちへ行ったものか、栄三郎のすがたはもうそこらになかった。
ひっそりとした往来のむこうを荷を積んだ馬の列が通り過ぎていった。
しめっぼい冷たい空気が、町ぜんたいを押しつけている。
ぼんやりたたずんでいるお艶へ、
「小母《おば》ちゃん、そのおべべを持ってどこイ行くの?」
と長屋の子供が声をかけたが、お艶は耳にもはいらぬふうだった。
「やあ! 小母ちゃんが泣いてらあ! 泣いてらあ! やあい、おかちいなあ!」
急に足もとから子供がはやしたてたので、お艶はハッとわれに返って羽織に顔を押し当てた。
「坊や、いい児だね。おばちゃんは泣いてなんかいないからね。さ、あっちへ行ってお遊び」
子供はふしぎそうに振りかえりながら大通りを駈けぬけていった。
お艶は、羽織の袖がひきずるのも知らずに片手にさげて、しょんぼりと家に帰った。
あがってすわってはみたが……広くもない家ながら、栄三郎の出ていったあとはたまらなく淋しかった。孤独の思いがしいん[#「しいん」に傍点]と胸に食いいってくる。
「栄三郎さま」
呼んでみても聞こえようはずはない。かえってわれとわが低声《こごえ》に驚いて、お艶はあたりを見まわしたが、夢中でつまぐっている膝の栄三郎の羽織に気がつくと、こんどはしんみり[#「しんみり」に傍点]とひとりごとをはじめた。
ひとりごと? ではない。彼女は羽織を相手に話しているのだった。
「申しわけございません。おこころに曇りのない正直一徹のあなた様をあんなにおこらせ申して、それもこれも夜泣きの刀のため、おかわいそうな弥生さまのおためとは言いながら、思えば、お艶も罪の深い女でございます」
言葉はいつしかすすり泣きに変わっていた。
「けれども、こうやっていましたのでは、いつになったら埓《らち》のあきますことやら……所詮《しょせん》わたし故《ゆえ》にあなた様をこのままおちぶらせるようなもの――なにとぞお艶をお捨てなされて、存分にお働きくださいまし。一日も早く乾雲丸をお手におさめて弥生様と、弥生さまと――」
つっぷしたお艶、羽織を揉《も》みながらなみだのあいだからかきくどいた。
「それがお艶の一生のお願いでございますッ! でも……でも、こんなにまでして、心にもないふしだらを並べてお怒りを買わねばならなかったお艶のしん中もすこしはお察しくださいまし。あとで何もかもわかりますから、そうしたらたったひとこと不憫《ふびん》なやつと――栄三郎様ッ! 泣いてやって、泣いてやって……」
気も狂わんばかりにもだえたお艶は、ガバッと畳に倒れて羽織を抱きしめた。
別れともなくして別れた男の移り香が、羽織に埋めたお艶の鼻をうっすらとかすめる。
それがまた新しい泪をさそって、お艶はオオオオウッ! とあたりかまわず大声に泣き放ったが、折りよくいつのまにか隣家に近所の子供が集まって、キャッキャッと笑いながら遊びさわいでいたので、お艶はその物音にまぎれてこころゆくまで慟哭《どうこく》することができたのだった。
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まわりまわりの小仏さん
まわりまわりの小仏さん
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となりのさざめきはつのるばかり――お艶も何がなしに幼い気もちに立ち返って小娘のように泣き濡れていた。
出て行った栄三郎の涙と、残っているお艶のなみだと――。
父は早く禄を離れて江戸の陋巷《ろうこう》にさまよい、またその父を失ってから母とも別れて、あらゆる浮き世の苦労をなめつくしたお艶にとっては、義理の二字ほど重いものはないのだった。刀の分離といい弥生の悲嘆といい、すべては栄三郎が自分を想ってくださることから――こう考えるとお艶は、おのが恋を捨てても! と一|図《ず》に決して、さてこそあの、裏で手を合わせて表に毒づくあいそづかし……お艶も江戸の女であった。
何刻かたった。
お艶はじっと動かない。
眠っているのだ。
泣きくたびれて、いつしかスヤスヤと転寝《うたたね》におちたお艶、栄三郎がいれば小掻巻《こかいまき》一つでも掛けてやろうものを。
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